ナタリエ・ブラウンの場合7
銀色に輝く鍵が音もなく回り、庭園に下りる扉が滑らかに開く。太陽の光が燦々と降り注ぐ地面に、靴のかかとがさくりと沈んだ。
「──また……。尊い御身なのですから大切になさいませと、あれほど……!」
「んっ……ああ……ナタリエか……」
まさに今起きましたといった風情でころりと寝返りをうつこの方の姿を、あれから既に幾度も目にしている。頬に土くずを付けたまま視線だけでこちらを見上げてくるのは、きっとまたお腹が空きすぎて立ち上がれないせいだろう。
「今日こそ、横抱きにして差し上げようかしら」
「そっ、それは勘弁してくれ……」
「でしたらきちんと休憩をお取りになって。民の健康のために尽くす貴方様が己の健康を蔑ろにするだなんて、そんなの本末転倒でしょう」
首の後ろに腕を差し入れ、背中を支えて上体を引き起こす。今日は夜会用のドレスではないから、もたつかなくて動きやすい。支えればなんとか自力で歩けそうだということなので、私の肩に腕を回させてゆっくりと立ち上がった。身体強化を使っているとはいえ、ここで腰から立つとぎっくり腰が怖い。力の入らない成人男性と私とでは相当な体重差があるからだ。かつての理恵も苦労したから、よく覚えている。
「今日は……土の状態を見ていただけなんだ。寝不足だったし暖かかったから、そこで少し眠くなってしまって……」
気まずそうにもごもごと言い訳をする彼は、もはや白衣とも呼べない汚れた作業着を羽織っている。銀色の髪の毛はボサボサで顔にかかり、指先は草の汁で緑色に染まっていた。また睡眠時間を削って研究をしていたのだろう。気持ちが分からないではないけれど……。
兄王殿下にもたいそう可愛がられているという、稀代の研究者であるヴィンツェンツ殿下。既にいくつかの病の特効薬を開発し、その名は他国にまで轟いているとも聞く。そんな方がまさか、こんなに生活力がないなんて想像もしなかった。
「またスープで良いですか? 少し多めに作っておきますから」
「ああ、ありがとう。前に作ってくれた、芋が入ったやつがいいな。腹持ちが良くて助かるんだ」
「本当はパンも食べて欲しいのですけれど……。流石に私も、パンまで焼いていく時間はないですから」
今日だってお茶会の途中で抜けて、ここまで来ているのだ。散らばった洗濯物を回収してまとめ、軽く床を掃除するくらいが限界だろう。いつの間にか私用にと用意されていたエプロンをかけ、手早く材料を刻む。なるべく具沢山にして、栄養を摂って貰えるように。
「……もう、ナタリエはずっと俺の隣にいればいい」
ぽつりと呟かれた言葉に心臓が大きく跳ねる。手元が狂い、転がっていくじゃが芋を追いかける指先が震えていた。
──私も、そうできたらと思っていたから。
受け取ってしまった鍵を返さなければと急ぎ登城した私が再び庭園に足を踏み入れると、そこにはあの日の再来かとでもいうようにヴィンツェンツ殿下が倒れていた。放っておくわけにもいかず再び研究室の中へと運び入れ、簡単な食事を作って恐々差し出した。ついでに荒れ果てた室内を軽く掃除し、一仕事終えたと満足して家へ帰ったのだ。自分が何のために足を運んだのだったか、すっかり忘れたままで。
同様のことが数回続き、いつの間にか私の中でここに来る理由が変わってしまったのだと思う。ヴィンツェンツ殿下のことが心配で、なんだか放っておけなくて。そして何より、この方のお役に立ちたい……と。
