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薬も過ぎれば  作者: 伊織ライ


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ヴィンツェンツ・アーベントロートの場合

 植え替えの作業を終え、降り注ぐ日差しにふと喉の渇きを実感した瞬間。


「──どうぞ」


 背後から現れた白く細い手が差し出したのは、水滴の付いたグラスに注がれたレモン水だった。


「ああ、助かる」

「きりが良いようなら少し休憩にいたしませんか? お茶菓子も用意しましたの」

「ありがとう。貰うよ」


 最近俺に()()()()を志願した彼女は、由緒正しい伯爵家の令嬢だ。にもかかわらず、手ずから茶を淹れたり料理をしたりと予想外の行動ばかりを見せる。

 他者の動きをよく観察しており、必要とされる時に必要な物をすっと差し出す気遣いは見事なものだ。これが城のベテラン侍女かなにかだというのなら納得なのだが、当の本人は美しく年若い貴族の娘なのだから当初は警戒もした。そうはいっても結局は、俺の伴侶の座を狙っているのだろう──と。

 だがしかし、共に過ごしてみて分かった。ナタリエにそんな意図は一切なく、むしろ俺の身分さえも若干疎ましく思っているようなのだ。おそらく王族に対し、どこまで突っ込んだ対応をしていいものか考慮するのが面倒なのだろう。確かにディディもよく言っていた。ヴィンツェンツ様が王族でなければ、そこらで気絶していても頬を打って起こせるから楽だったのにと。乳兄弟の気やすさでそんな失礼なことを言う奴の横でこくこくと頷くナタリエを見て、己の自意識過剰を若干恥じたほどである。

 彼女なりに丁寧な対応をしようと考えた結果、空腹で動けなくなった俺を()()()にして運ぼうとしたのには流石にたじろいでしまったが。あの華奢な身体で、はるかに身体の大きな大人の男を軽々と運ぶ姿など他者に見られればなんと噂されることか。まあ結局背中に担がれることになったのだから、微々たる違いしかなかったのだけれど。


 ナタリエが初めて俺の庭園に迷い込んだあの日も、お目付け役のディディがいない間にと少々の無理を重ね研究に打ち込んでいた。時間の感覚を忘れているうちに食事を数回取り忘れ、また寝不足も重なったせいだろう。襲い来るめまいに耐え切れず、花壇の横で倒れ込んでしまった。少し時間が経って体力が回復するのが先か、ディディが戻ってきて面倒くさそうに助け起こされるのが先か。ぼんやりとする思考の中で、今が寒い季節でなくて良かったなぁなどと呑気に考えていた。

 ゆるく吹き抜ける風が草花を揺らし、緑の匂いが鼻をくすぐる。己が一から作り上げ世話をしてきたこの庭園が俺は好きだ。うるさい令嬢たちが入って来ることもなく、しつこく命を狙ってくる敵対派閥の者たちも結界によって弾かれる。ここは城の中で唯一気の抜ける、まさに俺だけの城だった。

 そんな聖域に、ひたんひたんと聞き慣れぬ音が徐々に近づいて来ている。

 この軽い足音は、ディディでもなければ俺付きの騎士のものでもない。こんなところを狙われれば、流石に抵抗のしようもないではないか。いつまで経っても俺が持つ権力になんとかあやかろうと擦り寄って来る者はいなくならない。これまでも数々の襲撃を受け、それをいなして生きのびてきたというのに。兄上とは良好な関係を築いているし、甥も成人を迎えようやく臣籍降下する見込みもついたこのタイミングで? それでもこの場所だけは、俺の安全地帯だったはずなのだが……。


「──ひっ!」


 身体を強張らせる俺の耳に小さく聞こえてきたのは、息をのむ音だった。高くて細い、これは若い女性の声だろう。

 何も俺の身を狙うのは、権力目的の輩だけではない。この見た目に惹かれた女達だって、あわよくば既成事実をでっち上げようとしばしば罠を仕掛けてくるのだ。他人から差し出された食べ物を口にしてはいけない、女と密室で二人きりになってはいけない、必要以上に距離を近付けてはいけない。これまでの人生において、俺が実地で学んだことは数多くある。

 最悪、片手くらいなら持ち上げられるだろうか。鍛えているとは言えない俺の握力でも、女の細い首であればなんとか締め落とすくらいはできると信じたい。ふらつく身体を捩り、仰向けに体勢を変えた。


「あの、大丈夫ですか? 体調が悪いのですか? 誰か呼びましょうか」


 掛けられた声色に色気は含まれておらず、どうやら純粋に心配をしてくれているようだ。乱れた前髪の隙間から何とか瞼を開くと、数歩先に立つ女性はハッとするほどに鮮やかな赤いドレスを身に纏っている。大きく開いた胸元の白く柔らかそうな肌が目を引いた。明かりの少ない庭園の中、それは自ら光を発し浮き上がっているかのようにも思える。その姿はまるで物語に出てくる、幻の妖精のようだった。

 普通に考えればこれほどに扇状的な格好をしているのだし、やはり既成事実を作って妻の座を得ようとする貴族家の差し金だと言われてもおかしくはない。だが何故だろう、彼女が俺にしなを作って媚を売る様子は全く想像できなかった。そう見せかけることさえも作戦のひとつだというのなら、これは確かに騙されるだろう。知らず俺の眉間には深いしわが寄っていた。

