閑話 ディディ・フライス
ヴィンツェンツ・アーベントロート殿下は現国王陛下の弟で、優秀な研究者でもある私の主人だ。今はまだヴィンツェンツ様が城内に与えられた区画で生活をしているため混同している者も多いようだが、私自身は城で雇われた使用人ではない。去年成人を迎えた王太子殿下は婚約者の令嬢と間もなくご成婚の予定だが、そのお二人に子供が生まれ次第、ヴィンツェンツ様は王籍を抜けて臣下に降ることが決まっている。そうなった際にもスムーズな引継ぎが行えるよう、私はヴィンツェンツ様個人に雇われているのだ。極端な事を言えば、私は王の命令よりも主人であるヴィンツェンツ様の命令を優先するということである。実際は王政である以上断れない命もあるだろうけれど、陛下は無意味にそのようなものを振りかざす方ではない。気概と信頼の話だ。
──何を隠そう私ディディ・フライスは、他の誰よりもヴィンツェンツ様に信頼されている唯一の専属侍従なのである!
ヴィンツェンツ様は昔から、周囲にあまり人を置かれない。幼い頃から王族としての権力争いに巻き込まれ、嫌な思いを沢山されてきたからだろう。ある程度の年齢になってからは、その見目の良さ故に令嬢たちからしつこく絡まれたせいもある。令嬢たちがいかに強かで恐ろしいものかと、当事者でない私までまざまざと思い知らされてしまった。あの嫋やかな微笑みの裏で、ライバルの令嬢たちにえげつない牽制をかます様子など寒暖差で風邪をひくところである。めまいが……! などと言いながら殿下の身体に触れようとする令嬢を止めた時の、お前はすっこんでいろという冷たい視線には背筋がぞっとするほど強い殺意が込められていた。
自分は成人直後にさっさと結婚しておいて良かったとつくづく思う。ヴィンツェンツ様の為に今後の人生を捧げると決め、そのことを告げた際にも彼女は『女性の中での一番にしてくれるなら別にそれでいいわ』と笑って許してくれたのだ。幼馴染として幼少期から交流を続け、今では私生活を完璧にサポートしてくれている妻についてはもっと自慢したい事柄が山ほどあるのだが──一旦それについては置いておくことにする。女性という存在に苦手意識を持つ主に対して、あまり見せつけるのも厭味ったらしいだろうから。
まあそんなわけで、ヴィンツェンツ様の周囲はいつも人手不足だ。臣籍に降ればもう少し楽になるのだろうが、城にいるうちは気を抜くことが出来ない。王太子殿下も大変優秀であるし、ご婚約者の令嬢も順調に王妃教育を修めていると聞く。ヴィンツェンツ様と国王陛下の仲も昔から極めて良好だ。だというのになぜわざわざヴィンツェンツ様を担ぎ出そうとする輩が消えないのか、本当に意味が分からない。ただでさえ忙しいのだから、余計な仕事を増やすなと心から言いたい。馬鹿なのかと。もしくは阿保なのかと。
幾度も食事の中に毒や媚薬やおかしなものを混ぜられたおかげでヴィンツェンツ様はすっかり食事を厭うようになり、研究の合間に自ら開発した携行食を齧るだけで済ませるようになってしまった。確かにあれは兵糧や飢饉の際の食糧として大変画期的な発明品ではあるけれど、だからといってそれだけ食べていれば生きていけるかというと否である。日持ちさせるために水分は少ないし、栄養を重視したため味は二の次だ。なにより、美味しいものを美味しいと言いながら食べることが出来なくなってしまった殿下が可哀そうでならなかった。
そもそもヴィンツェンツ様はあまりご自身を大事になさらない。その有能さ故に周囲の人間に求めるレベルもかなり高いものがあるけれど、身を削るようにして生み出した研究結果はあっさりと国のために手放してしまわれる。国王陛下もそのあたりは常々気にかけて下さってはいるのだが、王族としての教育を受けて育ってきたヴィンツェンツ様はなんというか、公平無私の精神が行き過ぎているのだ。
人手不足故に私自身がべったりと張り付いて世話をすることも出来ず、そんなときに限ってヴィンツェンツ様は殊更無理をしがちだ。おそらくうるさい者がいないうちにとでも思っているのだろう。だからといって食事も取らず睡眠もとらずで働き続けては、倒れてしまうのも当然だ。いくら有能なヴィンツェンツ様とて、身体はただの人間なのだから……。身体が弱いわけでもないし毎回倒れる原因は明確で、必要な栄養と休息を取ればあっさり復活されるけれど、かといってこのまま何の対策も打たないわけにもいくまい。誰も見ていない所で倒れたり、その拍子に頭をぶつけたりなどすれば最悪の事態だってあり得るのだから。
しかしいくら私が注意しようとも、分かった分かったと適当に流されてしまって状況が一向に改善する様子はない。さりとて良案も浮かばず、対処しかねていたそんな時だ。ヴィンツェンツ様の前に、颯爽とひとりの令嬢が現れたのである! これはもう飛んで火に入る……ではなくて。まさに、救世の聖女の如き天からの恵みである!!
