デルフィーヌ・ラクレア3
「ええと、確か……ああ、ここね」
夜会や茶会で訪れることの多い城であっても、実際歩く機会があるのは会場となるホールの近辺に限られる。私はいつも入場してすぐ両親と別れて会場を抜け出し時間を潰していたから、他の人よりはまだ構造を知っている方かもしれないけれど。
流石に政務を司る部署が並ぶこのあたりには初めて足を運ぶ。忙しそうな文官らしき人達は皆、すれ違う私に軽く頭を下げるとあっさり通り過ぎて行った。夜会の時は足の先から胸元辺りまでをじっとり舐めるように見られるか、逆に何か汚いものを眺めるように眉を顰められるばかりだったのに。普通のドレスを着ているだけで人間らしい扱いを受けられるのだから、ありがたいというかなんというか……。両親から強要されてきた『家の為の行い』は本当に逆効果だったのだなと実感し、苦笑が漏れた。
もっと早い段階であの家から逃げ出していたら、何かが変わっていただろうか? それでもあそこで得たものが確かにあるから、間違いではなかったのだと思いたい。
たどり着いた扉の前で居住まいを正し、軽くノックする。応対してくれたのは見慣れぬ侍従であった。タイミング悪くディディさんは席を外したばかりだそうで、戻り時間の予定は立たないとのことである。
届け物であれば預かりますよと親切に提案して貰ったけれど……今日持ってきた荷物を預けるのは難しいだろう。なにせヴィンツェンツ様は、他者の手を介した食事をほとんど口にしないからだ。私が作った料理は何のためらいもなく食べていたから最初は気付かなかったけれど、その姿を見たディディさんの驚きようを見て事の重大さを知ったくらいだ。まあ、あの研究室に入る人間の中で料理をできる者がこれまでいなかったというだけかもしれないけれど……流石に本人の目の前で調理した料理の中に、怪しい毒物を入れたりは出来ないだろうから。
最近は私のことを信頼してくれたのか、日持ちのする焼き菓子やなんかも作り置きしておけば休憩中に摘まんでくれるようになっていた。おかげで健康状態も随分改善し、細身の身体に少し厚みが増して顔色も随分良くなっている。不意に見せる表情に色気が増した気がするのは、多分関係ないだろう。
それなのに、王女様が来てからまたすっかり食事を厭うようになってしまったらしい。自分で開発した携帯食は口にしているそうだが、あれだけでは本当に必要最低限の栄養しか摂れないはずだ。だからこそヴィンツェンツ様の身体を心配したディディさんに頼まれて、このスコーンを焼いて持ってきたわけだけれど……これを今預けて置いてきたとしても、おそらくヴィンツェンツ様は食べられないだろう。部外者が入って来られない結界のある研究室と、誰でも入室が可能なこの執務室では状況が違うからだ。
「では……また少し時間を置いてから、改めて伺ってみることにします」
「ええ、分かりました。フライス先輩が戻ったらその旨伝えておきますね」
「ありがとうございます」
焼き立てを食べていただくのは諦めなければいけないが、後から魔法で温め直しも出来る。私がそうして料理に魔法を使う姿を見て最初は驚いていたヴィンツェンツ様とディディさんだったけれど、使い方を教えればあっという間に仕組みを覚えて今では同じような魔法を使えるようになっているのだから。
これほど便利な力、普段の生活に活用しないなど損だろう。竈の点火にしか魔法は使ってはいけないだとか、そういう決まりはどこにもないのだから。
「──あなた」
元来た道を戻る私に、横から声が掛けられた。振り向くとそこには、鮮やかな紫色の髪にピンク色の瞳をした豪奢で妖艶な美人が立っている。特徴的な色彩にハッと息をのむ。私は急いで廊下の端に寄り、深く頭を下げた。
彼女こそ、ラクレアの王女様だろう。
「良い香りがするわね。あなたの持ち物からでしょう? 見せなさい」
カツンと靴音が鳴り、下げたままの視界に豪奢な靴のつま先が見えてくる。私はゆっくりと身体を起こし、バスケットの布巾を少し持ち上げた。