 ぼんやりする視界はしばらく宙を彷徨った後、地面近くへと辿り着く。ひらりと風になびく赤いドレスの裾、その中には細く華奢な足首が見え隠れしていた。小さなくるぶし、綺麗に切り揃えられた爪、足の裏にしっとりとまとわりつく庭園の土。女性の素足など、そう目にするものではない。あるとしたら男女の差も意識されないほどに幼い頃か、もしくは商売女くらいのものだろう。深い胸の谷間よりももっと、見てはいけないものを見てしまったような──背徳感にも似た感情に、湧き出た唾をごくりと飲み込んだ。

 

「大丈夫ですか? どこか痛みますか?」


 手が届くほどの距離に近づいてきた彼女は恐る恐るといったふうにかがみ込み、掠れた俺の声を聞こうと耳を寄せてくる。ふわりと香ったのは花のような甘い香りで、猛烈に俺の空腹を刺激する。

 食事など生命を維持するための最低限でいいと思って生きてきたはずなのに、腹が減ったと感じるのはいつ振りのことだろう。

 

「──ぃた……」

「え? 痛いですか? どの辺が痛みますか?」

「──なかが……いた……」


 なんとか持ち上げた手は、彼女の細い手首を掴んでいた。締め上げるなどとんでもない。ただ……逃がしてはいけないと思ったから。


 その後盛大に腹を鳴らした俺を軽々と抱き上げて運ばれたのには流石に驚いてしまったが。騎士ほどに逞しくはないが、身長はそれなりに高い俺は彼女からしたら相当重かっただろう。それなのに爽やかな笑顔で大丈夫ですよなんて言われれば、俺の精神状況が全く大丈夫ではない。理解の範疇を越えた動きをするこの令嬢を、手首くらいで捕まえた気になっていたのは思い上がりだったのかもしれない。

 騎士などの武人が主に使用する身体強化魔法というのは、確かに存在している。だがそれは物理的に皮膚を硬化させる用途がほとんどで、攻撃を受けた時に外傷を防ぐ為のものだ。ごく稀に熟練の職人で魔力を持つ者が、その職種に関してのみ驚異的な力を発揮するというケースもあるが。鍛造の際に利き手のみ力が増す鍛治師だとか、指先だけの力で繊細な調整をこなす銀細工の職人であったりだとかだ。けれどもそれらは長年ひとつの技を極め続けた者が習得する技能であって、間違ってもこんな若い女性が自分よりも体格の良い人間をひょいと担ぎ上げられるだなんて聞いたこともない。後々話を聞いてみれば、彼女は独自に学んだ知識があり人体構造に関する理解が深かったことと、自分自身がやってみたいと強く願い幼少期から鍛錬を積んだことから会得したのではないかという話だった。


『だって、魔法が使えるってすごく便利ではないですか!』


 ニコニコと笑ったナタリエは、普段から土で汚れた衣服を風と水と光の魔法を混ぜて()()しているのだという。そもそも三種類も魔法を混ぜるだなんて聞いたこともないし、洗うにしても何故光が必要なのかと疑問に思う。


『ええと、紫外線という光には殺菌効果がありまして……こちらでも屋外にいれば日焼けをするのは変わらないから、きっと同じだと思うのですけれど。とにかく汚れと共に、目に見えない菌まで綺麗にする効果を期待して使っています』


 話を聞けば聞くほどに、ナタリエはわけが分からなくて面白い。世間知らずで突拍子もないことを言い出したかと思えば、反対に俺でも知らない高等知識を平然と披露したりもする。魔法を使わせればどれもこれもが見た事のない使い方で、さらには腹を空かせた俺に手早く美味しいスープまで作って食べさせてくれたのだ。

 

 ディディに頼んで急ぎ調べさせた結果、どうやらブラウン伯爵家において彼女は難しい環境に置かれているようだ。よくぞ今まで生きていてくれたと思うほどに……。

 いらないならば、貰ってもいいだろう。

 ここへ自由に出入りできる鍵を持たせれば、恐る恐るといった雰囲気だが時々顔を見せるようになった。顔を合わせるたびに構い、からかい、彼女を手に入れるべく言葉を尽くす。関わりが増えれば増えるほど、惹かれていくのは俺の方ばかりのようだった。土で汚れたまま動けなくなった俺の身体を躊躇なく拭き清め、しまいには下の世話まで焼こうとするのだから全く異性として意識されていないのだろう。流石の俺ももう少し気を付けて生活をしなければと心に刻んだ出来事である。もちろんそちらの世話はきっぱりと断ったが。

 普段はそうして色を全く感じさせない凪いだ瞳をしているくせに、俺が話す薬草の話や薬についてなどは興味深げに表情を輝かせ、自然と距離を詰めて聞き入ってくるのだから始末に負えない。手と手が触れ合いそうなほどの距離で、キラキラとした目で見つめてくるあの上目遣いがどれほど可愛らしいのか、ナタリエ自身だけが分かっていないのだ。


 警戒していたのも馬鹿らしいくらい、興味深くて面白い女。

 かろうじて握った小さな手を離さないように、決して逃げられることのないようしっかりと捕まえておく必要があるだろう。


 部屋の隅に控えているディディに視線を送る。幼い頃から乳兄弟として共に育ってきた頼れる侍従だから、俺の考えていることなど全て理解し恙なく差配してくれるはずだ。

 心は後々、必ず手に入れる。だから今はひとまず、確実に身柄を確保することから考えようか。


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