ナタリエ・ブラウンの場合6
正直に言って、タウンハウスまでどうやって帰ってきたのか一才の記憶がない。気づいた時にはドレスを脱ぎ捨てお風呂に入り、ベッドに潜り込んだところだったのだ。両親はまだ帰っていないらしいから、きっと馬車は城に残したままだろう。
「……はぁ……」
瞼の裏に、あの美貌の笑みが蘇る。
まず第一に……私は王族直轄の研究室とそれに付随した庭園に、無断で侵入した……ということになるのだろうか。いや、入ってはいけなかったのなら鍵をかけておいて欲しかった。開いていたならお咎めはない、か……? けれど流石に、倒れていた王族を担ぎ上げたのは不味かった気がする。安易な気持ちで身体強化魔法を試そうなどと思わず、素直に騎士を呼べば良かったのだ。その上、素人がその場で適当に作ったスープを食べさせてしまったと……。毒味こそ一応したけれど、あれで殿下の体調が悪化していたら私は死罪になってもおかしくないのではないだろうか。いや、倒れている殿下を助けたということで多めに見てもらえたりする? でも私が使う魔法を殿下は危険視をしていて……けれどそれは私が薬を学ぶものとして除外されたと思っていいのか……分からない。色々やらかしすぎていて、いったいどれが最もヤバいのかが全然分からなかった。
最終的には、全力ダッシュで逃げてきてしまったし。
「──っ、そういえば私、あの場で名乗ったかしら……?」
咄嗟のことで頭が真っ白になってしまったけれど、それが一番のやらかしのような気がする。王族に対して挨拶もしていないだなんて……。
「──でも、逆に言えば……私が誰だか分からなければ、捕まったりもしないのでは……?」
まさか貴族令嬢が自分より大きな男性を担いで移動したり、畑から抜いた野菜で料理をするなんて普通は思わないだろう。たまたま居合わせたメイドかなにかが迷い込んでお世話を手伝ったとか、そういうことにはならないだろうか。ちょっとおかしなドレスを着ていた点には、体調不良だったのだし気付かないでいて欲しい。
これまで出席した夜会でも、ヴィンツェンツ王弟殿下を見かけたことなど一度もなかったのだ。きっとあまりそういう場には出られないのだろうし、私があの区画に近付きさえしなければもう二度と会うことはないだろう。謎のメイドがひとり城から消えたのだと、どうかそういうことにして貰って……!
ほんの少し見えてきた希望を胸に、小さく息を吐く。なんだか身体がずっしりと重く感じ、気絶するようにそのまま私の意識は闇に飲まれていった。
が。
「──お客様がいらしておりますので、早急にお支度を!」
翌朝使用人に叩き起こされた私の前には、王弟殿下の遣いだという侍従が大変爽やかな笑顔で立っていたのであった。
「ああ、貴女がナタリエ・ブラウン伯爵令嬢ですね? 私はヴィンツェンツ・アーベントロート王弟殿下付き侍従のディディ・フライスと申します」
どうぞお見知りおきをと言って綺麗な礼をしたその男性は、栗色の髪に深い緑色の瞳で銀縁の眼鏡をかけている。すらりと細身で背が高く、きっちりと着込まれたお仕着せが真面目そうな印象を与えた。
目を細めて笑うその表情は一見無邪気にも見えるけれど──何故だろう、私の背中にぞくりと寒気が走った。だって、私は昨日、名乗らなかったのに……?
