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♪ 男(11) ♪

 

 あの日から心の中に降る雨は止まなかった。

 日本に帰った男は、ずぶ濡れになりながら、ただボーっと1日を過ごしていた。

 生きているのかどうかさえ定かでないような状態が続いた。

 体の中から魂が抜けたような、存在のない状態に陥っていた。


 退職金の残りが少なくなっていた。

 といって、どこかに就職する気は起こらなかった。

 それは、多くはない蓄えだけで暮らしていかなければならないことを意味していた。

 しかし、その蓄えは1年と持ちそうになかった。


 ただ呼吸をしているだけでもお金は出て行く。

 家賃、電気代、ガス代、水道代、税金、保険料、スマホ代……。

 新聞を止めて、クリーニングに出すのは止めて、ヘアカットも自分ですることにしたが、その程度を倹約してもたかが知れていた。


        *


 6月になった。

 男は部屋のシミのままだった。

 このまま壁の中に吸い込まれて消えていくのではないかと本気で思った。


 筋肉が落ちて、頬がこけ始めていた。

 あれから一度も声を出していなかった。

 声帯が存在しているのか、自信がなかった。

 あれから一度も笑ったことがなかった。

 笑顔がどんなものか記憶から消えていた。

 あれから一度もテレビを見ていなかった。

 世の中がどうなっているのか、まったくわからなかった。

 それに、なんの関心もなかった。

 どうなっていようと関係ないのだ。


 外出もほとんどしなかった。

 冷蔵庫が空になった時に食料品を買いに行くのと、ゴミ出しの時だけ外に出たが、誰とも会話することなく、急いで部屋に戻り、ほとんどの時間をベッドに横になって過ごした。

 その方がお腹が空かないし、楽だったからだ。


        *


 寝ているのか起きているのかわからないまま日付が変わり、7月1日になった。

 その途端、眠気はないのに瞼が重くなった。

 まるで誰かに無理矢理眠らされるように意識を失った。


 夢の中に彼女がいた。

 無機質なベッドに横たわっていた。

 ベッドサイドに置かれた日めくりのカレンダーの日付に記憶があった。

 彼女が亡くなる前日に違いなかった。


 手を握っていた。

 点滴チューブが繋がれているやせ細った手だった。


 酸素吸入マスクを通して、くぐもった声が聞こえた。


「旅行に行きたい。あなたといろんな国を旅してみたい。あなたといろんな場所を見てみたい。いろんな料理を食べてみたい。いろんなお酒を飲んでみたい」


 肩で大きく息をした。

 話すのが辛そうだった。


「連れて行ってくれる?」


 弱々しい力で男の手を握った。


 同じくらいの力で握り返すと、僅かに頷いたような気がした。

 しかし、疲れたのか、スローモーションのような速度で瞼を閉じた。


 その顔はやつれてはいたが、美しかった。

 数えきれないほどキスをしたその唇はカサカサに乾いていたが、男が愛する美しい唇だった。

 手を握ったまま、顔を見続けたまま、じっと待った。

 瞼と口が開くのをじっと待った。


 暫くしてスローモーションのような速度で瞼が開いた。


「今ね、夢を見てたのよ。パレルモの海岸で2人並んで海を見ている夢」


 うふっと微かな笑い声が漏れた。


「沖に大きな船が浮かんでいたわ」


 遠くを見るように目を細めた。


「その船に向かって2人で泳いでいったの」


 また、うふっと声が漏れた。


「船に乗って空を見上げると、飛行船が浮かんでいたの」


 瞳がほんの少し頭の方に動いた。


「気球に乗って飛行船まで上っていったの」


 また目を細める仕草をした。


「飛行船から下を見ると、ヨーロッパが全部見えたの」


 瞳がほんの少し顎の方に動いた。


「ここから見えるところへ全部行きたいって言ったらね……」


 瞳が男の方へ動いた。


「連れて行ってあげるよって、あなたが約束してくれたの」


 そして可能な限りの力を振り絞るかのように男の手を握った。


「あなたと旅がしたい……」


 声が掠れた。

 話すのはもう限界のようだった。

 それでも僅かに残った力で口を動かそうとしたので、耳を近づけると、呟くような声が届いた。


「私の夢を叶えてくれる?」


 返事をしようと顔を上げた時、彼女の手から力が消えた。

 瞼は閉じられていた。

 微かな呼吸音だけが生きている証を示していた。


 …………


 目が覚めた。

 一瞬ここが何処かわからなかった。

 自分の部屋だと気づいて周りを見回したが、彼女はいなかった。


 さっきのことは夢でしかなかった。

 しかし、夢の中に出てきたのは間違いなく彼女との最後の瞬間を再現したものだった。

 なんの脚色もされていなかった。

 すべてが実際にあったことだった。


「私の夢を叶えてくれる?」


 最後の力を振り絞った言葉が蘇った。

 その時、ハッと気づいた。

 遺言に違いなかった。

 彼女は自らの夢をこの自分に託したのだ。


 そうだとしたら……、


 そうだとしたら、こんなことをしている場合ではない。

 こんなところで打ちひしがれている場合ではない。

 彼女の望みを叶えなければならない。

 なんとしても叶えなければならない。


 そう気づくと、全身に血が巡り始めた。

 脳が動き始めた。

 神経が、行動しろ! と命令していた。

 頬を両手で叩いて、気合を入れた。


 洗面所に行って髭を剃り、顔を洗い、歯磨きをし、髪を整え、彼女が似合うと言ってくれたポロシャツとスラックスに着替え、忘れ物がないか確認して、バス停に急いだ。


 着いたのは8時31分だった。

 開いたばかりの税務署の窓口には、もう何人もの人が並んでいた。


 窓口で書類を受け取って、近くの椅子に座り、『個人事業の開業・廃業等届出書』の記入項目を確認した。

 提出日、納税地、氏名、職業、屋号、届出の区分、所得の種類、開業日、開業に伴う青色申告などの届出の有無、事業の概要、給与等の支払の状況、その他参考事項。


 提出日は当日とした。

 7月1日。

 屋号は『YOUR DREAM』とした。

 彼女の夢を叶えるための事業だからだ。

 事業の概要は『ネット専業旅行代理業』とした。


 記入を終え、印鑑を押し、窓口に提出して、税務署を出た。

 ふと見上げると、彼女の笑顔が空に浮かんでいるように見えた。


        *


 男の長い話が終わった。

 誰も何も言わなかった。

 無言で立ち上がり、無言で片づけをし、無言で玄関から出て行った。


「ありがとう」


 3人の後姿が消えた扉に向かって男は呟いた。

 すると、どこからか、ありがとう、という声が聞こえたような気がした。

 それは、とても懐かしく、愛しい声のように思えた。

 彼女の顔が浮かんできた。



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