「あら……ちょうど良かったわ。ここでの食事はいつも冷めていてあまり美味しくないの。それ、焼きたてでしょう? いただくわ」
後ろに控えていた侍女らしき女性が慌ててそれを止めている。それはそうだろう、廊下ですれ違っただけの見知らぬ者から受け取った食べ物など、他国の王族が口にして良いわけがない。
けれど制止の声をうるさげに手を払って止めさせた王女様は再び私へと顔を向けた。ぽってりと肉厚の唇の下にある、色っぽいホクロが妙に視線を引いた。
「──申し訳ございませんが、致しかねます」
「……はぁ?」
「こちら、頼物でございますれば。ましてや高貴な方のお口に入る検査を受けておりません」
「私が良いと言っているのよ。ぐちぐち言っていないで、早くこちらへ」
伸ばされた手の爪に塗られた赤が目に痛い。
「申し訳ございませんが、致しかねます──どうかご容赦下さいませ」
ここで安易に渡してしまって、もし王女様の体調に異変など起こっては国際問題にもなり得るのだ。食べ物でなければまだ良かったのに……。
控えている侍女は身分が低いのかあまり王女様に対して強く出られないようだし、仮にも伯爵令嬢の身分がある私が対応するしかなさそうだ。本来ならば王女様がろくな護衛も付けずに出歩いているのがまずおかしいのだけれど。病弱だという話は一体どうなったのだろう?
一歩後ろへ下がり、両膝を突く。バスケットを胸に抱えたまま謝罪の体で再び頭を深く下げた。おそらくこの王女様はわざわざ自分も膝を折ってまで、簡素なお菓子を取り上げたりはなさらないだろう。そう思っての行動だったのだが……。
「──下女の分際で随分生意気ですこと」
怒りの滲む声色で呟いた王女様はまた一歩私に近付くと、慣れた素振りでその手を振り抜いた。パンッと乾いた廊下に音が響く。
「──いっ……」
侍女がヒッと小さく声を上げた。
「興醒めだわ。ああ、気分が悪い……もう今日はやめた。部屋に戻るわ」
「はっ、はい……!」
カツカツと靴音が響く。それが聞こえなくなった頃、ようやく私はゆっくりと身体を起した。ジンと熱い頬に触れると、目の下あたりがピリっと痛む。もしかすると少し切れてしまったのかもしれない。あの赤い爪が引っかかったのだろう。
ふぅ、と小さく息を吐き、ようやくの帰路につく。今はあの安全地帯に一刻も早く帰りたいと思った。
「……ここに仕舞ってあったはず」
研究室の棚から小さな容器を取り出す。これは最近開発された傷薬で、まだ一般に販売もされていない物である。料理中油断をして小さく指を切った私に、ヴィンツェンツ様が自ら調合し贈って下さったのだ。
鏡に写る陰気な顔にそっと薬を塗る。瞬く間に消えていく切り傷は何度見ても不思議なものだ。私が見よう見まねで作った薬とは効果が雲泥の差である。まだ材料の薬草が量産出来ないので、市場に出すことは出来ないけれど。
実家にいる頃はしょっちゅうこんな傷を作っていた。父は機嫌が悪いとすぐに手元にある物を投げつけてくるし、母はもっと直接的に──それこそ王女様と同じように──頬を張ったりしてきたから。今日の出来事にもどこか冷静に対応出来たのは、もしかすると同じような経験をしたことがあったからかもしれない。だからといって、ありがたいとは絶対に思わないけれど。
今日はもうここを出る気が起きなくなってしまって、バスケットの中のスコーンをひとつ摘んで一口齧る。すっかり冷え切ったそれは、なんだかもそもそとするばかりでなんの味も感じなかった。
わが国へは遊学にいらしたという、病弱なラクレアの王女様。紫色の長い髪は艶やかで、胸は大きく腰はずいぶん細かった。露出の多い異国風のドレスは色っぽく、けれど妖艶な王女様にはよく似合っていた。ヴィンツェンツ様は今まさに、あの方のお世話を任されているのか。口の中になんとも苦い味が広がる。チョコレートが少しビターすぎたのかもしれない。
その日は結局ディディさんからの連絡もなく、当然私が師匠と顔を合わせることも無かったのだった。




