ナタリエ・ブラウンの場合2
「──っ、痛……。本当に、あの長い爪が目に刺さらなくて良かったわ……」
腫れた頬と抉れた傷に薬を塗りこむ。まだ少し染みるけれど、一応血は止まったようだ。目立つ場所だし、傷跡が残らなければいいなと思う。
昨日、また不機嫌な母と屋敷内で鉢合わせて力任せに頬を打たれたのだ。長く伸ばされた爪が頬に当たり、横一線に深い傷が出来てしまった。母も流石にそこまでするつもりはなかったらしくぼたぼたと流れ落ちる血に驚いていたから、しばらくは手を出されずに済むだろうか。
このような暴力を受けたのは今回が初めてではない。言いがかりをつけられていた侍女を庇って叩かれたこともあるし、目つきが悪いとか身なりがみすぼらしいだとか……多分理由なんてなんでもいいのだ。きっと最近熱を上げていた役者に振られでもしたのだろう。パトロンとして優秀ならばともかくとして、お相手にも選ぶ権利はあると思う。十七歳になる娘を持つ自分の年齢をそろそろ意識したほうが良いのではなかろうか。昔ほどちやほやされなくなってきた己の美貌の衰えを、彼女はまだ認められないでいるようだ。ああ、だからこそ私の存在が気に入らないのかもしれない。若さ故に水を弾く白い肌や光を反射する艶やかな髪が羨ましくて、いっそう憎さも倍増するのだろう。
最近は頬を打たれることが多いけれど、髪を切られたら流石に元には戻せない。なるべく母の目に付かないよう、まとめて結んでおいた方がいいだろうか。貴族の娘の髪を切るなどという愚かしい行為はしないだろう、とはっきり言い切れないのが、なんだか悲しかった。
この傷薬は、自分で調合したものだ。以前は言葉での叱責や罵倒くらいで済んでいたけれど、それがだんだんエスカレートして物理的な暴力に変わってきたから。祖母が遺してくれた資料や設備を使い、見よう見まねで作ってみたものである。元は少しでも飢えを満たすために食材を確保するべくこっそり作った庭の畑の一画は、今やちょっとした薬草畑になっている。
足りていない材料もあるし、各工程におけるコツや技術も必要なのだろう。薬草の匂いはきついし、塗ったところは薄っすら緑色に染まってしまうような素人の薬だけれど、今のところ出来てしまった傷は痕に残ることなく治すことができている。多少の魔法的効果も働いているのかもしれない。かつて暮らした世界の薬と比べれば、これでも圧倒的な効能だとさえ言えた。正規の薬師が作っている売り物と比べればまだまだ稚拙な出来だとしても、これがなかったら既に私の身体はボロボロになっていただろう。質を上げるための原因究明や試行錯誤する作業も面白くて、ますます私は薬学に夢中になっていった。実利を兼ねているのだから努力しがいもあるというものだ。
本当は最初の人生の時だって、私はもっと家業の薬学について学びたかったのだ。自分で働いてお金を稼ぎ、何かを成し遂げてみたいという憧れもあった。家の方針で就職する夢は叶わなかったけれど、夫の論文やその資料を読むのだって楽しかったし、許された狭い範囲の中で精一杯努力し続けてきたとは思う。ただ、もし誰の許可も得ず自分の足で好きなところに行き、己が稼いだお金で好きなものを買う自由があったなら──そう夢想するばかりの人生だった。結局願うばかりで何の行動も起こせなかったが故の後悔も正直に言えば、ある。
だからこそ今世は、自由になる時間が持ててありがたく思う。それがたとえ、厄介者として放置されている実情だとしても──学びたいことに関する資料も設備も、必要なものは全て祖母が遺していってくれたから。あとは自分が一歩踏み出すだけで、いくらでも広い世界に飛び出して行けるのだ。
ある日私と同様に母からの理不尽な暴力を受けていた侍女にもこの薬を渡したところ、とても驚いた顔をされてしまった。おそらく使用人たちは、私と必要以上に接触することを禁じられているのだろう。日常の世話もされないし会話もほとんどなかったけれど、逆に言うと彼らの側から積極的な攻撃を受けるようなこともない。時折憐れむような視線で見られることはあったけれど、もしかしたら彼らこそが祖母の代から仕えてくれている者だったのかもしれない。私の黒髪の先に、頼れる女主人の影をみたのだろう。生前の祖母や嫁いでいった伯母のように、現状を打開するような力を持たないことをほんの少しだけ申し訳なく思う。
他家と比べて給金が良いわけでもないし、間違っても今代の当主は尊敬できる主人なんかではありえない。そんなろくでもない職場で粛々と働いてくれている使用人たちは我が家に残る数少ない財産なのに。そんなこともわからず自分の機嫌だけで彼らを切り捨ててしまう両親は、本当に領主としての才能がない。
この先、このままいけばそう遠くない未来に私は他家へ売られるだろう。傾きかけた家の財政の足しにするため──いや、己の欲とプライドを守るためだろうか。自ずと選ばれる行き先など、想像がつく。
さすがにもう、幸せな結婚や恋愛をしたいなどという憧れの気持ちは枯れ果てた。確かにかつて理恵の夫が言っていたように、好きな人と結婚できたらそれはとても素敵だろうと思う。けれど──甘い夢を見続けるには辛いことが多すぎた。
夫への復讐のために行動したから、アマーリエには罰が当たったのだろうか?
あの日周囲を囲んできた男達の中に、見覚えのある者がひとり混ざっていた。咄嗟のことで確証はないけれど、おそらく私に致命傷を与えたのはフランチェスカ・ホルツ侯爵令嬢の侍従であったように思う。クラスメイトであったアマーリエを率先していじめていた彼女の後ろには、いつもあの侍従が影のように控えていた。ナイフでドレスの裾を切り裂いたのも、べったりとかけられたインクも、フランチェスカ様が命じて彼にやらせていたのだ。主人の指示だから仕方がなかった部分もあるだろうが、流石に殺しまでするとは思わなかった。それが高位貴族の流儀だと言われたら私には分からないし、理解したくもないけれど。
フランチェスカ様は、多分フリードヘルム殿下のことが好きだったのだろう。殿下とアマーリエが話しているといつもきつく睨まれたし、その後は決まって嫌がらせが増えたから。侯爵令嬢として幼い頃から殿下と顔を合わせる機会も多かったのだろうし、見目麗しい殿下に憧れの気持ちを抱いていてもおかしくはない。
しかしその割に彼女は殿下に直接近付いて話しかけることはしなかったし、常に扇子で顔を隠してツンと澄ましている様子は恋愛のアピールとして逆効果だったと思う。照れていたといえば確かにそうなのかもしれないけれど……思春期や、年頃の男女の心の機微は難しい。だからといって、殿下と仲良く話す他者を妬み、あまつさえ殺してしまえるものだろうか。
本当に彼女が私を殺す指示を出したのかどうか、今となってはもうわからない。アマーリエはあの時に刺されて死んでしまったから確かめようもないし……それが例え出来たとしても、もう必要のないことだ。
気付けば私はまた、新しく別の人間として生まれ変わっていたのだから。