彼女の名前はナタリエ・ブラウン。ブラウン伯爵家の令嬢で、この国では珍しい艶やかな黒い髪が印象的だ。先代の伯爵夫人に異国の血が入っており彼女もまた黒髪だったそうだから、そこから遺伝したのだろう。瞳は濃い茶色で、その落ち着いた色味も相まって年齢よりも大人びた理知的な雰囲気だ。すらりと手足が長く、細身だが女性らしい柔らかさもみえる。ここ最近積極的に顔を出すようになった茶会や夜会では、彼女にあまり似合っていない派手な色の露出が多いドレスを着ていることが多いようだ。明らかにサイズが合っていないし、現ブラウン伯爵夫人が同じようなデザインのドレスを好んでいることからして母君の古着か何かなのだろう。そんな奇抜で型落ちのドレスを着ているにも関わらず、背筋が伸びて所作が美しい為だろうか。彼女は周囲の視線をはっと惹きつけてしまうような、不思議な魅力を持っていた。
おそらく年齢的にも結婚相手を探しているはずだが、彼女は夜会会場に入場してすぐ両親と別れると決まって庭などに姿を隠してしまう。そうなってしまえばいくら探しても姿を見つけられないことから、一部の男性たちからは宵闇の妖精などと呼ばれていたりもするようだ。その希少性も相まってか一瞬のタイミングを狙って声をかけに行く男性は途切れることなく、けれど彼女はそつなくやり取りをしてあっさりとアプローチを退けている。落ち着いた佇まいだけでなく、きっと実際頭の回転も早いのだろう。適齢期の男性たちから注目を浴びていることに、当の本人が全く気付いていないあたりには初々しさも垣間見られるけれど……。傍から見るこちらの方がはらはらしてしまうから、どうか己の価値に気付いて欲しいと願うばかりだ。
現ブラウン伯爵が先代からその役目を継いだ後、見事に伯爵領の経営は傾き始めた。多大な持参金と共に娶った夫人は、結婚前から金遣いも気性も荒いと有名な元侯爵令嬢である。結婚したからとてその性格が変わることはなく、婚家の財政も順調に食いつぶしていっているようだ。嫡子となっているのはナタリエ嬢の弟であり、成人までまだあと数年かかる。下手したらそれまでもたない可能性もあるのではないだろうか。本来ならナタリエ嬢が婿を取って跡取りとなるのが最も家を存続させられる可能性のある道だが、あの親子の様子を見るにその線はないと言い切れるだろう。大きな声では言えないけれど、私の立場からしてみればその事実を『幸運なことに』と評させてもらいたい。流石に貴族家の跡取りをこちらにいただくのは多少の手間がかかるからだ。
当のご令嬢はといえば、ブラウン伯爵家と当主夫婦の評判が悪い為に直接的なアプローチを受けることがなく実感がないのだろう。己が各所から目を付けられ、虎視眈々と狙われている事実を知ればどう思うだろうか。彼女自身は間違いなく美人だし社交の立ち回りにもそつがなく、同年代の令嬢と比べ落ち着いていて安心感もある。愛人にするにはもっと頭が軽くて華やかな女性を望む男が多いだろうが、結婚するには彼女のような落ち着きを好ましく思う者が多いのだ──身勝手な話だけれども。
彼女の自己評価の低さから薄々予想はしていたものの、急遽調査をした結果は案の定。実の親たちからの直接的な暴力や心無い言葉によって、自らが醜く価値のないものだと刷り込まれて育ってきたようだ。むしろあの環境で、よく今のように真っすぐ清廉に育ったものだと思う。両親に対して冷めた視線を向けることはあれど、食事さえまともに与えられない環境に追いやられていたことを考えると寛容とさえいえる。どこの貴族令嬢が、自分の食事を確保するために裏庭で畑を自作するというのか。粗末な服を着て市井の市場で日用雑貨の買い物をする、その慣れた動きが彼女の暮らしぶりを如実に表していた。
あの日彼女がヴィンツェンツ様に振舞って下さったという素晴らしい料理の手腕を育てたのが、実家でのクソみたいな環境だと思うと素直に喜べないけれど。それもまた殿下とナタリエ嬢が出会うために必要な状況だったというのならば、せめて祈らせてもらいたい。互いに苦労を重ねてきた二人だからこそ、今後の人生においては幸せだけを感じて生きていって欲しい、と。
何はともあれヴィンツェンツ様の庭園で運命的な出会いを果たしたお二人は、その後順調に仲を深めている。といってもナタリエ嬢の方には相変わらず野心や色めいた視線など一切なく、こちら側としては若干やきもきしているくらいなのだが。これまで女性たちからのそういった露骨なアプローチを嫌悪し退けていたヴィンツェンツ様でさえ、彼女に対しては喜々として権力を使い手駒を動かし、全力で囲い込みにかかっている。
あの方に、大切だと思える相手が出来て本当に良かったと思う。例え自分を大切に思えなかったとしても、大事にしたいと思える人がいればきっと気持ちも変わるであろうから。
そしてお二人の気持ちはともかくとしてもだ! 予想以上にナタリエ嬢は優秀な力を持っていて、私たち裏方の仕事が格段に楽になったという点がなにより素晴らしい。目を離したすきにあちこちで腹を空かせて倒れたり、土の上で仮眠をとったりするヴィンツェンツ様を確保し部屋まで運ぶのは案外大変な仕事なのである。
けれどもナタリエ嬢はあの細腕にも関わらず予想もしない魔法の使い方で大の男をひょいと担ぎ上げ、汚れた服を嫌がりもせず介助し、慣れた手つきで食事の世話までしてくれて。そんなことが出来てしまう彼女がヴィンツェンツ様の元へ辿り着いたのは、やはり神の思し召しだっただろう。私があの日うっかり庭園の結界を張り忘れたとか、そういうことでは決してない。ないったらないのだ。
だから出来る限り早く、ナタリエ嬢には受け入れて欲しい。
出会ってしまった以上はもう、ヴィンツェンツ様は貴女を手放したりしないだろうから。