「え、ええ、初めまして。トーマス・ブラウン伯爵が娘のナタリエと申します。申し訳ございませんが両親はまだ昨夜の疲れが残っているようで、支度が整っていないのですが……」
「ああ、構いませんよ。もとより今日は貴女にお話があって来たのです」
やはり王族ともなると、一度出会っただけの見知らぬ人間だってあっという間に身元を調べ上げられてしまう力があるのだろうか。前世とは違い、ここにはインターネットも緻密な写真の技術もないはずなのに……。
今世でもまた私は若くして断罪されてしまうのだろうかと、小さく指先が震えた。けれど向かいに座る男性の声は相変わらず穏やかで、目が合うとにっこり微笑み返してさえくれた。
「昨夜は我が主人が大変お世話になったとのこと、代わってお礼申し上げます。つきましてはこちら、令嬢のお忘れ物と──主人からのお礼の品でございます」
「お、お礼……? そんな、私は何も。ほんの少し手を貸しただけですから」
「いえいえとんでもございません。本来であれば私があの後主人を回収して、言い訳や文句ばかり並べたてる口に携行食を突っ込まなければならないところでした。たまたま私が不在のタイミングであんなことになって、主人も私に世話されるより貴女のような麗しいお嬢様に優しくされて感慨もひとしおだったでしょう。その細腕で彼の方を運ぶのも大変でしたでしょうに、ましてや食事の支度までしていただいたとか。我が主人がまともなものを口にされるのは奇跡に近いことなのですよ。おかげさまで今日は元気が有り余り……自分も一緒に連れて行けと駄々を捏ねるので、置いてくるのが大変でした」
はははと笑う彼の笑顔が少し仄暗い。そりゃあ、王族自ら臣下の屋敷に足を運んで礼を告げるなどあり得ないことだ。朝からそんな攻防をしてきたのなら疲れもするだろう。お腹を空かせて土の上に倒れる姿からも薄々察してはいたけれど、王弟殿下は随分破天荒なお方のようだ。
さりげなく断ってもどうやら引いてくれそうになく、これ以上はかえって失礼にあたるかもしれないと差し出された品を受け取った。ひとまず、大きな方の蓋を取る。中には毒々しい赤色をした私の──母のお下がりの──靴が収められていたのだった。
はっと息を呑む。昨日はとにかく混乱していて、どうやって帰ってきたかも覚えていないくらい慌てていたけれど……。まさか、私は靴を置いたままにしてきてしまっていたのか。確かに庭園の入り口できつい靴を脱ぎ捨てた記憶はあるし、研究室から駆け出した時には足取りが軽かった。あれはスカートのスリットのおかげだけではなく、私が裸足だったから……。
今更そのことに思い至り、頬がかっと熱くなる。せめてあの時の王弟殿下が、私の素足に気づいていませんようにと願うしかなかった。
恥ずかしさを誤魔化すように俯いたまま、もうひとつの小さな箱を手に取ってみる。手のひらに乗るくらいのそれはアクセサリーのケースにも似ているけれど、指輪には大きすぎるし腕輪には小さすぎるくらいの微妙なサイズ感である。
そっと蓋を開けると、中には銀色に輝くひとつの鍵が収められていた。
「これは……?」
「あの庭園に出るための、扉の鍵になります。研究室の扉も同じもので開きますから、どうぞお持ち下さいませ」
眼鏡の奥の瞳を細め、にっこりと笑う彼が一体何を言っているのかよく分からなかった。
「なぜ、こんなものを私に……?」
あの場所は、王族直轄の研究室だと聞いた。まさかそんな所に一介の伯爵令嬢ごときが入り込んでいいわけがないではないか。
確かに庭園の薬草は興味深かったし、ヴィンツェンツ王弟殿下と言えばこの国有数の研究者でもある。先の戦争で取り入れられた兵糧も彼が開発したもので、軽くて腐りにくく栄養価は高いと一時期大変な話題になっていた。そんな人に聞いてみたい話はたくさんあるし、普段どのように研究をしているのか見てみたいとも思うけれど……。
「我が主人が是非、ブラウン伯爵令嬢にと。庭園を明るい時間にも見たいとのことでしたし、これからはいつでもお好きな時に来ていただいて構いませんよ。門兵にも話は通してありますからね」
私が呆然としている間にさらりとそのようなことを告げたと思えば、では近いうちにまたあの場所で会いましょうと爽やかに挨拶をして帰って行ってしまったのだった。
穏やかかつ真面目な好青年風に見えたのは見せかけだったのかもしれない。最後に振り返って笑う彼の顔には、明らかに混乱している私を面白がっている色が見えたのだから。流石はあの王弟殿下付きの侍従と言っていいのだろうか……。
「返しに行かなくちゃ……」
あの様子からして、返しても受け取ってもらえるかどうかは分からないけれど。でも、王族の職場の鍵だと思うとこんなもの怖くてどうしたらいいのか分からない。肌身離さず持ち歩くべきなのか、それとも鍵のかかる箱にでもしまって隠しておくべき? 人払いはされていたから大丈夫だと思うけれど、この家の人間を信用していいのかどうかも定かでないのだ。ひとまず無事返却するまでは自分で管理していた方が良いだろうと判断し、妙に重たく感じる鍵を胸元に隠すようにしながら私は自室へと戻ったのだった。
今日が夜会の翌日で良かったのかもしれない。あの両親はきっと午後まで起きては来ないだろうから。図らずも王弟殿下と繋がりの出来てしまった私を、彼らはよくやったと褒めるだろうか。それとも、勝手なことをしたと叱るだろうか。どちらにしてもその顔は見ていられないほどに醜悪なのだろうなと、容易に想像できてしまう事実が少しだけ悲しく感じた。




