デルフィーヌ・ラクレア6
パチンという鋭い音と同時に痛みが走る。
「──っ!」
「いつまで寝ていれば気が済むのかしら。本当に愚鈍で嫌になるわ!」
左の頬が熱く痺れていて、少し目が開きにくい気がする。もしかして、意識のない間に幾度か叩かれたのだろうか。あちこち痛む身体を庇いつつ、そっと半身を起こす。ここはどこだろう……? 石壁に、冷たい床。狭い部屋の中、正面に見える扉の前にはひとりの女性が立ち塞がっていた。
「ようやくお目覚め? 全く手間をかけさせてくれること。汚いドブネズミの癖に、素早く動くことも出来ないなんてね。良いところなんてひとつもないのに……どうしてヴィンツェンツ殿下はこんなものを重用されるのかしら。母親も娼婦のように下品だと聞いたから、貴女もそっちの技を磨いてきたとか? まあ、殿下だって男性ですものね。それならやっぱり私に頼んで下されば、ずっとよくして差し上げたのに……」
赤い爪をギリギリと噛む、紫の豊かな髪の毛にピンク色の瞳の妖艶な王女様。以前見た時よりも少し疲れたような顔色で、肌荒れが目立つ。
「……デルフィーヌ、王女殿下……」
「まあっ、下女に名前を呼ぶ許可は出していなくってよ。本当に、目障り。貴女のせいで私、近々国へ帰されることになりましたのよ? せっかくヴィンツェンツ殿下と婚約して差し上げようと思って、わざわざこちらから出向いたのに。それが全て台無し。貴女のせいで。ねえ、全て、貴女のせいよ? その罪深さ、お分かりかしら」
ヴィンツェンツ様は先日庭園に顔を出した際、少しほっとしたような表情で笑っていた。ようやく目途が立ちそうなんだと。きっとあの時には王女様が帰ることも決まっていたのだろう。またここに戻って来られる、弟子の作る食事を食べるのが楽しみだと。
「償ってもらわなくちゃ。だって貴女のせいだもの。貴女がいなければ、全て上手くいったはずなんだもの」
ヴィンツェンツ様は最初から、この王女様のことを煙たがっていた。昔から令嬢たちには碌な目に遭わされて来なかったのだと、そのせいで食事をすることさえ嫌になってしまったんだと言って。たとえ私の存在がなかったとしても、きっと二人が一緒になる未来はなかったと思う。王女様が思うようにはいかなかったはずだ。
ふいに彼女は背を屈め、足元から重そうな何かを持ち上げる。
あれは、木桶……だろうか。
「私、これから殿下と食事ですのよ。最後だからとお願いしたら、快く聞いて下さったわ。ふふっ、一度でもあの薬を口にすれば、彼も私の魅力に気付いて夢中になってくださると思うのよ。きっとまだ間に合う……だから、貴女には邪魔をされたくないの。下女は下女らしく、床に這いつくばって掃除でもしていらっしゃいな!」
木桶の中からばしゃっと水が掛けられた。濁ったそれは、一体何に使った汚水だろうか。床に座ったままだった私の身体は、頭の上から足の先までずぶ濡れだ。もともと畑の水やりで濡れてしまっていたのに、その上悪臭漂う汚水まで。冷気が一気に襲い来て、ガタガタと身体が震え出す。
大丈夫、昔だってこうして水をかけられたことはあった。それに今なら、魔法だって使えるから。落ち着いて、王女様がいなくなったら服を乾かせばいい……。
「ふふっ、とってもお似合いよ! それに私、思ったの。私だけ幸せになるのはやっぱり申し訳ないでしょう? だから貴女にも、愛される喜びを感じて貰おうかしらって。そうすればみんな幸せになれるわ。私もヴィンツェンツ殿下も、それから貴女もね。我々王族は、下々の民の幸福まで考えてやる義務があるから……どう? 嬉しいでしょう? まあ──もう二度と会うことはないでしょうけれど、どうかお幸せになってね。あとは彼らがうーんと良くしてくれるわ! アハハハハハッ!」
王女様の言葉に、理解が追い付かない。震える身体を両手で抱きしめながら、ぐるぐると考えた。愛される喜び? みんな、幸せ。彼らが……彼らが?
