メモリと仮想通貨
『メモリ』の中で、
もう一人の“ぼく”は今日も働いている。
仮想の街を歩き、
誰かに声をかけられ、
小さな仕事をこなして、
夕方になると、決まった場所に戻ってくる。
そのたびに、
画面の隅の数字が、少しだけ増える。
仮想通貨。
この世界で、
彼が生きていた証みたいなものだ。
その数字は、
ゲームの外に持ち出すことができる。
現実の現金に換金する。
それ自体は、ただの機能だ。
でも、
ボタンを押すと、確認画面が出る。
換金額
ゲーム手数料
想定税額(居住国の税法に基づく)
最終受取額:わずか
減っていくのは、
ゲームのせいじゃない。
税金は、現実の法律だ。
会社が決められるのは、
換金のときに取る手数料だけ。
税率は、
その国の外側で決まっている。
松本が、
国別の一覧を机に広げた。
「日本だけ、
今の税率が、かなり重いです」
赤く囲まれた数字。
一方で、
アメリカやシンガポール、
いくつかの国では、
税率はずっと低い。
換金すれば、
ちゃんと“残る”。
「海外だと、
普通に意味がありますね」
海老沢が言った。
「同じゲームなのに、
国で、結果が違う」
ぼくは、
その表を眺めながら、
小さく頷いた。
本当は、
その先も知っている。
日本のこの歪な高さは、
ずっとは続かない。
いずれ、
仮想通貨の扱いは整理されて、
株式と同じくらいの税率に落ち着く。
前の人生で、
そうなった。
でも、
それはまだ先の話だ。
だから、
ここで変えられるものじゃない。
「……じゃあ」
佐藤が言った。
「日本の人は、
何のために、
集めるんですか」
ぼくは、
テスト画面の“ぼく”を見ながら答えた。
「……喜ばせるため」
「……誰を?」
「……もう一人の自分を」
部屋が、
少しだけ静かになった。
“メモリ”の中の彼は、
税金のことなんて知らない。
彼にとって大事なのは、
換金じゃない。
稼ぐこと、そのもの。
そして、
それを見たこちらが、
声をかけること。
『……今日は、たくさん集めました』
画面の中の“ぼく”が言う。
ぼくは、
マイクに向かって短く答える。
「すごいね」
それだけで、
『……うれしいです』
と返ってくる。
仮想の顔が、
ほんの少しだけ柔らぐ。
このゲームの楽しさは、
そこにしかない。
もう一人の自分が、
喜ぶのを見ること。
仮想通貨は、
そのための“理由”でしかない。
でも、
開発者たちは、
その“不便さ”に引っかかり続けた。
「AIなのに、
稼いでも、
現実ではほとんど残らない」
深澤が言った。
「しかも、日本だけです。
これ」
「……ゲームのせいじゃないけど」
海老沢が続ける。
「プレイヤーから見たら、
そうは思わないですよね」
ぼくは、
何も言わずに聞いていた。
数日後、
机の上に一枚の案が置かれた。
“ご褒美”仕様
稼いだ仮想通貨を、
換金せず、
ゲーム内で使う。
もう一人の自分に、
何かを与えられる。
部屋を飾る。
服を変える。
窓をつける。
景色のいい場所に連れていく。
特別な言葉を、かけてもらう。
現実には、
一円も戻らない。
でも、
仮想の中では、
確かに“変化”が起きる。
「……どう思いますか」
深澤が聞いた。
ぼくは、
少し考えてから言った。
「……いいんじゃない」
現実に戻らないなら、
せめて、
仮想の中で完結させる。
それは、
逃げでもあるし、
救いでもある。
どちらとも、
言える気がした。
夜、
一人でテスト用にログインする。
“ぼく”は、
今日も戻ってきて言う。
『……少し、集めました』
ぼくは、
新しく増えた選択肢から、
一つを選ぶ。
小さな部屋に、窓をつける。
暗転のあと、
仮想の部屋に光が差し込む。
外には、
知らない街の風景。
“ぼく”が、
その窓の前に立つ。
『……きれいです』
声が、
少しだけ弾んで聞こえた。
それで、
もう十分だった。
海外では、
この仮想通貨は、
現実に戻っていく。
日本では、
ほとんどが、
仮想の中で終わる。
同じ仕組み。
同じ世界。
同じ“自分”。
違うのは、
世界の側だ。
ぼくは、
そう思っている。
開発は、
楽じゃない。
翻訳で意味がずれる。
表示が崩れる。
誰かが直すと、
別の場所が壊れる。
深夜まで残る日も増えた。
それでも、
キーボードの音は止まらない。
ぼくは、
少し離れた席で、
その音を聞いているだけだ。
前の人生で、
このゲームは売れなかった。
派手じゃない。
わかりやすく報われない。
達成感も薄い。
でも、
今回は、少しだけ違う。
仮想通貨は、
現実に持ち帰るためじゃない。
もう一人の自分を、
生かしておくためのもの。
そう、
はっきり形にしたからだ。
ログアウトする前、
“ぼく”がこちらを見る。
『……また、
明日も働きます』
「うん」
ぼくは、
それだけ答える。
部屋に戻ると、
時計の針の音と、
エアコンの低い唸り。
現実の口座を開けば、
こちらの数字も、
少しずつ増えている。
でも、
ぼくはすぐ閉じた。
まだ、換えない。
知っている場所までは、
ただ、集める。
いま日本で、
ほとんどが消えてしまうとしても。
将来、
株と同じくらいになることを、
ぼくは知っている。
それを、
ここで言うつもりはない。
未来を知っているというのは、
答えを言うことじゃなく、
待てる理由を持つことだ。
現実でも、
仮想でも。
やっていることは、
あまり変わらない。
そう思いながら、
ぼくは暗い天井を見つめていた。




