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♪ 男 ♪

 

 気づくと、目の前は暗闇ではなかった。

 雨は上がっているようだったが、辺りは深い(もや)に包まれていた。


 自分はどこにいるのだろうか? 


 考えようとしたが、何も思い浮かばなかった。

 ただ、雑木に掴まりながら少しずつ前に進んでいった時、左足を滑らせて斜面に叩きつけられたことは覚えていた。

 しかし、それがいつのことか、どこのことかはわからなかった。


 エネルギーは残っていないようだった。

 左手で木の根元を掴んでうつ伏せになっていたが、その左手にも力は入っていなかった。


 なだらかな斜面にいるのだろうか? 


 見上げたが、靄が視界を遮っていた。

 それに、もう首を上げるのも限界だった。


 力尽きたか……、


 何か考えようとしたが、脳のエネルギーも切れているようだった。

 肺を動かすのも辛くなってきた。

 浅い呼吸しかできなかった。


 それでも、左足の指が異常に冷たいのに気がついた。

 靴が脱げているようだった。

 しかし、なんとかしようと思っても、足はもとより指さえ動かすことができなかった。

 エネルギーは尽きているのだ。

 もう二度と立つことはできない。


 目を開けているのもしんどくなった。

 瞼は重くなり、スローモーションのように閉じていった。

 目の前の景色が消えると、暗闇の中に何かが見えた。

 入口のようだった。

 それをぼんやりと見ていると、入口に近づく自分の姿が見えた。


 違う世界の入口からどこか知らない所へ入っていくのだろうか? 


 意識が遠のく中、他人事のようにそれを見ていた。


 入口が開いた。

 誘われるように中に入ろうとしたが、左手の小指が後ろに引っ張られて、前に進めなくなった。

 入口の向こう側に入りかけた状態で体が止まってしまった。

 すると、耳元で囁くような声が聞こえた。

 と同時に目の前の靄が動き、周りの靄を集めて厚く膨らんでいった。

 その膨らみが男の頭を包み込むと、何かが見えてきた。

 それがスライドショーのように左から右へと流れていった。

 最初は湿原だった。

 無数の沼が点在していた。

 幻想的な景色に目を奪われた。

 八幡平(はちまんたい)だった。

 しかしそれもすぐに変わり、深い穴が見えた。

 鍾乳洞(しょうにゅうどう)のようだった。

 水も見えた。

 透き通った水だ。

 地底湖のようだった。

 龍泉洞(りゅうせんどう)に違いなかった。

 と思ったら、またスライドが変わった。

 穏やかな入り江の中に鋭く尖った岩が林立(りんりつ)していた。

 その岩肌をアカマツが覆っていた。

 浄土ヶ浜(じょうどがはま)だった。

 沼に地底湖に浄土……、

 やはり向こう側に行こうとしているのだろうか、

 そう思うと、体が前方に引っ張られた気がした。

 その時、またスライドが変わった。

 石でできた鳥居が見えた。

 その先に大きな屋根の本堂が見えた。

 中尊寺(ちゅうそんじ)だった。

 敵味方なく霊を慰める所。

 霊か……、

 呟くと、体が更に前に引っ張られたような気がした。

 するとまたスライドが変わった。

 広間に大勢の人が集まっていて、大きなテーブルの上には朱に塗られた椀が高く積み上げられていた。

 わんこそばの早食い競争だった。

 物凄いスピードで食べる若い男女を感心して見ていると、いきなり男の口にそばが放り込まれた。

 訳がわからず飲み込もうとしたが、喉に詰まりそうになって、むせた。

 その瞬間、斜面で木の根元を掴んでいる左手が見えた。

 現世に戻っていた。


 そうだった。

 まだ死ぬわけにはいかない。

 車に取り残された社員を助け出さなければならない。

 そして、岩手県の産業・観光促進事業を形にするという使命を果たさなければならない。


 どこかに残っているかもしれないエネルギーを探して細胞に喝を入れた。

 しかし、そんなものはどこにも残っていなかった。

 現世に戻る時、エネルギーを使い果たしてしまったようだ。

 左手が根元から離れ、瞼がスローモーションのように閉じ始めた。



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