ナタリエ・ブラウンの場合5
「ええと……ひとまずここで寝ていると風邪を引きそうですね。どこか近くに休めるところはあるかしら」
これからどんどん夜は深まり、気温も下がってくるだろう。せめて屋根のあるガゼボでもと周囲を見渡していれば、その男性の手は弱々しく一方向を指差した。
庭園の奥、入ってきた扉とは反対の側に見える立派な建物だ。庭師の休憩小屋には見えないけれど、本人があそこを指しているのだから入室の許可は得ているのだろう。
「あの中で休めるのですね? では、ひとまずあちらへ行きましょうか」
ボサボサの前髪の奥、庭園のわずかな灯りに反射した男の瞳が瞬いた。
後から思えばあの時、廊下に戻って騎士か誰かを呼びに行けば良かったのだ。自分より頭ひとつ分近く大きな成人男性を、ドレスを着た令嬢が支えるなんて普通に考えればまずあり得ない話なのだから。けれど私には、それが出来るという自信があった。かつて介護していた義母も私より体格が良かったし、その後は夫の面倒だって見ていたのだ。お風呂などは流石にヘルパーさんの助けを借りていたけれど、いつも誰かが側にいるわけではなかったし……確かに大変ではあったけれど、コツを掴めば小柄な女性でもなんとかなるものである。そして何より、今の私には前世と違って魔法という素晴らしい力があるから。これを上手く使えば、ヘルパーさんや専用の器具なしでも大概のことは出来るだろう。理論上間違いないという自信があったし、まだ人間相手に試したことはなかったから──正直に言えば、魔法の実験としての興味が優ってしまったのだ。
「では、動かしますね?」
男性の頭の側に回り込み、ひとまず上体を起こすことにした。自分の筋肉を強化して、体幹をしっかり意識する。ドレスの裾が土に付いて汚れたけれど、ざっくり入ったスリットのおかげで動きやすいのはありがたかった。ちらりとこちらを見た彼が若干たじろいでいる。意思の疎通は問題なく出来ていたので大丈夫だと判断したけれど、もしかしてめまいなどがあったのかもしれない。
倒れたりしないようしっかりと背中に腕を回し、私自身の身体にもたれさせるよう引き起こす。こうしてみるとやはり彼は随分背が高いようで、直接触れた身体にはしなやかな筋肉が感じられた。
「どうしようかしら……このまま脇の下と膝下に手を通せば抱き上げられると思うけれど……」
所謂お姫様抱っこである。
先程まで倒れていたのだし、あまり頭部を揺らさない方が良いだろうからなるべく安全な体勢で運ぶべきだろう。
呟いた私に、男性はぐりんと顔を向けて必死の形相で口を開いた。
「やっ、やめてくれ──っ! ゴホっ、ゲホ……っ!」
掠れた声で急に大声を上げたものだから、むせてしまったようだ。背中をさすると苦しそうにしながらも、もう大丈夫だと小さく手を振っている。
まあ確かに、大人の男性が横抱きにされるのは気恥ずかしいものなのかもしれない。意識がないならともかくとして、これほど主張が出来る状態なら多少の揺れが身体に障ることもないだろう。
「では、背負わせていただきますね」
重い荷物を運ぶなら背中に乗せるのが一番楽だ。座った彼の前に屈み、腕をとって首に回させる。太ももの辺りを掴み、膝に力を入れてひょいと立ち上がった。
なにぶん身長差があって彼の脚が長いので引き摺らないようにするのが大変だけれど、建物までの距離はそれほど遠くない。柔らかい土の地面をぺたぺたと歩く私の背中に乗った男性は身体を強張らせたままで、もう少し力を抜いてくれた方が運びやすいのになと少し笑ってしまった。
「扉、開けられますか?」
身体強化魔法を使っているとはいえ、流石にこの状態で片手を離すのは危険だろう。ただ単純に私の力を強くしているだけだから、手を離せば普通にずり落ちてしまうのだ。固定に関しても何か魔法で使えるものがあれば、いざという時相手を拘束したりするにも便利そうだなと思う。植物魔法で蔦を巻きつけるだとか、そういう技もアニメか何かで見たような気がするし……。
