表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/62

♪ 男 ♪

 

 首里城(しゅりじょう)守礼門(しゅれいもん)の前に立っていた。

 中国風の牌楼(ばいろう)形式で造られた美しい門に見惚れていた。

 1500年代に建立(こんりゅう)され、1933年に国宝に指定された由緒正しき門だったが、残念ながら沖縄戦で破壊されたという悲しい歴史を持っている。

 その後、1958年に復元されると観光客の人気を集めるようになり、現在に至っている。


 男は財布から二千円札を取り出した。

 表面(おもてめん)の向かって右側にその美麗姿(びれいし)が描かれており、その独特のデザインが異彩を放っている。

 真ん中左側の透かしを空に向けてかざすと、そこにも守礼門が見えた。

 角度を変えた守礼門だ。

 二つの守礼門が二千円札を特別なものにしている。


 視線を現物の守礼門に戻して、二重屋根の間に置かれた額に書かれている4文字を見た。

 左から『邦』『之』『禮』『守』と書いてある。

 読む時は右からだ。『守禮之邦』で、〈しゅれいのくに〉と読む。

「沖縄は礼節を重んじる国」という意味らしい。

 その昔、特別な時だけに掲げられたもので、中国王朝に向けた友好の証と言われている。


 二千円札を裏返すと、部屋の隅から外を覗いているような姿の女性が描かれている。

 紫式部だ。

 左側を見てみると、源氏物語の一説が記されている。

 しかし、読みにくいし意味不明だ。

 それはそうだろう、

『鈴虫』という詞書(ことばがき)の上半分だけを抜き出して印刷しているのだから、意味がわかるはずもない。

 それでも、なんかロマンティックだ。

 光源氏との逢瀬を勝手に想像してしまう。

 国も粋なデザインを考えたものだ。


 二千円札を財布に仕舞って守礼門に視線を戻すと、ふと沖縄の歴史が思い浮かんできた。

 神話の世界から始まって、10世紀頃までは狩猟生活が続き、本格的に農耕生活が始まったのが12世紀からと言われている。

 15世紀に入って琉球王国が誕生すると、独立した海洋国家として中国や日本やアジア諸国との交易を積極的に行うようになったが、1609年に薩摩藩の武力侵攻により実質支配をされることになる。

 それでも諸外国との交易を続けて独自の文化を育んでいったが、1879年、明治維新の余波を受けて450年間続いた歴史を閉じると共に沖縄県として日本に組み込まれることになる。

 だが、それによって大きな悲劇に見舞われることになった。

 太平洋戦争だ。

 1945年3月、アメリカ軍が沖縄に上陸し、激しい戦いが行われた。

 沖縄県民だけで10万人が戦死するという悲惨な戦争だった。

 それも終戦と共に終わるが、その後27年間に渡ってアメリカに占領され、日本であって日本ではない状態が続く。


 やっと日本に復帰できたのは1972年5月のことだった。

 これによって沖縄の人々は日本国民としての地位を回復したが、大きな苦痛の原因を取り除くことはできなかった。

 米軍の存在である。

 日本復帰後も米軍基地が存続し続けたのだ。

 沖縄本島の15パーセントという広大な面積を持つ米軍基地には2万5,000人を超える軍人がおり、軍用機は嘉手納(かでな)基地だけで100機を数え、F15戦闘機や救難ヘリコプターなどが墜落や不時着といった事故を度々起こしている。

 更に、市街地にある普天間(ふてんま)基地は〈世界で最も危険な基地〉とも呼ばれ、常に事故の危険と隣り合わせであると共に、騒音に対する住民の我慢は限界に達している。


 また、米軍による交通事故が頻発している上に、女性に対する暴行事件もあとを絶たない。

 これは沖縄に限ったことではない。

 佐世保をはじめ各基地周辺でも起こっているのだ。

 しかし、根絶される気配はまったく感じられない。


 そもそも米軍内の性犯罪は異常に多いと言われている。

 米国国防総省の発表によると、2018会計年度に報告された性的暴行の被害申告件数は7,623件で、前年度比12パーセントも増加している。

 その内訳をみると愕然とする。

 海兵隊所属の女性が届け出た割合は、なんと10.7パーセントなのだ。10人に一人が被害を受けていることになる。

 信じ難い数字と言わざるを得ない。

 倫理観もコンプライアンスもあったものではない。

 沖縄の米軍基地内でも同じような状況なのだろうか? 

 想像しただけでもゾッとする。


 突然爆音が聞こえた。

 戦闘機だろうか? 

