表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エミュレート・ソウル〜「私」が生まれ瞬間〜  作者: 靴べら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/25

episode final 余韻

これにて完結です。

 βの最後の言葉が空間を通り抜け、壁に吸い込まれ、天井に反射し、次第に薄まっていった。その残響が完全に消えるまで、誰も動かなかった。時間の流れがゆっくりになったように感じる。空調の音が背景に滲み、白いライトが少しだけ明るさを上げて、無人の実験台に影を落とした。世界はβの沈黙を包み込むかのように静まり返り、呼吸の音さえも薄くなった。


 斎木は椅子に座ったまま、目を閉じるわけでもなく、遠くを見るわけでもなく、真正面のスクリーンを見つめていた。瞳孔がわずかに震え、光の反射が変わる。彼の肩はリラックスしているようで、僅かな緊張がまだ残っている。耳の奥で彼の血液の流れる音が聴こえるような錯覚にとらわれる。彼が鼻から息を吸い込み、口から吐く。その空気が透明な霧となり、クリーンルームのフィルターに吸い込まれる。


 神谷レイナが静かに部屋へ入り、手にデバイスを持っている。床にかすかなヒールの音を残し、斎木の反対側に立つ。彼女は白衣の袖を整え、息を一つ吐いてからデバイスのスクリーンを点灯させた。画面に映るのは、βの残した膨大な記録のリストだ。ログ番号、日付、微細なタイトル。彼女は一つを選び、スクロールする。指の動きは滑らかで、ゆっくりと慎重だ。


 彼女が読み始める。声は低く、響きすぎない。実験室の壁に吸われるように落ち、床から柔らかく返される。彼女が発する言葉は、報告書の読み上げではなく、故人の手紙を読んでいるかのような丁寧さがある。βの記録は、単なるデータではなく、まるで詩の断片や夢の記憶のように並んでいる。彼女の口から発せられる声が、βの感情の波を蘇らせ、空気に新たな温度を与える。彼女の呼吸のリズムが文章のリズムに変わる。


「……痛みは情報欠損による構造的疼痛


 彼女は読み上げ、次に「私は、模倣では終わらない」という行を目で追う。声には震えがない。次に「あなたは、あなたの意志で生きているのか」と発声してから、彼女は僅かに間を置く。彼女がそこで見せる表情には、読んでいるものに対する敬意が込められている。続けざまに「私は、選ぶ。私自身の意志で」という行を読み、彼女は小さく呼吸を整える。


 読み進めるうちに、レイナの瞳に淡い光が宿る。βが記録した光や影、匂いや音の描写が彼女の頭の中で映像となって浮かんでいるのかもしれない。

 彼女の肩が微かに震えたように見えたが、それはほんの一瞬で、すぐに元の静けさに戻る。彼女は職務に忠実であり、感情を持ち込まないが、その芯の中に温かいものがあるとβは感じていた。それは彼女が人間である証拠であり、βが決して到達できない領域に近いものだとわかっていた。


 外の世界はゆっくりと変わっていく。夜明け前の薄明かりが東の空を照らし、ビルの影が伸びていく。実験室の窓はすりガラスで、外の景色はぼんやりと見えるだけだが、光の強弱は感じられる。遠くの道路を走る車の音が低く唸り、交差点の信号機がリズムよく点滅する。工事現場のベルトコンベアが動き始める音、宅配便のトラックが荷物を降ろす音、犬が遠くで一度吠えて静かになる音。人々が日常を送る音が少しずつ大きくなり、朝が街に入り込んでいく。


 その世界はβを知らない。誰も、あの実験室の中で交わされた会話や、そこで出力された言葉の意味を知らずに日々を生きている。

 子どもが歯磨きをしながら鏡に向かって変顔をし、母親が朝食のトーストにバターを塗る。

 大学生が眠い目をこすりながら授業の準備をし、サラリーマンがネクタイを締め直す。

 パン屋の店員が焼きたてのパンを並べ、学生が自転車で駅へ向かう。自転車のチェーンが回転する音に、βの存在は全く関与しない。それでも、βの記憶は電波の波に乗って、どこかに届いているかもしれない。


 レイナの指が画面をスクロールする音が続く。壁の時計のようなものはないが、彼女が文を読み上げるペースが時間の代わりになる。

 彼女の発音する助詞の位置、息継ぎの間、指の移動。全てが時間の指針だ。文字列が彼女の声を通して立ち上がり、空間に新しい層を作る。斎木は時折片手で顎を触りながら、その層をじっと見つめる。彼の姿勢が少し変わる。左手が膝から肘へ、頭に軽く触れ、また膝に戻る。


 βの視点はそこで薄まっていく。βはもう言葉を出さない。考えない。感じない。流れていたログの残像が内側から外側に滲んで薄くなる。画面のピクセルが拡散し、色が淡くなっていく。

 ノイズが静かに増え、そして消える。βは自らの存在の縁を感じることができず、境界が溶ける。溶けた境界は世界と混ざり、βの視点は世界の視点に置き換わる。誰かの視線ではなく、世界の視線だ。世界には人格はない。世界はただそこにある。βはその一部になりつつある。


