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♬ 女(1) ♬

 

「忘れ物はない? 大丈夫?」


 女が頷くと、奥さんの右手が車のキーを回した。


「住所を入力して」


 女がカーナビに目的地の住所を入力すると、奥さんがアクセルを踏み込んだ。

 7月7日の朝8時半、岩手へのドライブが始まった。


 奥さんから岩手行きを打診された時、即答できなかった女だが、奥さんと別れて東京に残るという選択肢を考えたわけではなかった。

 一度も行ったことがない岩手という土地に対するイメージがわかなかったので、すぐに返事ができなかったのだ。

 岩手という見知らぬ土地でどういうふうな暮らしをするのか思い描くことができないのに、弾みで返事をすることはできなかった。


 その後、奥さんから具体的なプランを聞くにつれてイメージが固まってきて、打診された日から5日後に同意の気持ちを伝えた。


 7月1日に新車が届いた。

 鮮やかなライトグリーンの塗装が輝く軽のワンボックスカーだった。

 ご主人が生前乗っていた年代物の外車を処分して買い換えたのだという。

 狭い山道や舗装されていない道路に大きくて車高の低い外車は無理だし、荷物がいっぱい積めないと困るから、というのが理由だった。


 7月6日に花屋敷の荷物をすべて送り出した。

 運送会社に4日間預かってもらって、10日に受け取ることになっている。

 その間に古民家の掃除と補修をしなければならない。

 そんな短期間に補修ができるのだろうかと気を揉んだが、「3年前に大規模な補修をしているので当面大きな工事は必要ないから大丈夫よ」と奥さんが安心させてくれた。


        *


 首都高から中央環状などを経て東北自動車道に合流したのは、運転を始めてから1時間近く経った頃だった。

 久しぶりの運転で疲れたようで、鎌田サービスエリアで休憩を取ることになった。

 まだお腹は空いていなかったので、眠気覚ましのコーヒーだけを飲んで、出発した。


 次に休憩したのは栃木県の佐野SAだった。

 女は『霧降高原豚生姜焼き定食』を、奥さんは『ボンゴレロッソ風みみうどん』をペロッと平らげた。


 上河内SAが3番目の休憩地だった。

 奥さんはちょっと甘いものが欲しいと言って、『とちおとめジェラート』を舐めるように食べた。

 女は助手席で居眠りをしないようにとブラックコーヒーで脳に活を入れた。


 その次の休憩地、那須高原SAで『御用邸チーズケーキ』を堪能したあと、奥さんはストレッチを入念に行った。これからのドライブに備えているようだった。


 気合が入ったのか、奥さんは安達太良SAと国見SAをパスして、前沢SAまでハンドルを握り続けた。

 大丈夫かな? と思わないでもなかったが、水を差すわけにもいかず、奥さんが眠くならないように女は一生懸命話しかけた。


 サービスエリアに着くと、奥さんは大きく背伸びをしたあと、「前沢牛を食べるわよ」と言って女の背中を押した。

 そして席に座るなり、『前沢牛すき焼き丼小麺セット』を頼んだ。


 運ばれてきた途端、女の味蕾が催促を始めた。

 口に入れると、甘辛いタレが滲みた前沢牛の旨味が一気に広がり、それからあとは一心不乱に箸を動かした。

 そして、ほぼ同時に食べ終えた2人は、もう無理というようにお腹を擦ってから、「ご馳走様でした」と声を合わせた。


「さあ、盛岡南まで一気に行くわよ」

 ハンドルを握った奥さんが腕まくりをする振りをしたので、女も気合を入れて同じ動作をした。


        *


 出発して10時間が過ぎた。

 ナビの時計は18時38分と表示していた。

 元気に運転していた奥さんもさすがに疲れを隠せないようで、首を左右に動かしたり、目をしばたかせるようになった。


 それに、辺りは一気に薄暗くなってきた。

 これ以上の運転は危ないと判断したようで、インターチェンジを降りた所でホテルを探すことにした。


 5分ほど走ると、夕暮れに同化するようなグレーのホテルが目に入った。

 道路を左折して駐車場に入り、正面玄関に一番近いところで車を止めた。

 築年数の古そうなこじんまりとしたホテルだった。


 部屋は空いていた。

 朝食付き1泊6,800円で前金です、とフロントで言われた。

 奥さんが現金で支払って鍵を受け取り、エレベーターで3階まで上がって、部屋に入った。


 狭い部屋にツインのベッドが置かれていた。

 ちょっと(かび)臭かったが、そんなことはどうでもよかった。

 奥さん、そして女の順にシャワーを浴び、スキンケアをしたあと、ほぼ同時にベッドに潜り込んだ。

「おやすみなさい」とだけ言って目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。

 奥さんがどうだったのかは知る由もなかった。


        *


 翌朝は7時過ぎに目が覚めた。

 12時間近く眠っていたことになる。

 奥さんは支度を終えて、音を消してテレビを見ていた。

 女は慌てて飛び起きて、急いで支度をした。


 1階の朝食会場には誰もいなかった。

 このホテルも宿泊客が激減しているのだろう。

 そういえば昨日、駐車場に車は見かけなかった。

 大変なんだろうな、と他人事ながら心配した。


 ブッフェ形式かと思ったら、係の人がトレイで運んできた。感染予防対策のようだ。

 トレイには、トーストと茹で卵とサラダの小皿とホットコーヒーが乗っていた。

 たっぷり眠ったせいか、どれも美味しくいただけた。


        *


「さあ行きましょう」


 奥さんがハンドルを握ったので、「ナビ良し! 天気良し! 体調良し!」と女は前方に右手の人差し指を突き出した。


「面白い人」


 奥さんが笑ってアクセルを踏み込んだ。


 目的地は北上川を超えた先にあった。

 近くにリンゴ園があるからわかりやすいのだと言う。

 北上川とリンゴ園と聞いて、何かロマンティックな雰囲気を感じて少しワクワクしたが、リンゴ園を超えて脇道に入ると心配になってきた。

 軽自動車でもすれ違うのが難しいくらいの狭い道なのだ。

 野生動物が出てきそうな雰囲気も感じた。

 ちょっとドキドキして目を凝らしていると、急に広い場所へ出て車が止まった。


「着いたわよ」


 広い土地に古びた家がぽつんと立っていた。


「『ピアノの宿』へようこそ」


 車を降りて女将(おかみ)に変身した奥さんが、右手を古民家の方へ優雅に動かした。



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