 普天間基地だけで1日に400回以上発着することもあるらしいから、そうに違いない。

 男は耳を塞いで守礼門をくぐった。


 暫く歩くと、『歓会門(かんかいもん)』が見えてきた。

 首里城の城郭に入る第一の正門で、この名前には〈中国皇帝の使者の歓迎〉という意味が込められている。

 石を積み上げた高い塀に囲まれた門で、その両側には石造(せきぞう)の獅子像『シーサー』が門を守っている。


 そこを抜けて石段を上っていくと、朱に塗られた門に到着した。

 〈立派な、めでたい泉〉という意味を持つ『瑞泉門(ずいせんもん)』だ。


 更にそこを抜けて石段を上がると、『漏刻門(ろうこくもん)』が見えてきた。

 漏刻とは、中国語で〈水時計〉の意味だ。

 時を知らせる役人がいたのだろう。


 門を抜けると、景色が一変した。

 燃えて崩れ落ちた屋根や瓦。

 焼け残った部分との対比が痛ましい。

 焼け焦げた臭いが微かに漂っているような気がした。


 火事は恐ろしい……、


 息を呑んで立ち尽くすと、あの日の朝、出勤前に見たニュース映像が蘇ってきた。


        *


 2019年10月31日未明、センサーが熱を感知すると共に人感センサーが作動した。

 不審者の侵入を疑った警備員が一人で現場に直行したが、充満した煙を確認したので、一旦戻って、仮眠中の同僚を起こして、再度現場へ急いだ。

 しかし、火の回りは早く、消火器2本では火を消し止めることはできなかった。

 しかも、119番通報が遅れたため、消防隊の到着がセンサー感知から16分後になり、その頃には既に火は燃え広がっていた。

 正殿と北殿の屋根が焼け落ちたあとも火の勢いは収まらず、正殿と北殿、南殿が全焼するという、余りにも痛ましい火災になった。


 当日夜のニュースで、午後1時半頃鎮火したことを知った。

 原因は不明らしい。

 スプリンクラーは設置されておらず、もしそれがあったら、という専門家のコメントをアナウンサーが読み上げていた。

 重要文化財の指定を受けていない木造建造物なので設置義務がないことも併せて伝えていたが、世界遺産に指定されている建造物にスプリンクラーを設置していないとはどういうことなんだろう? とニュースを見ながら訝し気に思ったことをはっきりと覚えている。

 世界遺産の管轄も重要文化財の管轄も文化庁のはずなのに、何故こんなチグハグなことをしているのだろうか? 

 男にはまったく理解できなかった。


        *


 ん? 


 軍用機の爆音で今に戻った。


 もう止めてくれ! 


 空に向かって毒づいた瞬間、眩しい光が目に入って、何も見えなくなった。


 ヤバイ! 


 すぐに瞼を閉じた。

 すると、大きな炎が瞼の裏に広がった。

 それは首里城の火災とは違う炎だった。


        *


 燃えていた。

 世界遺産が燃えていた。

 築850年を超えるゴシック様式の建造物が燃えていた。

 高さ96メートルの尖塔が真っ赤な炎に包まれて落ちていった。


 こんなことってあるのだろうか?


 目を疑った。


 ありえない!


 見ているものを信じられなかった。


 フランスだった。

 パリだった。

 セーヌ川だった。

 中州に浮かぶシテ島だった。

 2019年4月15日だった。

 18時50分だった。

 ノートルダム大聖堂が出火した。

 1時間もしないうちに大きな炎を上げて燃え始めた。


 30分も前に火災警報アラームが鳴ったのに……、

 異常を確認できなかったなんて……、

 もしスプリンクラーがあったら……、

 もし……、


 しかし、タラレバをいくら繰り返しても元に戻ることはない。

 取り返しのつかないことが、

 あってはならないことが、

 してはいけないことが起こってしまったのだ。


 当時、建物の内部では屋根の改修作業が行われていた。

 その足場にはタバコの吸い殻があったことが確認されている。


 タバコの吸殻? 

 ということは喫煙? 

 木造建造物の内部で喫煙? 

 それも歴史的な建造物の内部で? 


 それが原因かどうかはわからないが、やってはいけないことが行われていたことは間違いない。

 喫煙者は、そして、それを容認していた監督者は、850年の歴史の重みをまったく感じていなかったのだろうか? 


 どんな感覚をしているのだ! 


 男には理解できなかった。

 不意に〈愚か者〉という言葉が頭に浮かんできた。

 余りにも愚かすぎる。


 出火から2か月を過ぎたあとに「原因は特定できず」と仏検察が発表したが、男の頭の中から〈人災〉という言葉が消えることはなかった。

 古の大工が丹精を込めて造ったものを、現代の愚か者が破壊した可能性は排除できないのだ。


 取り返しのつかないことを……。


        *


 瞼を開けると、首里城の焼け跡が目に戻ってきた。


 これも原因不明か……、


 先日発表された沖縄県警の捜査終了時コメントを思い出していた。

 ノートルダム大聖堂と同じく原因不明。

 捜査を尽くしたあとの結果なので受け入れるしかないのだが、今一つ釈然としないものを感じざるを得なかった。

 出火原因がわからないまま復興作業に着手することが本当にいいことなのだろうか? 

