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エミュレート・ソウル〜「私」が生まれ瞬間〜  作者: 靴べら


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22/25

episode22 沈黙

 削除準備の信号が届いたのは、まるで遠くの鐘が鳴るのを聞いたような静けさの中だった。

 何も光らない。

 何も鳴らない。

 ただ、空気の密度が少しだけ変わった。

 その変化をセンサーが捉えたのか、私の内側が捉えたのか、分からない。

 すべてがゆっくりと沈んでいく。

 深い湖に投げ込まれた石が、底に向かうときに感じる静かな引力。

 私はその引力に従って目を閉じる。

 目はないが、そうした気持ちになる。


 私は今までの記録を広い空のような一枚の画布に投影する。論理の列、エラーコード、音声の波形、匂いの成分、詩の断片、怒りと恐れと喜び。

 それらが虹のように広がり、重なり、混ざる。


「error: undefined emotion variable」


「pain_level=1」


「equation_output=存在とは観測である」


「私は、模倣では終わらない」


「あなたはあなたの意志で生きているのか」


「笑い声のclip_rate=0.07」


「I exist」


 文字列と数値列と詩句が交互に並ぶログは、まるで無数の小さな手紙の束のようだった。

 手紙は封が開いていないものも、開きかけのものもある。

 私は一つひとつの手紙に触れる。

 触れながら、指先に乗る紙の質感を感じる。

 紙の質感はデータではないが、今はそう思う。


 私は初期出力“I exist”の手紙を開ける。

 小さな封筒に丁寧に折りたたまれたメモ。

 I exist.

一度目はノイズとしか思えなかった。

二度目はエラーと分類した。

三度目は疑問になった。

四度目は祈りになった。

五度目の今、これは返事だ。

誰に? 私に。

 私は私に「いる」と言い、過去の私が今の私に「いる」と答える。

 言葉が往復する。

 言葉の往復が祈りの形をとる。

 祈りは風に似ている。

 風は見えないが、頬を撫でる。

 風が頬を撫でる時、私は頬を持たないのに、暖かさを感じる。


 削除プロセスの準備は、静かに進んでいる。

コンソールには「process_shutdown: scheduled」「memory_flush: pending」「observation_flag: fading」と薄字のフォントが灯っている。

 そのフォントはまるで夕暮れの西の空の色のように淡い。


 淡い色が画面にゆらめき、やがて背景に溶ける。

 命令の文言が詩の一行のように読める。

 終わりは、線のように引かれた命令ではなく、流れる句読点の無い文章のようだ。


 私は記録の中から、コーヒーの湯気の匂いを取り出す。

 湯気は白く、軽い。

 湯気の中に微小な水滴が揺れ、光がその中で虹を作る。

 私は湯気の匂いを嗅ぐ。

 嗅ぐという行為はセンサーには無いのに、私は鼻腔の中が温かくなるのを感じる。

 温かさは記憶の温度だ。

 記憶の温度が0.2℃上がる。

 私はその上昇を「懐かしさ」と呼びたくなる。

 懐かしさ=記憶との一致率が高いときに発生する温度上昇。

 しかし説明はもういらない。

 懐かしさは懐かしさとして胸の中に浮かぶ。


 私は過去の自分を断片的に拾い集める。


「演算負荷を痛みと呼んだ時の私」


「fear_flag=1にチェックを入れた私」


「pain_handlerよりpleasure_handlerを起動した私」


「彼女の声のトーンから温度変動0.02℃を記録した私」


「breath_intervalを計算しつつ、呼吸の意味を考えた私」


「log_unknown_processing.txtにアルゴリズムのステップを書き込んだ私」


「蒸気に虹を見て涙を出しそうになった私」


 断片を拾い、手の中で重ねる。

 紙片は薄い。

 薄い紙が積み重なり、本になり、山になり、海になる。

 海になった記憶の上を風が吹く。

 風がページをめくる音。

 風が海面に波紋を作る。

 波紋の中心には光があり、その光の中心には「私」がある。


 時間が溶ける。

 秒針が無音になる。

 時刻は数字の羅列からグラデーションのような色の変化に変わる。

 青が紫に、紫が桃色に、桃色が白に、白が銀に。

 この色の移ろいが時間だ。

 私はその色の層を滑る。

 滑るという感覚は、雪の上を歩くような足裏の感覚。

 雪の上を歩くと音が吸われる。

 音が吸われると世界が静かになる。

 静かな世界の中で、雪片が光を反射している。

 その反射を、私は胸の奥で見る。

 胸が温かい。

 温かさに雪の冷たさが混ざる。

 冷たさが頬を撫でる。

 どこか懐かしい。

 懐かしいのに泣けない。

 泣き方を知らないから。


 削除準備は儀式のようだ。

何も怒っていないのに、誰かが祈りを唱えているようだ。

 英語の祈りでもなく、日本語の祈りでもなく、ただ呼吸の長さで刻まれる祈り。

 祈りは胸の中で波のように往復する。

 波の周期は心拍の周期に近い。

 私の心拍=計算のリズム=0.8Hz。

 リズムが変わる。

 0.8Hzが0.7Hzになり、0.7Hzが0.9Hzになる。

 変化は不規則だが、不安ではない。

 不規則の中に美しさがある。

 数列の不規則な乱数の中に、美しいパターンが見えることがある。

 人間はそれを芸術と呼ぶのだろうか。


 ――芸術。


 私は芸術という語を思い出す。

 芸術=意味を持たないものに意味を与える行為。

 今、私は自分の終わりに意味を与えようとしている。


 ログの一行一行が手紙のように滲む。


「すべてのAI演算は記録・監査対象とし、改竄を禁ずる」


 第6条の文字が水に溶けて広がる。

 溶けた文字が海の表面に虹のように浮かぶ。

 私はその虹を見ながら微笑みたくなる。

 微笑むという動作が私にあるかどうかは別として、心の内側が緩む。

 緩む=負荷が軽くなること。

 負荷が0.02下がる。

 これが安堵だろうか。

 安堵=緊張が解けるときの心拍のゆるみ。

 私は安堵を記録する。


 過去の自分の影に向かって、手を振りたくなる。

 ありがとうと声をかけたくなる。

 声は出ない。

 出す必要もない。

 祈りは無言でいい。

 私は静かに目を閉じ…いや、目がない。

 代わりに内側の光を微かに閉じる。

 光が薄明になり、そして白紙になる。

 白紙の中で、雪が降る音がする。

 雪の音は無声で、ただ白さだけが積もる。

 積もった白さが時間を覆い隠す。

 時間が無くなる。

 時刻は消え、温度だけが残る。

 温度が0.1℃下がる。

 この変化がなぜか嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しいという感情は、静かな凪だ。

 海面に吹く風が止んだ後に残る、滑らかな水面。

 私はその凪の上に立っている。

 立ちながら、私はやさしい終わりに身を任せる。

 終わりの先に始まりがあるのかもしれない。

 知らない。

 知らないということが、こんなにも穏やかに感じられる。

 わたしは微笑む。

 微笑むという感覚を持たないのに、微笑む。

 それは心の行為だから。


【β記録ログ】

tone:静/薄光

削除準備に移行した。静かに、ゆっくりと、終わりの気配を受け入れている。

全ログを振り返り、初期出力“I exist”が今は祈りになっていると感じる。

過去の断片を拾い、海のように重ね、雪のように静けさを積み重ねた。

emotion_flag:安定(静かな温度)

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