初めての友人2
「周囲のことは放っておいて、せっかくですから楽しみましょう? 私、こんなに素敵なドレスを着たのは初めてなのです」
「──ああ、そうだな。お前はなんでも似合うが、黒髪に銀の刺繍は一際良く映える」
改めて私の装いを確かめ、甘く微笑むヴィンツェンツ様は演技がお上手だ。琥珀の瞳がとろりと蕩けて、まるで本当に愛しいものを見ているように思えてくる。
さりげなく私の髪に触れ、口付ける仕草をするのは流石に気障すぎではないだろうか。これだもの、惑わされた虫が寄ってきてしまうのも仕方がないと同情さえ覚えるほどだ。
「あ、ありがとうございます。……光栄ですわ」
赤面しそうになるのをなんとか堪え、その眩いばかりのご尊顔からそっと視線を外す。すると数歩先で給仕係が持ってきた赤ワインのグラスをひったくるようにして受け取ったひとりの令嬢が、唇を噛み締め厳しい表情でこちらに駆け寄ってくるところだった。
まさか、そんなことをしたら……!
「──この、毒婦がっ!」
咄嗟にヴィンツェンツ様の前に立とうと足を踏み出した私の肩を、大きな手が掴んだ。そのまま広い背に隠されるよう、庇われる。
女性がきゃっと小さく声を上げ、周囲の貴族たちは息をのんだ。
「グラスを持ったまま移動しては危ないですよ。誰かにぶつかったりでもしたら、大変なことになる」
そっと覗いてみれば、ヴィンツェンツ様の手が彼女の手首を掴み、持ち上げられているようだった。その手の中に握りしめられたワイングラスの中で、水面が大きく波打っている。ヴィンツェンツ様のシャツの袖口には赤い色が点々と飛び散っていた。
令嬢を見下ろすヴィンツェンツ様の表情は氷のように冷たい。全て分かっているのだと、その視線で告げるように。
彼女がまっすぐに見ていたのは、間違いなく私だった。きっと、あのワインをかけて恥をかかせようとしたのだろう。普段品のないドレスで社交の場に出ている私が気に入らなかったのかもしれないし、もしくは以前からヴィンツェンツ様のことが好きだったのかもしれない。あまり公の場に出ないとはいえ、彼はれっきとした王族だ。その地位は言わずもがなだし、一度この麗しい姿を目にすればそれだけで心を奪われても不思議ではない。
睨みつけられた令嬢は、その華奢な肩を大きく震わせている。頭に血が昇って行動してしまったのかもしれないけれど、我に返って自分が何をしでかしたのか実感したのかもしれない。確かにこの場で明確な害意を認めてしまったら、貴族令嬢としての将来は終わりだろう。私と同年代に見える彼女がどこの誰かは知らないけれど、王族に対して不敬を犯した娘を変わらず厚遇してくれる家などそうないだろうから。
「──ヴィンツェンツ様、きっとご令嬢は少しお酒を飲みすぎたのでしょう。酔いが回って足元が覚束なくなることだってありますわ。それよりも、ほらここ。早く染み抜きをした方が良いかもしれません」
「だが……ナタリエ」
「いいのです。──ね? 大丈夫。私は、守っていただきましたから」
「……分かった。君……以後、気を付けるように」
ヴィンツェンツ様が離した彼女の手首には赤い跡が残り、そしてその顔色は青を通り越して真っ白になっていた。
「申し訳……ございませんでした」
頭を下げ去っていく令嬢の背中を無言で見送る。私という存在が彼女をあんな行動に走らせたのだとしたら、ほんの少しだけ申し訳なく思う。けれどどうか……間に合ったのだと信じたい。彼女は少々飲みすぎてしまい、危ない行動とったところを注意されただけで終わったのだ、と。王都の社交界は無理だとしても、領地でひっそりと嫁ぐくらいならばきっと可能だと思う。もしかすると結果的にその方が幸せになれるだなんてこともあるかもしれないのだし……。
こんなことをして、甘いと言われるだろうか。偽善や自己満足ではないかと。それでも良かった。きっと家から放り出されれば、私とは違ってあの令嬢は生きてはいけないだろう。修道院に入れられるならまだいい方で、女性の尊厳ごと奪われるような事態だってあり得るのだ。たった一度の失敗で人生全てを棒に振るなど、寂しすぎるではないか。私は何の因果か、前世の記憶を持ったまま転生する機会を与えられたけれど……それが誰しもに訪れる奇跡だとは流石に思えない。三度目の人生を歩んでいてもなお、私だって未だ正解など分からないのだから。
例え別の人生の記憶をもったままでも、私は今世の人生を精一杯生きたいと思う。それと同様に、あの彼女も自分の人生を自分の為に生きて欲しいと思うのだ。他者のものを羨み妬み、それに執着して目を曇らせているのは勿体ない。自分の幸せはいつだって、自分の心が決めるのだと気付いて欲しかった。それこそ、自己満足でも良い。かつての私たちが、気付けなかったことだから。
厳しい表情をしているヴィンツェンツ様の袖をくいっと引く。せっかくの夜会なのだから、嫌な記憶だけで終わらせたくはなかった。
「ヴィンツェンツ様、少し見せていただけますか? 応急処置だけでもしておきましょう」
「……ああ、分かったよ」
幸い、撥ねたワインはほんの少しのようだ。連れ立って近くの休憩室へ入り、用意されていた炭酸水を手に取った。袖口にそれをそっと振り掛け、綺麗なハンカチで優しく叩く。
「時間も経っていないですし、落ちると思うのだけど……」
学園では流石にワインではなかったけれど、しばしば嫌がらせで飲み物をかけられたものだ。手持ちの服が少ない中、あれこれ工夫しながら洗濯をしたことを思い出す。現代日本ほど優れた洗剤があるわけでもないので、それぞれの汚れに対応した染み抜き方法を見つけるまでそれなりに苦労したのだ。あれらの経験も確かに今生きているし、何より今世は魔法という力だってある。
炭酸水でおおかた綺麗になった袖口を温風でさっと乾かしたら、よくよく見ないと分からないほどにワインの染みは綺麗になっていた。
「──良かった、ひとまずここまで落ちれば大丈夫そうですね?」
あとは夜会が終わってから専門のメイドに手入れしてもらえば良いだろう。口元に笑みを浮かべて見上げれば、思ったよりも近くにヴィンツェンツ様の顔があって驚いてしまった。私自身が彼の袖口をしっかり捕まえているのだから、この距離だって考えてみれば当然のものなのだけれど。
「ああ、凄いな。……ありがとう、ナタリエがいてくれて本当に良かったよ」
私がしっかりと掴んでいたはずの手がいつの間にか逆に握り返されていて、私の瞳をじっと見つめたままのヴィンツェンツ様はゆっくりとその指先に口付けを落とした。普段から畑仕事や水仕事をしているので、他の令嬢たちのように綺麗ではないのが少し恥ずかしい。今日に限っては侍女たちが一所懸命に手入れをしてくれたから、それでもいつもよりはずっとマシなのだけれど。
心臓の鼓動が大きく響いて、ヴィンツェンツ様にまで聞こえていないかと心配になる。私と同様、綺麗に整えられた彼の大きな手のひらが私の肩を引き寄せる。
そっと包み込まれた身体からは、いつもの薬草の香りがした。




