♬ 女 ♬
今日も朝がやって来た。
こんなわたしにも朝がやって来た。
大きく背伸びをして窓のカーテンを開けると、雲間から朝陽が射していた。
夜に降った雨で出来た水たまりがキラキラと輝き、降り立った雀が水面にくちばしを付けていた。
可愛くて暫く見惚れていると、なんかちょっぴり幸せな気分になった。
テレビを付けると、戦争のニュースが飛び込んできた。
飢えと病気に苦しんでいる難民の姿が映し出されていたが、それはすぐに太鼓腹を突き出した独裁者の前を筋肉隆々で行進する軍隊の映像に変わった。
強者はより強者に、弱者はより弱者になっていた。
それが終わると経済のニュースになり、貧富の差が拡大していると声高に叫ぶアナウンサーの顔がアップになった。
でも、それは高給取りの顔だった。
あなたに貧しい人の気持ちがわかるの?
女は思わず毒づいた。
世の中は不平等だ。
富める人は益々富み、貧しい人は更に貧しくなっていく。
当たり前のようにチャンスを与えられた人はどんどん出世していき、一度もチャンスを与えられない人は地面を這いずり回るしかない。
世の中は本当に不平等だ。
しかし、朝は違う。
朝は皆に平等に来る。
金持ちにも貧乏人にも、社長にもパート社員にも、どんな境遇の人にも1年に365回朝はやってくる。
金持ちだからといって500回やってくることはない。
朝だけではない。
朝の天気もそうだ。
誰も差別しない。
晴れも曇りも雨も等しく同じにやってくる。
金持ちの朝は雲一つない晴天で、貧乏人の朝は土砂降りの雨ということはない。
同じ地域に住んでいれば同じ天気なのだ。
今日も朝がやって来た。
こんなわたしにもやって来た。
元気を出して朝のバイトに出かけよう。
それが終わったら、夕方から二つ目の仕事に取り掛かろう。
ホテルのカフェラウンジでピアノを弾く仕事に。
*
7時からバイトが始まった。
駅前の人気ベーカリーでの接客業務だ。
焼き上がったパンが次から次へと売れていく。
フランスパン、ミルク食パン、白パン、ベーグル、クロワッサン、ブリオッシュ、バターロール、レーズンパン、クルミパン、ライ麦パン、黒糖パン、チーズパン、パニーニ、フォカッチャ、スコーン、クリームパン、メロンパン、カレーパン、あんパン、あらびきウインナーパン、バジルトマトクッペ、ミックスピッツァ、サンドイッチ、総菜パン……、
目の回るような忙しさが9時まで続く。
そこでやっとひと息ついて、短い休憩時間を交代で取る。
それから昼の準備を終えて店を出るのが11時丁度。
今日も4時間のバイトが終わった。
時給千円だから1日4千円。
これが週5日。
月に直すと20日働くことになる。
だから月収8万円。
心許ない金額だが、いいことが一つだけある。
バイトが終わった時にパンを貰えるのだ。
それも2個。
昼食としては十分だ。
今日は『海老とアボガドのクロワッサン』と『B.L.Tサンド』を選んだ。
*
店で買った牛乳の小パックを持って公園に向かうと、陽の当たるベンチが待ってくれていた。
人に挨拶をするようにベンチに微笑んでハンカチを敷いて座り、横にパンを置いて辺りを見回した。
誰もいなかった。
天気が良い日の12時過ぎになると近所のサラリーマンやOLでいっぱいになるが、この時間に座っている人はほとんどいない。
だからベンチも公園も一人占めできる。
今日は1月にしては暖かい。
風がないし、太陽を邪魔する雲もないのでポカポカしている。
それでもお尻がひんやりとしてきた。
厚手裏起毛のジーパンでもそれを防げないようなので、パンを入れていたビニール袋をハンカチの下に敷いた。
すると、ひんやりが少し収まった。
パンを2つ持って、どっちを先に食べようかと考えたが、勝負はすぐについた。
左手に持ったB.L.Tサンドに軍配が上がった。
今日はいつもより忙しかったので、お腹がペコペコだ。
人目がないのでガツガツと貪るように食べると、ベーコンとレタスとトマトのバランスが申し分なかった。
このサンドはベーコンが主役と思われているようだが、自分が働く店では違っている。
トマトが主役なのだ。
ジューシーな完熟トマトが口の中に溢れ、そこにシャキシャキッとしたレタスが絡む。
その上にベーコンの甘い脂がしたたり落ちてくると、もう~たまらない。
両手を上げて降参するしかないのだ。
参りました!
しばらく口の中の余韻を楽しんだあと、牛乳でベーコンの名残を洗い流して、右手のパンへと移る。
海老とアボガドのクロワッサンだ。
これはデザート感覚で楽しめるから、食後のお菓子は欲しくならない。
それになんといってもマヨネーズとストロベリージャムの相性が抜群だ。
黒コショウもピリッと効いて、海老とアボガドの旨さを最大限に引き出している。
これも完璧。
今度は両手をついて降参した。
参りました!
