♪ 男(1) ♪
「早速お客様から問い合わせが来ました」
スマホから聞こえるリーダー格社員の声が弾んでいた。
彼は当初東京支社で働くつもりだったが、小児喘息に罹患している一人娘の健康を考えた奥さんに説得されて、岩手本社での勤務を選ぶことになった。
そして、5人の若手社員と共に既に引っ越しを済ませていた。
「『古民家宿を始めたいので相談に乗って欲しい』というメールをいただきました」
待ちに待った問い合わせだった。
「岩手に住んでいる人?」
「そうです。これからメールを転送しますので、詳しくはそちらをご覧になってください」
届いたメールをすぐに開くと、そこに書かれている名前に見覚えがあった。
朝採れ野菜定期便の顧客だった。
それも最初に注文をくれた5人の中の一人だという記憶があった。
しかし、都内在住のはずだった。
その人がどうして岩手に?
文面を目で追うと、今は使われていない実家の古民家で民宿をするために引っ越したと書いてあった。
更に読み進めていくと、『ピアノの宿』という文字に目が止まった。
すると、音符が踊っているようなデザインの看板が頭に浮かんだ。
その瞬間、客が楽器を弾いて歌っている場面が思い浮かんだ。
人気が出るのは間違いない!
確信に支配されると、居ても立ってもいられなくなった。
男の心は一気に岩手に飛んだ。
*
体温よし!
咳・クシャミなし!
体調不良なし!
チェックリストを見ながら声出し確認をした。
岩手への移転を決めてから毎日欠かさずチェックを行っているのだ。
万が一にでも岩手に新型コロナウイルスを持ち込んではならないので、念には念を入れていた。
今日の体温は35度8分。
正に平熱だった。
体調にはなんの問題もなかった。
よし行こう。
男は車のアクセルを踏み込んだ。
*
東北道は混雑のかけらもなかった。
途中2回休憩を入れたが、それでも8時間で盛岡南インターチェンジに到着した。
一般道に下りると、社員6名が住む古民家を目指して、北上川を超え、リンゴ園を横に見ながら、ナビの指示に従って車を走らせた。
小高い山のふもとにある古民家に着くと、社員が全員で出迎えてくれた。
その笑顔と健康そうな小麦肌に接すると、運転の疲れがすべてどこかに飛んでいった。
*
その夜、歓迎会を開いてくれた。
採れたて野菜をふんだんに使ったサラダをたっぷり食べたあと、雫石牛のステーキが出てきた。
前沢牛と並ぶ岩手のブランド牛だ。
野菜栽培会社のオーナーの差し入れだという。
肉質はまろやかで、程よい霜降りが滑らかな食感を導いていた。
それに合わせるのは岩手県産の赤ワイン。
女性醸造家が造ったメルロのフルボディだという。
樽由来の甘い香りが鼻をくすぐり、柔らかなタンニンと酸味のバランスが絶妙で、ふくよかな味わいが口の中いっぱいに広がった。
最高のマリアージュ!
