ホラー小説(雨の公園)
曇天の空から、ぽつり、と雨粒がアスファルトの上にあたり、地面から独特な臭いを発していた。
やがて、雨粒は堰を切ったようにドタドタと地面を打ちつけ始めた。 仕事帰りのサラリーマンである西島は、カバンを傘がわりにしたまま、すぐ近くの公園の屋根付きのベンチに取り急ぎ避難した。
くそ、自宅のアパートまであとちょっとなのに、と、西島はベンチに拳を叩きつけた。
西島はふと、周りを見た。黒いワンピースを着た小さな女が横のベンチに座って、雨が降るのを見ていた。西島はベンチに腰掛けるまで女の存在に気づかなかった。
それはまるで、女が公園の遊具か、ベンチの付属品のように存在感が薄かったからだ。
しばらくして、西島はスマホに目をやった。ここに来てから、五分くらいは経っただろうか。天気情報のアプリを開いたら、これから雨足は強くなるでしょう、と教えてくれた。
外はバケツをひっくり返したように雨足は強くなるばかりで、いっこうに止みそうにない。公園内の砂場が、まるで水を張った田んぼみたいになっていた。
「緑、好きなんですか?」突然、黒いワンピースの女がつぶやいた。
西島は、言葉を発するはずのない遊具が喋り出したような、信じられないというような気持ちで、少したじろいだ。
「緑?」思わず聞き返した。「ほら、ネクタイ。緑色だから」女が言った。「ああ」西島がネクタイに目をやる。本来はライトグリーンのネクタイのはずだが、この雨でずぶ濡れになって、濃い緑色に変色していた。「なんとなく、ですね。気分が落ち着くというか」西島が言った。
本当は、去年に別れた彼女から、就職祝いでプレゼントされたものだった。そして、この色のネクタイは全く自分の好みではない、とは初対面の女には言えなかった。
しばらく、沈黙が流れた。
「黒、好きなんですか?」気まずい沈黙をかき消すように、西島が言った。
「私がですか?」女が質問を返した。
「ほら、真っ黒なワンピースを着ているから」西島が言った。
女のワンピースは、西島の服とは違い、雨で濡れている様子はなかった。
ただ、とても着慣れている様子で、女の低い背丈と、まるで世界中の女性の平均値をとったような特徴のない顔にピッタリの服だった。
そしてその顔や服装は、全く西島の好みではなかった。
「好き、というか、着る必要があったからですね」女は言った。
「そうですか」西島は言った。
着る必要があった?意味がわからなかったが、あまり深くは考えないようにした。そして、雨はまだ止む気配はなかった。
それから十分くらい経った。二人の間に会話はなかった。
外を見ると、仕事帰りらしき背の高い外国人風の女性が、大きな傘をさしながら足早に通り過ぎていった。いい女だな、と西島は思った。
あたりは暗くなり始めていて、ライトのついていないこのベンチは鬱蒼としていた。
閑静な住宅街にあるので、人気もほとんどなかった。
西島は、タバコを切らしているせいか、イライラが募り始めていた。
「大事にしてるんですね。そのネクタイ」女が言った。
「大事というか、もらい物でね。本当は好きじゃないんだ」西島がスマホを触りながら言った。
スマホゲーに熱中していたので、今話しかけるな、と言う素っ気ない返答だった。
とっさに、本当のことを言ってしまったことに対しても、気にやる余裕がなかった。
「茜がせっかく時間をかけて選んだのに?」女が言った。
西島は聞き流そうとしたが、数秒したのち、思わずスマホを触る手が止まった。
この女はなぜ茜のことを知っている?心臓がバクバクしているのが自分でもわかった。
「お知り合い、でしたか」西島は平静を装うように、スマホゲーを続けながらいった。
動揺しているせいか、ゲームの内容が全く頭に入ってこない。「ええ。まあ」女が言った。「彼女、元気にしていますか?」西島が言った。心臓の鼓動が速くなるのが自分でもわかった。
「病院で治療を受けていますよ」女が言った。
「病院?なぜ?」「元彼からの度重なるDVによる影響で、精神病院に閉じ込められるように入院しています。一人になると、自分への罪悪感に耐えかねて、すぐ自殺しようとしますからね」女が言った。
西島は、何も言えず、ただただ女の話を聞いていた。
ざあざあという激しい雨の音だけが、ほんの少しの安心感を与えていた。「あなたと別れてから、彼女は何度も自殺を試みましたが、ダメでした。生きてさえいれば、いつか返してもらう時が来るからと、私が根気よく説得しましたから」女が言った。
自殺未遂?返してもらう?西島は意味がわからなかった。
茜とは、良好な関係を気づいていると思っていた。告白してきたのもあっちからだったし、好かれていると思っていた。
でも、本当にドジで、マヌケで、見ているだけでイライラした。だから、少し『教育』が必要だった。外でアイツが恥をかかないように。俺に相応しい彼女が務まるように。愛情のつもりで、西島は茜を『教育』していた。
「悪い。あんたの言ってる意味がわからない」西島は言った。
「そうでしたか。でしたら、結構です」女はそう言うと、にこり、と笑った。
それは感情の変化ではなく、あくまで表情筋の変化、という印象だった。
そして、「ネクタイ、返していただいてもいいですか?茜がせっかく選んだものだし、あなた、気に入ってないようだから」と女が言った。
「あぁ」と西島は声にならない声を発し、ネクタイに手をやった。
この雨とタバコ切れと女との会話で、疲労の限界を迎えていた。
とにかく早く家に帰りたい、と思った。
こんなもので手切れ金がわりになるのなら、と、西島が下を向いてネクタイをほどき始めたその時、
シュッ
と、左の首筋に衝撃が走った。 最初、筋を違えたか、ネクタイが擦れて火傷でもしたのかと思った。
しかしそれは西島の勘違いで、前を見ると、女が鋭いカミソリを持って目の前に立っていた。
「え…?」西島は意味が分からなかった。
西島の首から、大量の血が吹き出した。
しかし周囲は暗くてよく見えず、どしゃ降りの雨が降っているせいか、屋根の外へまで吹き出した西島の血を、まるで自然のシャワーがキレイに洗い流してくれているようだった。
「すみません。ネクタイをほどくのがあまりに遅かったので」 女はカミソリについた血を丁寧にハンカチで拭き取り、カバンに戻しつつ、何かを取り出した。
「あぁ。ネクタイ、汚れちゃいましたね。もう結構です」そう言うと、女はすっくと立ち上がり、先ほど取り出したであろう小さな折り畳み傘を開いた。
それは女の小さな体にマッチしていて、ちょうど良い大きさのようにみえた。
西島は激しい流血と共に、だんだんと全身の力が抜けていくのがわかった。 意識も遠のきつつあり、声を発することもままならなかった。
「では、茜によろしく伝えておきますね」女はそう言うと、振り返ることもなく、公園から立ち去っていった。
傘の色は、黒色ではなかった。




