ナタリエ・ブラウンの場合3
ナタリエ・ブラウン。今世の私は黒髪茶目の地味な伯爵令嬢だ。背は理恵の時と同じくらいだろうか。日本人にしては比較的高めだったが、この世界では多分平均身長くらいだろう。アマーリエの頃は、出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ素晴らしいプロポーションをしていた。一方でくりっとした瞳が小動物じみた、幼げで可愛らしい顔立ちでもあった。男性たちからは常に褒められちやほやされたけれど、令嬢たちからは嫉妬の眼差しを受けるばかりで友達のひとりも作ることができなかった。幸せな結婚のためにとひたすら努力し続けた人生だったのに、そのせいもあって結局は随分短い人生となってしまったのだ。
華やかな美人にはもちろん今でも憧れるけれど、今世の祖母から受け継いだらしいこの黒髪だって、かつての理恵を懐かしく思い出させてくれるし決して悪いものではないと思っている。地味でも平均でもいいではないか。必要以上に目立つ人生は、もう十分に味わったから。
また前回までとの大きな違いとしては、今回生まれ変わったこの世界に魔法というものが存在している点がある。皆はそれを当たり前のものとして捉えているせいか、特別興味を持ったりもしないらしい。これまで夢物語にしか存在しなかったものが現実になり、私としては楽しくて仕方がないのだけれど……。どんなことが出来るのか、誰でもできるのか、どのくらいの時間どのくらいの力が出せるのか?
小さな火種とコップ一杯の水、それから光の灯し方。国民が幼い頃に習うのはだいたいその程度のもので、全く使えない者はいない。だが逆に突出して優れた者も見当たらないのは、もしかすると習った以外の魔法の使い方を想像する力がないのかもしれない。なにせこの国ではテレビはおろか娯楽本さえもほとんど存在しておらず、平民では字の読み書きができない者の方が多いのだ。本というのは上流階級向けの高級品で、製本技術も前世に比べるとまだまだだ。魔法のあるなしでこの文化の発展の差が出来るのだとしたら、それもまた面白い現象だなと思う。
様々な実験を繰り返して分かったことによると、魔法は確かに便利だが決して万能というわけでもないようだ。無限に力を使い続けることは出来ず、一定量を越えるとある程度の休息が必要になる。気分が悪かったりお腹が空いているだけで上手く力が使えなかったりもした。ライターもマッチも火打石も持たないこの国の人々は、いざという時きっと焚き火のひとつも熾せないだろう。皆はそこに危機感を感じないのだろうか?
今思えば、魔法という現象に興味を持ってこのような実験を繰り返してきたからこそ、私はこの年まで生き残ってこれたような気がする。痩せた裏庭に作った畑も、身体を清潔に保つ工夫も、全ては魔法の力がなければ成し遂げられなかったと思う。この知識を広めたらきっと、楽になる人は大勢いるのだろうけれど……。そうして目立った結果として、また背後から刺されるようなことになってはかなわない。だから今度こそ、私は沈黙を選ぶのだ。目立つことによって嫉妬が生まれるのなら、名声など求めない。臆病者だと嗤ってもらっても構わないから、それでも生きていたいのだ。
あの日夫の言葉を聞いて、人生の幸せとは好きな人と結婚することなのだと思い込んでしまった。そうでなければ、彼のために捧げた己の一生があまりにも報われないではないか。必死で尽くしてきた私を『押し付けられた女』だと切り捨てた彼への復讐心も手伝って、転生したアマーリエはただひたすら幸せな結婚をするために努力したけれど。その方向を間違えてしまい、結局若くして命を奪われる結果になってしまったのだ。
多分……幸せとは、そういうことではないのだと思う。二回も失敗してやっと気付くなど、我ながらなんと愚かなことだろうか。
誰かに期待をするから、勝手に裏切られた気持ちになってしまうのだ。その前にもっと、自分で出来ることがあったはず。夫に幸せにして貰おうと思った時点で、自ら舞台を降りてしまっていたのだと思う。
どんな環境におかれたとしても、やりたいことはいつもこの心の中にある。誰に取り上げられることもない、絶対に侵せない場所。私の人生の主役は、他でもない私自身なのだから。
胸の上に手を当てて、そっと呟いてみる。
「幸せになろうね……今度こそ、きっと」
黒髪の女性と金髪の少女がこくりと頷き、笑い返してくれた気がした。
◇
父に呼ばれて執務室へ向かうと、唐突に何かを投げつけられた。咄嗟に風の魔法を使って軌道をずらしたものの、完全には避けきれなかったそれを受け止めた手のひらには一本血の筋が浮いている。これがもし真っすぐに飛んできていたなら、頬のあたりが切れていたのではないか。どれほど気に入らなかったとしても、女の顔だって彼らのいうところの大事な売り物だろうに……こういうところが考えなしなのだ。
