第10話
樹が赴任する先は、数ある開発部の赴任先の中でも圧倒的に治安が悪い地域と隣り合わせな事で有名で、外務省の危険情報では、一応イエロー(十分注意)になるかならない地域まだだったが、いつレッド(退避勧告)が出ても不思議ではないところだった。近隣の地域には外国軍が駐留し、テロも横行しているという危険極まりない場所で、部の中でも明らかに皆から忌避されていて、当然俺は誰もそこに赴任するとは思っていなかった。
にも関わらず、その地域の治水事業はよりにもよって樹が担当していて、当たり前のように樹はそこに赴任する事になったのだ。
誰も行きたがらなかった地域で、しかも必ずしも安全だとは言いがたい。
「父さん達の命日には帰ってくるからな」
そう言って飛行機に乗り込んだ樹の背を見守っていた俺と椿、そして、忙しいのにわざわざ見送りに来ていた海斗さんと三人で樹を見送った。
これから何回か飛行機を乗り継ぎをし、舗装もされていない道路を何時間も車で走って、目的地に着いた頃にはきっと疲れきっていることだろう。
椿は樹の乗った飛行機の機影が見えなくなるまでしっかりと見ていたが、やはり寂しいのだろう。樹から入学祝いだと貰った腕時計をしきりに触っていた。
そんな椿を可哀想だと思いながらも、俺も樹も椿に伝えなかったことがある。
樹が赴任するところについてだ。
樹が椿に何も言わなかったのには、ちゃんと理由がある。
未だに精神科へ通っている椿が、樹が危険と隣り合わせな地域に行くとわかったらどうなるかわからない。残されたたった一人の肉親が、危ないとわかっている場所へ行くには今の椿の精神状態では辛いだろう。
俺と樹の勝手な考えかもしれないが、椿にはこのまま何も知らせない方がいいのではないか。
そう思ったのだ。
なまじ、椿を今も悩ませているネットでの攻撃は続いている。
その悪辣な手口と執拗さに、流石に本家への報告をしなければいけないと俺の判断でご当主に報告した。犯人もわかっているのだが、その犯人と言うのは椿の友達をやっている三神建設の娘で、どうやら鳥谷部楓に懸想しているらしいと言う樹の推測も付け加えた。
樹の推測とは言え、俺はあの時見た樹の嗤い顔が忘れられない。
決して面白いわけでもなく、かと言って嘲笑しているわけでもない。俺はてっきり楓への憎しみからその表情をしていたのかと思ったが、それはどうやら間違いだったようだ。
樹の目には、何も浮かんでいなかった。
怒りも、悲しみも、憤りも。
何も。
「秋?」
はっと意識を取り戻すと、海斗さんが俺を訝しげに見ていた。
どうやら椿も見えなくなってしまった機影を目で追いかけるを諦めたようで、海斗さんと同じく俺を不思議そうな顔で見ていた。
「どうした、ぼーっとして」
「ああ、いや、すいません。…っと、海斗さん、時間はいいんですか?今日大事な会議か何かあるって言ってませんでした?」
「んぁ?ああ、明日に延期になったってさっき連絡あった。全く、あのクソガキ勝手に都合つけんじゃねぇっつんだよ。なあ、椿?」
「はい?」
「お前の婚約者に言っておけ。てめえの都合で仕事の優劣つけんなってな」
はっと笑った海斗さんの笑みは、樹とは違って間違いなく嘲笑が浮かんでいた。
どうやら楓の一声で大事な会議は明日に延期になったらしい。
楓はアメリカの大学でMBAを取得し帰国、そしてそのまま営業一課へと配属になったのだが、自他共に認めるほど優秀だと言う評判通りの実績を残し、同期では異例の早さで出世している。
そんな楓と所属している課は違うものの、海斗もまた成績優秀である。そんな彼等が共同で進めているプロジェクトがあるらしいのだが、詳しくは極秘扱いなのでわからない。まあ、裏で調べようと思えば調べられるのだが。
俺は三神小百合の事を報告し、それは椿の婚約者である楓へも伝わったと思っていた。
だがそれは全くの見当違いだったのか、彼は全く何もしなかった。
いや、そもそも彼が椿のことを気にかけるはずはないのに、俺が『何か』を期待したのだ。
きっと樹にはわかっていたのだろう。
楓が何もしないと。
それを知り、ますます椿が傷付くだろうと。
既に俺の中では、奴に『何か』を期待する事をやめている。
期待するだけ損だし、そうする事で椿が傷付く。
既に俺は完全に椿寄りで、事情を知っているにも関わらず、何もしない本家にも愛想が付き始めていた。
「…兄さん、無事に帰って来るかな…」
ぽつりと零した、椿の本音。
それを聞き、俺は切に願った。
樹、生きて帰って来い。
お前が椿のたった一つの糸なんだ。
いろいろと書いていますが、あくまでも都合のいいように書いています。間違っていたらごめんなさい。