ナタリエ・アーベントロート1
みしみしと全身が痛む。なぜか思うように身体を動かせなくて、どうにも怠い。それにしても、眼前に広がる見覚えのない天井は一体どこのものだろう?
「──ここ、は……」
呟いた声は酷く掠れており、ケホケホと乾いた咳が漏れた。
「──お目覚めですか?」
「あなたは……?」
扉から音もなく入って来たお仕着せ姿の若い女性が、慣れた動作で水を差し出してくれる。身体を起こして貰った時に、汗をかいたらしい少しべたつく身体が気になった。
ひとまず水をいただく。程よく冷えたそれはとても美味しくて、身体の隅々まで染みわたっていくようだ。
「ここはミラー侯爵家の客間で、私はカトリンお嬢様付きの侍女でエリサと申します。詳しいことは後程、お嬢様と王弟殿下からお聞きになっていただければと」
「カトリン様の……」
確か……私は王女様に攫われた後ヴィンツェンツ様に助け出され、研究室まで運んでもらったのではなかったか。それが一体何故カトリン様の邸宅にお邪魔することになったのか、皆目見当がつかない。
「ひとまずお熱も下がったようですから、湯浴みをいたしませんか? 数度汗は拭わせていただきましたが、気持ちが悪いでしょうし」
「……ええ、そうね。ありがとう、エリサさん」
「どうか私のことはエリサと」
「でも……」
私はもう、ブラウン伯爵家の籍から抜けたようなものだ。普段は畑仕事や料理なんかをしていて、きっと侯爵家の上級使用人である彼女よりよほど平民らしい暮らしをしていると思うのだけれど。
そもそも実家にいた時だって、こんなに丁寧な扱いをされたことなどないのだ。嬉しいけれど、それよりもずっと戸惑う気持ちの方が大きかった。
「お嬢様や王弟殿下からも頼まれておりますから、ね?」
そう言われてしまっては、頑なに断るのも彼女を困らせてしまう。ひとまず今は頷いておき、今後については詳しい事情を聞いてから判断することにした。
身体を洗ってすっきりし、ゆったりした部屋着に着替えさせて貰う。髪や肌の手入れをしてくれるエリサの手付きは丁寧かつ的確で、流石侯爵家の使用人は教育が行き届いているのだなと感心してしまった。
「──入っても良いだろうか?」
先ほどまで休んでいた部屋の続きになっている応接間で少し休憩していると、部屋の扉が軽く叩かれる。エリサが対応してくれて、入って来たのはヴィンツェンツ様とカトリン様だ。
「──この度は、大変ご迷惑をおかけして……」
「いや、いい。まだ病み上がりだろう、座ってくれ。詳しい経緯を知りたいだろうと思って、ひとまず説明に来ただけだから」
「ええ、そうですわ。ナタリエ様、とても熱が高くて三日ほど魘されておりましたのよ」
「三日も……!?」
カトリン様の言葉に驚いてしまった。私はどうやら研究室で気を失い、そのまま高熱で倒れてしまったらしい。暴力を受けたことや冷たい水をかけられたこと、それから様々な出来事に対するストレスもあったのだろう。原因が複合的だったせいか、ヴィンツェンツ様が調合してくれた薬もあまり効かなかったようだ。身体的な傷や痣などは、軟膏を塗って下さったようで綺麗に治っていたけれど。
「まず……あの王女のことだがな。あの後改めて会食に並んだ食事を調べたところ、やはり違法な薬物が混入されていることが分かったんだ。王女の部屋を調べたところ、その原液も発見された。まあ、強力な媚薬の類だが……依存性の極めて強いものだ。これをもって正式に王族への害意が認められ、即座に強制送還されたよ。あのまま大人しくしていれば、遊学期間が終了した体で穏便に国へ帰す予定だったのにな。病弱だっていう前提からして捏造だったし、ラクレア王国にはきっちり賠償を請求してる。この短い期間でも散々やりたい放題してくれていたようだからな……兄上もここぞとばかりに要求を通しているし、まあ悪いことにはならないだろう。それをナタリエのおかげだとは間違っても言えないが」