私が傷薬を自作していることは知らないはずだが、自然治癒ではありえない早さで消えている私の傷をどう思っているのだろう。己の身体のことでないから、気付いてもいないかもしれない。常識がないのか、はたまた私に興味がないせいか。
ハンカチで軽く手を拭ってから封筒を開く。それは質の良い紙の手触りがして、中には箔押しされた招待状が入っていた。
「──夜会、ですか」
「そうだ。今度のは王家主催だからな、これまでの茶会やなんかとは比べ物にならないほど数多く有力貴族が参加するはずだ。商会の爺からは先日、お前の値段の問い合わせがあったが……いくらあそこの羽振りがいいとはいえみすみす平民にくれてやるのも勿体ないからな。何よりあの業突く張りの爺が貴族との繋がりを得たなどと、でかい顔をしてきたら面倒だ。まだもう少しくらい引き延ばして値が吊り上がれば重畳、お前はその間に貴族筋からもっと条件のいい相手を見繕って来るように。酒に酔った若造など、少し肌でも見せてやれば既成事実を作るのも簡単だろう?」
「……はぁ」
「チッ、なんだその返事は。いいか、分かっているんだろうなっ? その年までうちに置いて育ててやったんだ! 衣食住と恵んでやった分、しっかり家に恩を返せ! ああ──ようやくその忌々しい顔を見なくて済むようになるかと思ったらせいせいするな。年々母上に似てくるお前を間近で見なければならなかった俺の絶望が分かるか? ああ、その目付きっ。全く……やっと死んでくれたと思ったらこれだ、どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって……っ!」
段々自分の言葉に酔って来たのだろうか、顔を赤くした父が手元にあったインク壺を投げ寄越す。苛立つと手当たり次第に物を投げてくる癖はいい加減辞めたほうがいい。蓋が甘かったのか、漏れ出した黒色が机と絨毯に点々と染みを落とした。あれを掃除させられる使用人たちがただただ可哀そうである。何もかも、この男のせいなのに。
床に落ちてころりと転がり、靴に当たったインク壺からじわりと色が広がる。私の髪色と同じ、闇夜のような黒いインクだ。もうこの絨毯は張り替えないと駄目だろう。
この男は一度でも考えたことがあるのだろうか。私もひとりの人間であり、そこには意思があるということを。出て行こうと思えば、いつだってこんなところ出ていけるのだ。鎖で繋がれているわけでもなし、首の座らぬ赤子でもないのだから。確かに普通の令嬢であれば、家から放り出されて生きていけるとは思えない。あっという間に捕まって奴隷のように売られるか、食べるものにも困る中尊厳を保つために自刃して果てるか……。
けれども他でもなく自分たちが、私を普通の令嬢として育ててこなかったくせに。愛されず敬われず何も与えられなかった私がなぜ、この家に対して恩を感じていると思うのだろう? その逆ならまだしもだ。
こんな場所でも利用できる部分があったから、これまで私は逃げ出さなかった。けれどそれももうすぐ終わりだろう。祖母の研究資料だって、ある程度理解したし一部は纏め直して持ち出せる状態になっている。身体的にも十分育ち切り、今ならもう街に出ても自活して生きていけると思う。料理も掃除も畑仕事も、自力でやらなければここまで生きてこられなかった。自分たちにその能力がないからといって、私もそうに違いないと信じ込んでいる彼らとは違う。衣食住恵んでやった分……? 本当に、笑わせないで欲しい。
それに──今世で初めて触れた魔法という力に興味を持ち、人知れず様々な実験をして考察を重ねてきた私は多分、それなりに戦えると思う。人間を害するという覚悟の問題があるだけで、それが生物学上の親であろうがそうでなかろうがもはや大した差ではないのだ。
大声で威嚇し、下手な投擲で野生の動物のように牽制してくるしか能のないこの男よりもずっと私は強いだろう。この世界に生まれた人間は、当たり前に存在している魔法について深く考えることはしない。私が先ほど風を操って封筒の軌道を逸らしたことにも気付かなかったくらいなのだから。
口汚く私を罵る父の口から唾が飛ぶ。生理的な嫌悪を感じ、私は一歩後ろへ下がった。それをどう受け取ったのか、鼻の穴を膨らませてがなり立てる勢いが一層増していく。靴の裏に付いたインクが伸びて、絨毯の汚れが広がった。
汚いな、と思う。
今後どのように生計を立てていくか、家を出るタイミングとその方法。後を追われないようにするにはどうするか、家はどこに借りたら良いか。持っていく荷物とそれを隠しておく場所について。
いよいよ本格的に準備を始めようと心に決めて、思考を巡らせる。
未だ煩く叫び続けている男の言葉はもうひとつも頭に入って来なかった。