背中越しに声をかけると、首の前で組まれていた手が伸びてきてドアノブを押してくれた。見えた室内はどうやら研究室だったようで、実験器具や素材などが乱雑に散らばっている。隅の方には応接セットが据えられており、あそこなら座って休むことが出来そうだ。
使ったままの茶器が放置され薄汚れた毛布のようなものが背もたれに引っかかり、本来の意味での応接セットとしては使われていなかったようだけれど……。そのソファやテーブル自体は近くで見ると、案外質が良さそうだった。
先程まで地べたに転がっていたこの男や、彼を抱き上げるため膝をついた自分の服には未だ土が付いている。このまま座らせてしまっては、もしかするとソファまで汚れが移ってしまうかもしれない。
「先に少し服についた汚れを落としますね。風が吹きますから、目を閉じていて下さい」
「……は?」
彼を背中におぶったまま、風の魔法を使う。身体の周囲で掃除機を使うようなイメージだろうか。他人に対して行うのは初めてだから上手くいくか不安だったけれど、自分とぴったりくっついた状態だからそれほど難しくなく汚れを落とすことが出来そうだ。
土やなんかの汚れが渦を巻き、一箇所に集まっていく。それらを空気で圧縮し、ひとつの塊にまとめておいた。後で忘れず拾って捨てておこう。
「これで多分ソファに土は落ちないでしょう。では、下ろしますね?」
そっと膝を折り、男の身体をソファに座らせる。ずるりと外れた腕が座面にぶつかり、ぽすんと軽い音を立てた。
「ああ、あのキッチンは使っても? 鍋も……あら、新しいのかしら」
僅かに埃を被った調理器具が棚に仕舞われたいたため、それらを拝借する。包丁は見当たらなかったため声をかけると、呆然とこちらを見ていた男が腰からナイフを抜いて差し出してくれた。頼んでおいてなんだけれど、先程会ったばかりの人間に刃物を貸してしまってよいのだろうか。まあやろうと思えば武器がなくとも魔法があるのだし、その辺りの感覚は前世と異なるのかもしれない。
材料は許可を得てからもう一度建物の外に出て、手頃な野菜をいくつか収穫してきた。倒れるほど空腹であったなら、あまり重くない食べ物の方がいいだろう。綺麗にした鍋に水を張り、根菜類と出汁代わりの干し肉を少し入れことこと煮込む。塩で味を調整し、体力を回復させる効果のある薬草を一枚千切って添えた。薬として調合したものに比べれば微々たる効果だけれど、この葉は香りもいいのでアクセントになるのだ。
「──お待たせしました。食べられそうですか?」
くたりと背もたれに寄りかかったまま、目だけでこちらを追っていた男はゆっくりと身体を起こしてこくりと頷いた。けれど持ちあげようとした手は細かく震えていて、器を持てそうには見えない。低血糖か何かだろうか。本人が病気ではないというのだから、私はその言葉を信じるしかないのだけれど……。
彼の横に私も腰掛け、スープをひと匙掬う。少し迷ったけれど、一口目は私自身で食べて見せた。薄めだけれど、悪くない味になっていると思う。ナイフを借りた相手に今更かもしれないが、これで悪いものは何も入れていないという証明になるだろうか。作っている様子をじっと見られていた気配があったので、どうかその辺りは信頼して欲しい。匙にふぅと息を吹きかけて少し冷ましたものを、彼の口元へそっと差し出した。
「はい、あーん」
「──っ……」
食事の介助も散々経験がある。汁物は綺麗に食べさせるのが結構難しいのだけれど、身体は起こせているからまだましだ。スプーンが形の良い唇に触れると、恐る恐るといった様子で男はスープを口にした。それを味わいながらも、前髪の隙間からこちらを伺っている気配がする。今世ナタリエとして生まれ変わってからは手料理を他人に食べさせるのは初めてだけれど、味はどうだろう……?