*
着替えをするために一度アパートに戻った。
夕方からはピアニストになるのだから、ジーパンでピアノを弾くわけにはいかない。
だからビニール製の簡易クローゼットからワンピースを取り出した。
花柄のワンピース。
選んだのはピンク地のもので、季節の花、スイートピーが咲いている。
花言葉は『優しい思い出』
あの人に会えるかもしれないと思って選んだ服。
*
今日も品川駅で降りた。
あのホテルのカフェラウンジが仕事場だ。
夕方5時から夜10時まで5時間の仕事。
時給は1,500円なので1日7,500円。
週3日、月12日だから、月に9万円。
お酒を出す場所での演奏ならもう少し時給が高いが、酔客の相手をする気はまったくない。
もう何年も前のことだが、酔った客2人に絡まれて嫌な経験をしたことがあるからだ。
*
演奏が終わった時、席で一緒に飲もうと言い寄ってきたので、やんわりと断ると、いきなり胸とお尻を触られた。
止めて下さいと叫んだつもりが声が出なかった。
店長に訴えたら、それぐらいのことで大騒ぎするなとたしなめられた。
フロアレディは日常茶飯事だと笑われた。
その通りだった。
さっきの客がチャイナドレスを着たフロアレディの足を触っていた。
それを上手に笑いながらあしらっている彼女たちの時給は自分より高かったが、それには触られ代も入っているのだろうか?
そう思うと幻滅しか沸いてこなかった。
その場で仕事を辞めると店長に告げた。
いきなり辞められるのは困ると止められたが、無理だと言って押し切った。
すると、勝手に辞めるんだから今日の分は払わないと言われた。
思わず手が出そうになったが懸命に堪えていると、フロアから「姉ちゃ~ん」と呼ぶ声が聞こえた。
バカヤローと叫びたくなったが、なんとか堪えて、思い切りキツイ目で酔客を睨みつけた。
そして、店長に背中を向けて店を出た。
*
ふ~、
息を吐いて嫌な思い出を振り払って、改札口の先の階段を駆け足で降りた。
今日も品川駅の周りは人がいっぱいだ。
こんなに大勢人がいるのに、わたしが知っている人は誰もいない。
そして、わたしを知っている人も誰もいない。
都会の孤独、
わたしはストレンジャー、
ビリー・ジョエルの歌が聞こえてきた。
*
ラウンジに客はまばらだったが、演奏を始める時間になった。
ピアノチェアに座って鍵盤に指を置き、目を瞑って頭の中にメロディが流れてくるまで待った。
楽譜を見るのを良しとしないからだ。
というより、そもそも楽譜を見ながら演奏するのは好きではない。
感情が入らないからだ。
音譜をなぞるような演奏に意味があるとは思えなかった。
いや、それどころか観客を騙す行為だとさえ思った。
プロなら完全に暗譜して演奏に臨むべきなのだ。
いや、それも違う。
覚えたものを再現しても意味はない。
自らの血肉になっていないものは本物とは言えない。
偽物とまでは言えないとしても、誰かの借り物にしか過ぎない。
だから常に想いを込めて鍵盤と踊る。
時には優しく、時には激しく、時には寂しく、時には喜びを爆発させ、時には悲しみに打ち震えて、鍵盤と踊る。
バート・バカラックの顔が瞼に浮かび、それがカレン・カーペンターの微笑みに変わった。
『遥かなる影((THEY LONG TO BE)CLOSE TO YOU)』のメロディが満ちてきた。
あなたの傍にいたい……、
夢見るような想いを伝えたい……、
わたしの指が放つメロディがあの人の元へ届きますように……。
演奏を終えると、ドキドキしながら振り向いた。
もしかしたら、またあの人が……、
でも、そこには誰もいなかった。
小さな溜息をついてフロアに視線を戻したが、誰も自分を見ていなかった。
もちろん拍手はなかった。
また溜息をついた。
そして、仮面を被った。
『マスカレード(THIS MASQUERADE)』の旋律が頭の中に浮かぶと同時に、指がイントロを弾き始めた。
わたしは仮面舞踏会に紛れ込んだ哀れな女。
誰にも注目されず、誰にも踊ってもらえない。
カレン・カーペンターのハスキーな声が消え、この曲を作った彼の独特なダミ声に変わった。
今日の気分はレオン・ラッセルだった。
3曲目も彼の曲を選んだ。
『スーパースター(SUPERSTAR)』
偶然だが、これもカーペンターズが取り上げて大ヒットした曲だ。
指が勝手に動いて次の曲を弾き始めた。
『ア・ソング・フォー・ユー(A SONG FOR YOU)』
あなたに捧げる愛の歌。
あなたの暖かい拍手を待ちわびるわたしのための歌。
でも、演奏が終わっても拍手は聞こえてこない。
振り向いてもあの人はいなかった。
溜息をついて自分の服を見ると、花が哀しげに揺れていた。
どうして?
スイートピーに向かって呟いた。
すると、済まなさそうな囁きが聞こえた。
私の花言葉は『優しい思い出』だけではないの、他にもあるのよって。
そうか、そうだった、他にもあった。
女はその花言葉を思い出した。
それは、『別離』