何度もグラスを掲げて乾杯を繰り返した。
*
翌日の朝、敷地内に建つ〈離れ〉に足を入れた。
本社と男の自宅になる建物だ。
これは築50年で半古民家といった雰囲気だ。
改装した15畳のリビングに8畳の和室が1室、6畳の和室が2室。
あとは台所と浴室とトイレ。風呂と便所と言い換えた方がいいかもしれない。
それでも、東京のマンションと違って味がある。思い切り気に入った。
リビングを執務スペースにして、8畳を自分の部屋にした。
6畳の2間は東京支社の社員が出張でやって来た時のゲストハウスにすることにした。
といっても年に何回も来ないはずなので、普段は趣味の部屋として使うことにした。
明日東京から荷物が届く。
岩手での生活が始まると思うと、〈再生〉という言葉が脳裏に浮かんだ。
そして、〈生まれ変わるのかもしれない〉という思いが頭を過った。
新たな扉が開く予感がした。
*
翌日、荷物を受け取った。
といっても私物だけだ。
ネットで注文した中古のオフィス用品は明日届く予定になっている。
私物にしても、半分は東京に置いてきた。
当分の間は岩手にとどまるが、東京の感染者数が落ち着いてきたら、行ったり来たりの生活になる可能性が高いからだ。
ベッドは東京に残してきたから、ここでは畳の上に布団を敷いて寝ることになる。
何十年振りだろうか……、
小さい頃を思い出した。
それとステレオも東京に置いてきたので、一体型CDコンポが音楽の友になる。
でも、コンポといってもスピーカーの世界的メーカーが開発したものなので、音質のレベルはメチャクチャ高い。
音の広がりも半端ないので、8畳で聴くには十分だ。
早速今の気分に合うものを探すとすぐに見つかった。
『GOOD DAY』
ピーター・ホワイトのアルバムだ。
スムーズジャズ界のスーパースターとして活躍している彼のナイロン弦ギターの音色は優しくて温かい。
セットしてプレイボタンを押すと、1曲目が始まった。
タイトルナンバーだ。
軽やかなパーカッションに導かれて彼のギターがイントロを奏で始めた。
あ~幸せ。
自然に体が動いて頬が緩む。
淹れたてのモカを飲みながら幸せな気分に暫し浸った。
5曲目が終わった時、リーダー格社員が顔を見せた。
古民家宿を始めたいという顧客との面談日時を決めたいと言うので、相手が希望する候補日から最短の日時を迷わず選んだ。
善は急げ、という諺もある。
というより待ち切れなかった。
新たな挑戦にワクワクしていた。
リーダー格社員がそれを送信すると、すぐにOKの返信が来た。
面談は3日後に決まった。
*
顧客との面談前日は冷たい雨が降り続いた。
7月だというのに肌寒かった。
庭に咲く色取り取りの紫陽花が防寒着を求めて震えていた。
ハウスの仕事を終えてオフィスに戻ってきた社員の装いも2か月前に戻っていた。
部屋の隅には電気ストーブの管が赤く光っていたし、男は長袖シャツの上にカーディガンを羽織っていた。
社員に手伝ってもらってチェックリストの最終確認をした。『古民家宿開業のためのチェックリスト』だ。
旅館業簡易宿泊所営業としての営業申請に必要な図面、構造設備の概要、電気設備図、換気設備や空調設備図などの必要書類を揃えなければならない。
その上で、役所の旅館業法担当窓口への事前相談を行い、申請後には保健所による実地検査などを受けなければならない。
それ以外に、情報発信のためのホームページの作成が必要になる。
カード決済のための端末も契約しなければならないし、経理や税務申告の準備もしなければならない。
やることは山ほどある。
チェクリストに漏れがないか何回も確認した。
*
準備が完了したのは午後8時過ぎだった。
若い社員のお腹が鳴っていた。
今日は肌寒いから鍋にしようかと提案したら、全員の手がすぐに上がった。
囲炉裏のある台所で鍋を囲んだ。
野菜と鶏もも肉、豚肉、椎茸、コンニャクなどをたっぷり煮込んで、その中に〈ひっつみ〉を入れた。
鶏と豚による出汁がいい塩梅で、旨味が口の中いっぱいに広がった。
それになんといっても温まる。
更にぬる燗を合わせると、も~たまらない。
みんなの顔がみるみる赤くなってきた。
しかし、それはお酒のせいだけではないように思えた。
興奮というエキスが全身を巡っているに違いなかった。
朝採れ野菜定期便の受注数が右肩上がりに伸びているし、ICTを活用した生産性向上プロジェクトが始まっている、その上、古民家活用ビジネス支援も始まる、興奮するなという方が無理なのだ。
それに、社員以上に興奮しているのは自分かもしれなかった。
知らないうちに声が大きくなっていたから間違いないだろう。
大変な時期を乗り越えてきたのだから当然だ。
今夜は社員と一緒に弾けても罰は当たらない。
社員にぬる燗を注いでは乾杯を繰り返した。
片づけを終えて歯を磨き、布団に入ったのは11時を回っていた。
明日のことを考えると眠れそうもなかったが、睡眠不足で大事な初面談に臨むわけにはいかない。
ぐっと瞼を閉じて、紫陽花の花の数を数え始めた。
1枚、2枚、3枚、4枚……、
57枚まで数えた時、紫陽花の花びらに乗って遠い所へ運ばれていった。




