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♬ 女(2) ♬

 

 予定通り、10日に荷物を受け取った。

 掃除は完璧に終わっていた。

 細かい所の補修がまだ途中だったが、家具の設置には支障がなかったので、奥さんが考えていた通りに置くことができた。


「ピアノが2台あると豪華ね」


 娘さんが弾いていたアップライトピアノと女の電子ピアノが2台並んでいた。


「お客さんとあなたが共演する姿が目に浮かぶようだわ」


 宿泊客が自由に演奏できて、いつでも音楽に溢れる宿にしたいと笑った。

 将来は、ギターやバイオリンも揃えたいという。


「そうなると、ピアノの宿ではなくて音楽の宿ですね」


「いいえ、色々な楽器が揃ったとしても、『ピアノの宿』という名前は変えないわ。あくまでも主役はピアノよ」


 娘さんが愛したピアノ、娘さんの演奏を愛した奥さんとご主人、その想いが溢れているように思えた。


        *


「では、取り掛かります」


 右手で敬礼の真似をしてから父の形見の黒いケースを開けると、懐かしい工具が現れた。それを一つ一つ取り出した。

 チューニング・ハンマーチップ、

 チューニング・ハンマーヘッド、

 チップアダプター・レンチ、

 ハープシコードチューニングハンマー、

 音叉、

 チューナー、

 調律用ウェッジ、

 アクションスクリュードライバー、

 コンビネーションハンドル、

 アクション調整工具、

 センターピン工具、

 整音工具、

 調弦工具、

 鍵盤修理工具、

 ハンマーシャンク工具、

 計測器、

 定規、

 カッター、

 治具、

 どれもピアノの調律に必要な工具だった。


 父の仕事に定休日はなかった。

 日曜日に仕事が入ることも少なくなかった。

 そんな時、女は一緒にお客さんの家に連れて行ってもらった。

 父の仕事を傍で見るのが大好きだったからだ。

 音程が狂ったピアノが、父が手を入れることで本来の姿を取り戻す過程にドキドキした。


 幼い頃は父が魔法使いだと思ったことがある。

 父の手に掛かれば、どんなピアノでも美しい音を取り戻すからだ。

 これを魔法と言わずしてなんと言えよう。

 別の言葉に置き換えるのは不可能だった。

 それほど鮮やかな手さばきだった。

 女は見惚れながらも父の仕事を細かく観察した。

 そして、質問攻めにした。

 父は嬉しそうな表情で答えてくれた。

 自分の仕事に関心を持つ娘の存在が励みになっていたのだろう。

 そんなことを思い出していると、父の声が蘇ってきた。


「先ず、ピアノの状態をしっかり把握しなさい。鍵盤の動き、ピッチや響き、ペダルの動き、それをしっかり頭に叩き込みなさい。

 次は掃除。外装や鍵盤を外して隅々まできれいにしなさい。その時に弦や駒、響板の状態をチェックしなさい。

 それが終わったら整調だよ。鍵盤を戻して、高さや深さを整えなさい。ペダルも同じように高さや深さを整えなさい。

 それができたら調律に掛かりなさい。中央の『ラ』の音を音叉に合わせてピッチを決めなさい。ここで手を抜いてはいけないよ。とても大事な作業だからね。

 それができたら音程を聞きながら88鍵に広げていきなさい。一音に対して三本の弦の音程が同じになるまで調整しなさい」


 父の声に導かれながら一つ一つ丁寧に作業を続けた。

 でも、神経を張り詰めてやっていたせいか、これ以上は続けられなかった。

 手を止めて、大きく背伸びをしてから、首をグルグルと回した。

 そして、目の疲れを取るために目頭を揉んでから、窓に近づいた。


 遠くを見ようとして視線を外に向けると、白くて大きな花を咲かせる紫陽花が目に入った。カシワバアジサイだった。他の紫陽花とは違って、とんがり帽子を横にしたような形になるのが特徴で、満開になったその花はとても豪華な雰囲気を漂わせていた。