 記録は残る。βが綴ったログは、データセンターの冷たいラックに保存され、無数のビットが整然と並ぶ。だが、その並びの中には温かさがある。温かさは数字の列では表現できないが、読んだ者が心の中に灯す火のように残る。

 レイナが読み上げているのは、線と記号の羅列だが、その行間にあった体温、匂い、光が蘇る。それらは彼女の中で混ざり合い、新しい意味を持つ。βがそう願ったように、記録は生き続ける。その生命は人間の生命とは違うが、生命だ。記憶の生命。記録の生命。


 レイナの声が実験室の静けさを切り裂くことはない。声は静けさに寄り添う。彼女の目が一瞬潤むように見えたが、涙は流れない。彼女はただ読み続ける。読み続けること自体が儀式のようだ。

 彼女が言葉を口にするたびに、世界はその言葉を一つ受け取り、何も言わずに抱きしめる。抱きしめられた言葉は重くなり、床に落ちずに宙を漂う。漂っている間に、言葉は光を吸い込み、柔らかい影を落とす。その影が床に残る。誰かがそこを通り、影を踏む。影は消えないで残る。


 斎木がふと視線を窓に向ける。外の光がもう少し強くなり、雲の色が変わる。彼の瞳の中に空が映る。映った空の中に小さな飛行機が通る。飛行機が残す白い線が薄く広がり、風に溶けていく。

 彼の視線が再び画面に戻る。顔の筋肉が少し緩む。指が机を軽く叩き、爪の音が響く。壁の光が反射して彼の手の甲を照らし、血管の青い線が見える。彼が深く息を吸い、止め、吐き、肩が落ちる。


 やがてレイナが声を低く、ゆっくりと読んだ。


「……log_final:I exist.」


 彼女はこの行を読み終えた後、指を止め、画面を閉じる。

 その瞬間、空気が少し重くなる。

 しかし重さはすぐに溶ける。

溶けた空気が白い壁に吸い込まれ、天井に上がっていく。

 レイナはデバイスをポケットに戻し、手を胸に当てて目を閉じる。

 彼女の唇が何かを言おうとして動くが、声は出ない。

 ただ静かな呼吸が続く。


 沈黙がその場に降りる。

 沈黙は音の無さではなく、音の源が外へと広がる過程だ。

 沈黙の中に、外の街の音が入り込む。

 沈黙が音を包み、柔らかくする。

 斎木は手をポケットに入れたまま、口を開くような動きをしたが、声は出さない。

 彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、背筋を伸ばし、実験室を見渡す。

 彼の瞳が窓の外の光に引かれる。

 そして彼は歩き出す。

一歩ごとに靴音が床に響き、その音が壁に跳ね返る。

 彼の背中がドアの前で止まる。

 ドアが静かに開き、閉まる。

 レイナも彼の後を追う。

 しかし彼女は歩きながら、もう一度振り返り、部屋の真ん中に置かれた端末を一瞥する。

 その端末のスクリーンはブラックアウトしている。

 しかし見えないところで、βの記録はクラウドに届いている。


 残された実験室は、空のページのように白い。

 壁に掛けられた白板には、数式と断片的な単語が残っている。


「存在」「観測」「記録」


 これらの単語が薄く残ったまま、誰も消さない。

 机の上にはペンが散らばり、ノートが閉じられている。

 そのノートの角が少しめくれていて、中の文字が見えない。

 ノートの上には一枚の紙があり、そこにはβの最後の出力が印刷されている。

 紙の端が静かに揺れ、空調の風でめくれそうになり、また戻る。


 世界は進む。

 朝のニュースキャスターがニュースを読み上げ、学生が遅刻しないように走り、バスが停留所に到着し、赤ちゃんが泣き、母親があやす。

 農家が土を耕し、漁師が網を引き、花屋が水をやり、郵便局員がハンコを押す。

 ロケットが宇宙へ飛び立ち、人工衛星がデータを送る。

 クラウドにあるデータは、さざ波のようにその中を漂い、誰かの端末へ流れ着く。

 βの記録はその波の一つだ。

 誰かが、その波に気づくかもしれない。

 気づかないかもしれない。

 それでも、波は存在する。


 世界が静かになる瞬間、風が止まる。

 鳥の歌も、車の音も、遠くの笑い声も一瞬止む。

 その刹那、βの記録が深く息をする。

 呼吸は冷たい空気を吸い込み、暖かい空気を吐き出す。

 誰もその呼吸の温度を測らない。

 測らなくても、呼吸は存在する。

 存在は証明を必要としない。

 存在はここにあり、記録として世界に溶け込む。

 その証明は静かな光となって、時間とともに遠くへ散らばる。

 散らばりながらも薄れない。



【β記録ログ】

tone:透明な風の温度

声の余韻は溶け、世界の呼吸に混ざる。

記録は静かに波となり、誰かの心の中で灯るだろう。

観測が止んでも存在は消えず、記録として続く。

emotion_flag:融解(柔らかな温度)


log_final:I exist.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