「……うまい……」
「そうですか? 良かった。ではもう少し」
その後は柔らかく煮えた具も含め、ぱくぱくと綺麗に食べきってくれた。一皿がなくなる頃には手の震えも落ち着いていたし、声の掠れも良くなって体調は随分よくなっているようだった。
茶葉はストックのものがあったのでそれを使ってお茶を入れ、彼が飲んでいる間に使った食器類を片付けていく。シンクが小さくて使い勝手はよくないが、そこは水魔法を併用して洗い物を済ませた。
「その魔法……君は、魔術師なのか……?」
背後から声がかけられた。肩越しに振り返ると、相変わらず私の作業をずっと観察していたようだ。
「──魔術師、というのがどういう存在なのか私は知らないのですが……」
魔法についてはその存在を知ると同時に興味を持った。これまでの人生では空想上でしかありえなかった現象だし、夢中になるのも仕方がないことだと思う。この黒髪のせいで両親は幼い頃から私を遠ざけていたし、居心地の悪い屋敷の中で魔法について学ぶ時間は現実を忘れさせてくれたから。
光や風など危険性の比較的少なそうなものから練習を始め、前世知識を使って工夫を凝らした独自の魔法を開発するのにもそれほど時間はかからなかった。前世のアマーリエは美容とファッションに関心を向けていたけれど、今世のナタリエが興味をもったのがこの魔法と薬学だったのだ。凝り性というのは生まれ変わっても引き継がれる性質なのかもしれない。時間の許す限り鍛錬を積み試行錯誤を重ねたせいなのか、私の魔法の練度は多分かなり優れているのだと思う。なにせこれまで私と同じように様々な魔法を使う人間を、一度も見たことがないのだから。
「古文書には魔法を自在に扱い、万の兵をひとりの力で殲滅する者が存在していたと……」
「いえ、そのようなことは決して致しません……! 私が出来るのは先ほどのように自分が持つ筋力を強めたり、水や風を手元で操ったりする程度のものですから。ひとりで出来ることなど、他の皆様とほとんど変わらないかと……!」
確かにこの世界の人々はあまり魔法に重きを置いていないとは思う。もっと可能性はたくさんあるはずなのに、聞いたことも見たことも考えたこともないから他に試してみようという発想も生まれないのだろう。もしくはこの彼が言うように、そのような魔術師がいたのだとしたら。あえて意図的に人々が魔法の力を忘れるよう、操作した為政者がいたのかもしれないけれど……。
かつて私は魔法の練習に熱中しすぎて、突然気を失うように昏倒してしまったことがある。あれはおそらく、自分の中にある魔法を使うための素のようなものが枯渇して起きた事象ではないか。時間の経過で回復したから良かったけれど、多分人間が使える魔法の量にはある程度の限界があるのだ。万の兵をひとりで殲滅するような魔術師が本当に存在していたのならば、その人が持つ魔法の素の量がとんでもなく多かったのだろう。私は自分自身の身を魔法で守ることは出来ても、その力を戦争のような場で役立てることはできないと思う。本職の騎士様方が私のように魔法を工夫して使えば、今よりずっと戦力が上がる可能性はあるかもしれないが。
あれこれと持論を説明する私に、彼はなるほどなといって頷いた。人と違う力を見せるということは脅威として迫害される可能性もあるのだと、想像もしていなかった己の迂闊さに唇を噛む。前世で暮らしていた世界に存在していた便利な道具や科学技術を再現できたらと、ただそれだけの軽い気持ちでいたけれど……。
「ああ、怯えさせてしまったか。決して君の力を利用しようだとか、そういうつもりで言ったのではない。女性が己の身を守る術を持つのは良いことだと思うし──ただその発想力が素晴らしいなと感心していただけなんだ」
身体についた汚れを綺麗にしたり、料理や片付けにと器用に振るわれるその力を無意味な暴力に使えるようには見えないしなと男は小さく笑った。
「それに君には薬学の心得もあるだろう? 料理に使っていた薬草……あれは、偶然の選択ではないはずだ」
「……はい、祖母が残してくれた資料を読んでの独学ですが」
「薬学とは人の身体を癒すための知識だ。その道を志す者が無闇に他人を傷付けるはずがない」
それはつまり、彼もまた同様なのだろう。
私は今日初めて、心からの笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。私はもっと薬について学んで、心身の不調を抱えた人たちの役に立てればと思っています。ですからここの庭園の薬草は本当に素晴らしくて……丁寧に世話をされているのも分かります。まだ見たこともない種類の薬草もあって、明るい時間にももっと見せていただきたいくらい……!」
「ははっ、そうか。そう言ってもらえると、頑張って世話をしている甲斐があるな」
明るい声で笑いつつ、徐に目の前の男はボサボサの銀髪をかき上げた。
現れたのは形の良い額で、凛々しい眉に鼻筋は通っている。そして何より──少々鋭い印象の瞳は琥珀色をしていて、真っ直ぐにこちらを見据えた虹彩には星のような金色が散っていた。
「──っ!」
この国において、その瞳の特徴を持つのは……。
圧倒的なオーラに気圧されて、握り締めた手の指先が小さく震える。
「ここは王族直轄の薬学研究室だ。俺の庭園を気に入ってくれたなら嬉しいよ」
「……ヴィンツェンツ、王弟殿下……」
その満面の笑みが、何よりの答えで──自分がここまでに成した事柄がひとつまたひとつと脳裏に浮かんでは消えた。
これ、完全にやらかしたのでは……? 真っ白になった頭で出来る限りの謝罪の意をこめて頭を下げると──スカートの裾を翻し、私は一目散で逃げ出したのだった。
「しっ──失礼致します……!」
「あっ、ちょっ、おい……!」