考えてみれば、毎回侍従のディディさんが不在だったのはおかしいのだ。もしかすると、何らかの意図があってこうなるように誘導されたのではないかとも思う。けれど例えそうであっても、確かに私は楽しかったのだ。息のしにくいあの家を出て、薬草の爽やかな香りが漂うこの場所にいられる時間が嬉しかった。最初はヴィンツェンツ殿下に対して緊張もしたけれど、あまりの生活能力のなさに呆れているうちに気負わず接することが出来るようになった。彼もそれを許してくれたし、評判の悪い家の娘と知りつつもひとりの人間として尊重してくれた。私の魔法の使い方を評価し、自分も使えそうであれば積極的に取り入れてみたり。料理を作れば美味しいと言って食べ、掃除をすればありがとうとお礼を言ってくれる。薬草について問えば分かりやすく教えてくれて、研究室にある資料も自由に読んでいいと許可してくれた。祖母の資料とはまた違った方面でまとめられたそれらはまさに、私にとっては宝の山に見えたのだ。
今は、父に命じられたお茶会や夜会に出席する際に会場を抜け出した空き時間でここに来ているけれど。それではやっぱり時間が足りなくて、やりたいことの一割も出来ていなかったのだ。それにもしそうこうしている間に父が私の結婚を決めてしまったら……もうここには来られなくなってしまうだろう。学びたいことはまだまだあるのに。教えたいことも、教えて貰いたいことも沢山あるのに。
本当は近いうちに、あの家を出て行こうと思っていた。そのための準備も進めていたし、暮らしていける自信もあった。けれど、今あの家を出て私が平民になったら……やっぱり私はもう、ここには来られなくなるのだ。貴族令嬢ではなく、そして城の使用人でもない人間にはこの場所まで入って来る権利がないから。
許されるなら、ずっとここにいたい。ずっと、ヴィンツェンツ殿下の横に立っていたい。その希望を叶えるには……。
「私を、弟子にして下さいませんか?」
くたりとソファに腰掛けていた殿下が、さっとこちらを振り返る。
「……弟子」
「私、殿下の元で薬学をもっと学びたいのです。使えると便利な魔法もまだ沢山考えてあって、それもお伝えしたいですし。ご覧の通り料理や掃除も出来ますから、雑用でもなんでもいたします。だから、どうか……ここに、この場所に居られる権利を与えては貰えませんでしょうか」
ディディさんはヴィンツェンツ殿下に直接雇われているのだと聞いた。だから私も、ブラウン伯爵令嬢ではなくただのナタリエとして殿下の側にいたい。
くつくつと煮える鍋の音を聞きながら頭を下げると、おかしそうに笑う声が聞こえた。
「ああ、いいぞ。まぁその鍵を渡した時点で準備は出来ていたようなものだけどな。お前の覚悟が出来たなら、近くに部屋も用意しておこう。研究では一昼夜かかることもあるから数部屋押さえてあるんだ、そのひとつを使えばいい。俺の知ることならいくらでも教えるし、お前の知ることは俺にも教えてくれ。そして自分の分のついででいいから俺の食事も用意してくれよ、俺はもうお前の食事なしでは生きていけそうにないからな」
「それは……本当に、良いのですか?」
今だって、時々研究の手伝いを頼むことがあっても弟子と呼ばれる人はひとりもいないのだ。あくまでも彼らは城で雇われた使用人であって、ヴィンツェンツ殿下の専属はディディさんという侍従のひとりだけ。そこに、そんなあっさりと私を加えてくれるなんて……。
「他でもない俺自身が良いって言ってるんだから、良いに決まってるだろ。俺が、お前を選んだんだ」
「──っ、はい、誠心誠意お仕えします……!」
もうあの家に帰らなくてもいい。嫌なものを見るような目を向けられることもないし、理不尽な暴力を受けることもない。着たくもない下品なドレスを着せられて、周囲から陰口を叩かれ品定めをされるようなこともない。そんな場所を、ヴィンツェンツ殿下は与えてくれるという。私はようやくこれから、私として自由に生きられるのだ。
「お仕え……うん……まあ、とりあえず……あの家から引き離せたらいいか? あとは追々、距離を縮めていくってことで……」
喜びの感情に舞い上がる私の耳に、ヴィンツェンツ殿下の呟きは届かなかったのだった。