暗闇に慣れてきた目が、王女様の背後に複数の影を捉えた。端に立っている、身体の大きい……あれは、私を拘束した、あの時の男ではないか。
「じゃあ、後はよろしくね? 適当に使って壊したら、私の部屋に戻ってきてちょうだい」
「──御意に」
肩も、手も、足も、全身がガタガタと震える。靴音を立てて去っていく王女様と入れ替わるように、数人の男たちがじりじりと私を囲んだ。
「……あ……っ、いや……いや……」
首を振り必死で後ずさるも、冷たい石壁に背中がぶつかった。声は掠れ、強張った身体は思うように動かない。
『──邪魔なんだとよ。お前は、目立ち過ぎたんだ』
『高貴な方たちの前に立てないほど壊してやれという依頼もあったし、見えないところに捨ててくればそれでいいという人もいた。しかし一番金を出した方が、お前の命をお望みだ』
あの日現れた男たちは、躊躇いなく私の胸を刺し貫いた。
それで……それで、アマーリエは死んだのだ。
頭がぼうっとして酷い頭痛がする。何か魔法をと思うのに、震える手を持ち上げることさえ出来そうにない。
「──王女殿下の言うことに我々は従うしかない。貴女には悪いが、目を付けられたのが不運だったと思って諦めてくれ。……命までは取らぬから」
高貴な方たちの前に立てないほど、壊す。
迫って来た男たちが私の濡れたワンピースに手をかけた。
ああ、私はこれから、壊されるのか──。
「……ヴィンツェンツ様……」
閉じた瞼の裏に、琥珀の瞳の中に散る金の光彩が浮かぶ。夜空の星のように、宝石の輝きのように、この世の全の美しいものを集めたような。
あの方に触られるのは、いつだって嬉しかった。頬を優しく撫でられるのも。倒れた彼を抱き上げる時に触れる、しなやかな筋肉も。せっかくまた研究に戻れる目途が立ったのに、私がいなくなったら誰がヴィンツェンツ様をソファまで運ぶの? ディディさんはもう身体強化魔法を使えるようになっただろうか。美味しいと言ってくれたスープのレシピを、ちゃんと書き記しておけばよかった。結局食べて貰えなかったスコーンも、今度こそ焼き立てで出そうと思っていたのに。
今後ヴィンツェンツ様は、また誰か別の弟子を取ったりするのかな? ああ、それこそカトリン様なら問題なくお手伝いを出来るのかもしれない。お風呂に入らず汚れた身体を、今度は別の誰かが拭いてあげたりするのだろうか。私以外が。私ではない、他の誰かが。
──それは、ちょっとだけ、嫌だな……。
濡れた髪の毛を力任せに掴まれる。鋭い痛みが走り、ぶちぶちと毛が切れる音がした。
祖母から受け継いだこの黒髪を、綺麗だなと言って撫でてくれるあの手が好きだった。ふざけてぐしゃぐしゃに撫でられるのも、夜会で美しく整えたひと房に優しく口付けられたのも。
私はもう、とっくに彼のことが好きになっていたのだ。
今世は恋愛なんてどうでもいいと思っていた。好きな人と結婚するなんて、諦めていた。前世で失敗してしまったから、今度はひとりでも強く生きていこうと。自分の幸せは自分の中にしかないのだから、と。
でも、必死で探す必要なんてなかったのだ。ヴィンツェンツ様のことを好きだと思う、その気持ちだけで私はとっくに幸せを手に入れていたのだから。こうして人を好きになれる、ただそれだけのことが誇らしい。
簡単な事なのに、今更気付くなんて私は本当に愚鈍だ。王女様の言う通りだと思う。せっかく気付けたこの気持ちを伝えられないまま、私の心はここで殺されるのだ。
ぐらぐらと身体が揺れている。手足が掴まれ、乱暴に引っ張られているせいだろうか。濡れて身体にぴたりと張り付き脱がせにくいワンピースに誰かが焦れて、刃物を持ち出したようだ。先ほど男は、命までは取らないと言った。でも──もしかしたら、ここで死んでしまった方が辛くないのではないだろうか。酷く曖昧になった思考がぐるぐると回る。死にたくない。生きたい。ヴィンツェンツ様に会いたい。怖い。汚い、寒い、逝きたい……。
もし、また次の人生を与えられたなら……その時こそは、ちゃんと伝えよう。好きになった人には、自分の言葉で、手遅れになる前に。