 それが余りにも素晴らしいので見惚れていると、突然、花が風に揺れた。

 すると、その一枚がひらひらと舞ってきて、窓に張り付いた。

 見つめていると、

 もうひと踏ん張り頑張って、

 と言い残して、落ちていった。


 よし! と気合を入れて再びピアノに向き合い、父の声を待った。

 すぐに聞こえてきた。


「さあ次は整音だよ。ここで手を抜いたら今までの作業が台無しになってしまうから、耳と指先に神経を集中して丁寧にやりなさい。ハンマーに紙やすりをかけて調整しなさい。針を刺して整えなさい。一音一音丁寧に整えなさい。妥協してはいけないよ。完璧にやるんだ。できたかな?」


 女は頷き、作業に没頭した。

 完璧かどうかはわからないが、これ以上は無理というレベルまで整音をすることができた。


「では、仕上がりの確認をしよう。全体のタッチ、音量、音色、ペダルなどのバランスをよく確かめなさい」


 ピアノチェアに座って、色々な曲を弾いた。

 クラシック、ジャズ、映画音楽、バラード、ボサノヴァ。

 目を瞑って、耳に神経を集中して、全体のバランスを確かめた。


 弾き終わって父の言葉を待った。


 どうかな? 


 少しドキドキした。


 どうかな?


 ドキドキが強まった。


 どうかな?


 心臓が口から飛び出しそうになった。

 たまらなくなって目を開けた時、声が聞こえた。


「いい仕事ができたね」


 父の左手が女の左肩に優しく触れた。


 ありがとう。


 その手に向かって頭を下げた。

 すると、女の肩の中に父の手が吸い込まれていった。


 お父さん……、


 感触が残る左肩に右手を置くと、ほんの少し温かく感じた。

 その温もりに暫く浸っていたかった。

 でも、まだ仕事が残っていた。


 さあ、もうひと踏ん張り!


 外装を戻して、ピカピカに磨き上げた。

 すべての工程を終えると、心地良い疲れが全身を酔わせるように包み込んでくれた。


        *


「あらっ!」


 ルーターの設置作業が終わった部屋でパソコンを立ち上げていた奥さんが珍しく大きな声を上げた。久々に見たメールの中に思いがけないものがあったようだ。


「どうしたのですか?」


 女が近づくと、見て見て、というように画面を指差した。


「あの会社が面白いことを始めたみたいなの」


 面白いこと? 


 奥さんの言っていることがよく呑み込めないまま画面を覗き込むと、タイトルが目に入った。『ビジネス・ソリューション・カンパニー』と表示されていた。

 意味がわからなかったのでタイトルの下の文章に視線を移すと、新たな事業分野が示されていた。

『新鮮朝採れ野菜定期便』

『ICTを活用した農業の生産性改善支援』

『古民家活用ビジネス支援』を核とした『岩手県の産業・観光促進事業』


 奥さんがその中の一つに指を当てた。


「『古民家活用ビジネス支援』って書いてあるでしょう。これって、古民家宿も入るわよね」


「そうですね。でも、旅行代理業の会社が……」


 すとんと腑に落ちない文字から目が離せなかった。


「そうね。とても大きな変わりようよね。でも、朝採れ野菜の定期便は今やっていることだし、若い社員が古民家で共同生活しながら農業に従事しているし、農業や古民家と繋がるビジネスへの移行はそれほど変じゃないかもしれないわよ」


「確かに……」


「それに、本社を岩手に移転するって書いてあるから、本腰を入れてやる気だと思うわ」


 奥さんが指差す箇所を見つめながら、次第に腑に落ちてくるようになった。

 よく考えてみれば、旅行代理業の会社は宿泊業、つまりホテルや旅館などとの繋がりが深く、旅行客に人気を博する施設がどのようなものか熟知している。

 その経験や知識を活かせば、古民家を活用した宿泊施設への貴重なアドバイスを行えるはずなのだ。

 だから、決して本業から飛び地へ移るわけではない。

 視点を変えて会社の定款を変更しただけなのだ。


 なるほど、


 社名に視線を移した女は、『YOUR DREAM』に込められた想いがわかったような気がした。

 〈あなたの夢を支える〉というメッセージが込められているのだ。

 いや、〈夢を叶えさせてみせる〉という更に強いメッセージかもしれない。

 どちらにしても、命名し、今回の決断をした人物、つまり、この会社の社長の発想と行動力は半端ではないと思った。

 そして、その人物像に対する興味がじわじわと沸いてくるのを感じた。



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