「当たり前ですわ……! ナタリエ様はこんな、こんな酷い目に遭って……! 私、友人が大変な時に全く力になれなくて……!」
「カトリン様、そんなこと……」
むしろあの場にカトリン様がいたほうが、きっと大変だっただろう。日常的な暴力に慣れていた私だからこそ、この程度で済んだともいえるのだし。
「ああ、ミラー侯爵家と令嬢には今まさに協力してもらっているからな。──目覚めてここにいるのが不思議だっただろう? 研究室でお前が倒れた後、看病する場所が必要だったんだ。城の中は王女の後始末でバタバタしていたし、でもお前を実家に帰らせるのは論外だ。そんな時、ミラー侯爵令嬢が面倒を見てくれると提案してくれてな。確かにここなら安全だし、ゆっくり休めるだろうとお願いすることにしたんだ」
「客間なら沢山余っていますもの。それに実際、お薬の手配や細々したことも殿下がやって下さいましたから、我が家がやったことなど本当にお部屋を貸したくらいですのよ」
「そうだったのですね……。ヴィンツェンツ様、カトリン様、本当にありがとうざいます」
確かに実家に帰ったところで、あの両親は私の看病などしないだろう。実際幼い頃に風邪を引いた時も、使用人含め誰ひとり世話を焼いてくれたりはしなかったのだから。私自身比較的身体が丈夫であったことと、祖母の遺した資料を見て常日頃から常備薬を調合しておいたからこそ生き延びてこられたのだと思う。
「俺も兄上に呼ばれた時は城に戻るが、そうでなければ側にいるから。安心して身体を治してくれよ」
「──はい、ありがとうございます」
優しく頬を撫でられて、ぼっと頬に熱が上る。温かな琥珀の瞳が私を見つめる視線に、これまでにはなかった甘さが含まれている気がして……。今までは平気で私の方から抱き上げたり、世話を焼いたりしていたはずなのに!
そんな私の様子を見て悪戯っぽく口端を上げたヴィンツェンツ様は、耳元に口を寄せて囁いてくる。
「──なんなら身体を拭いてやってもいいぞ? いつもお前がしてくれているみたいに」
「……っ!」
あれはあくまでも、倒れたヴィンツェンツ様の介護というか、土の付いた身体のままでは衛生状態が悪いからであって……!
上手く言い返すことも出来ない私の頭の中は真っ白で、なんだかまた熱が上がりそうな気がした。
それから数日。未だ私はミラー侯爵家でお世話になり続けている。もうそろそろ体調も落ち着き、普通の食事も取れるようになってきたのだけれど……。
「皮剥けたぞ。口開けて」
「じ、自分で食べられますから……!」
「ん、いいからいいから。果汁が零れるだろ? ほら早く」
「……っ、ん……甘い……」
唇に押し当てられた柔らかな桃の欠片を迎え入れると、濃厚な甘みが口内に広がった。美味しいけれど。美味しいけれど、毎日がこんな調子では心臓が駄目になってしまう……!
私の濡れた唇を親指で拭い、そのままぺろりと舐めたヴィンツェンツ様はにっこりと笑って、手を洗って来るからと部屋を後にした。
「……あんなの、反則……!」
いちいち仕草が色っぽくて、でも楽しそうに笑う顔は可愛らしくて。私が照れたり困ったりする様子を見て揶揄っているのだとは思うけれど、こんなに甘やかされていいのかと不安にもなる。
身体に良い薬湯を自ら調合して持ってきてくれて、少しでも調子が悪いとすぐに気付いてくれて。これ好きだったよな、と私の好物を用意してくれたり、汗をかいたら着替えを手配してくれて。俺が手伝おうか、と結構本気の顔で言われた時には全力でベルを鳴らしてエリサに来てもらったけれど。私の好きな色の服、私の好きな香りの花。話したことはないはずなのに、どんどん好きなもので埋まっていく部屋……。
そういえば、かつて理恵と結婚していたあの男は、妻の好物など何ひとつ知ろうとしなかった。食卓に上がるのは決まって夫の好物ばかりで、理恵の誕生日でさえ友人との飲み会や残業を優先していたくらいだ。それが普通だと、そういうものなのだと思って生きてきたけれど。