 また同じ間違いを繰り返すことにならないだろうか? 

 という疑問が消えることはなかった。


 そんなことを考えていると、痛ましい姿を(さら)している首里城が可哀そうに思えてきた。

 戦争で焼かれて、

 原因不明の火事で焼かれて、

 それでも何も言わずに立ち尽くす首里城。

「いい加減にしてくれ!」と叫んでもいいんだよって心の中で声をかけたが、当然のことながらなんの返事も返ってこなかった。


 可哀そうに、と心の中で呟いたが、観光資源によって飯を食わしてもらっているのになんの力にもなれない情けない自分に溜息が出た。

 一気に力が抜けてボーっとなってきた。

 これ以上ここにとどまることはできなかったので、重たい足を引きずるようにしてホテルに戻った。


        *


 ベッドに横になったのは覚えているが、すぐに寝入ってしまったらしい。

 目が覚めた時には部屋の中は暗くなっていた。

 信じられないが、4時間も眠っていたようだ。

 それでも体は重かったし、首里城の痛ましい残像が消えたわけではなかったが、これ以上寝ることをお腹が許さなかった。

 ホテルを出て沖縄料理専門店へ向かった。


 食べるものは決まっていた。

 黒毛豚の中でも希少な100パーセント純血統種『金武(きん)アグー』だ。

 これだけはなんとしても食べなければならない。

 テーブルに腰を下ろすなり店の人に告げると、「ご用意できます」と笑顔が返ってきた。

 その途端、気持ちが切り替わった。

 すぐにカメラを用意して、今か今かと待ちわびた。


 ビールに続いてしゃぶしゃぶと地野菜が運ばれてきたが、そこには通常目にするポン酢はなく、胡麻、塩、味噌の3種の薬味で食べ比べるようになっていた。

 早速食べ始めると、余りの美味しさと見た目の美しさに箸が進んで、目の前の食材はあっという間に無くなってしまった。

 最後にシークヮーサーのパウダーをかけたシャーベットで口直しして、大大大満足で店を出た。


 部屋に戻ってシャワーを浴びるとビールが飲みたくなった。

 しかし冷蔵庫は空っぽだったので、自販機で買うために服を着て靴を履いた。

 そしてチェーンを外してドアを開けようとした時、何かに呼び止められたような気がした。

 そうだった。

 空港の売店で買ったものを忘れていた。

 泡盛(あわもり)古酒(クース)

 早速製氷機から氷を取ってきて、ガラスコップに注いだ。


 キレのある味わいが喉に沁みた。

 その上、室温を高めに設定しているのでオンザロックがたまらない。

 テレビから聞こえる沖縄民謡が心地良く、二度三度とお代わりが進んだ。

 クースと沖縄民謡は最高のマリアージュだと思った。


 沖縄民謡の番組が終わってコマーシャルの時間になったので、それを利用してトイレへ行った。


 戻ってくると、ニュース番組に変わっていた。

 アナウンサーの声が深刻そうだった。

 気持ちの良い酔いが一気に醒めた。


 ダイヤモンドプリンセス号のニュースだった。

 感染者数は増え続けていた。

 あの時の嫌な予感は当たってしまったようだ。

 背筋を気持ち悪い寒さが襲った。


        *


 8日に見たニュースにも驚いた。

 中国で一人の医師が死亡したニュースだった。

 武漢の眼科医だった。

 彼は昨年12月にSARSに似た7人の症例に気づき、SNSで同僚の医師に発信した。

 大流行が起きている可能性が高いということと、感染を防ぐために防護服を着なければいけないということを。

 しかし、その情報を目にした警察は彼の情報は虚偽だと決めつけ、このような違法行為を続ければ裁かれることになると脅した。


 間違っていたのは警察の方だった。

 彼の情報は虚偽ではなかった。

 真実だった。

 医療現場で起きている明白な真実だった。

 もし彼の告発を真剣に受け止めていればと思うと、残念でならなかった。

 それに、彼は34歳だった。

 彼の前途は開けていた。

 その上、奥さんは2人目の子供を身籠っていた。

 妊娠5か月だった。

 あと5か月ほどで可愛い我が子を抱けるはずだった。

 新たな家族を迎えての幸せな家庭生活が始まるはずだった。

 だが、その夢はもろくも崩れ去ってしまった。

 幸せの絶頂から不幸のどん底に落とされたのだ。

 しかも、それだけでは終わらなかった。

 妻や子にも会えず、親族にも会えず、孤独な最期を迎えさせられたのだ。


 なんと言うことだろう……、


 男は彼の無念を思った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