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♪ 男(10) ♪

 

 肌寒い朝だった。

 窓が雨粒で濡れていた。

 それを見ていると、彼女の涙のような気がした。


 小降りになった10時過ぎにホテルを出て、近くのカフェに入った。

 クロワッサンを一口かじって、カプチーノをすすったが、なんの味もしなかった。

 昨日から何も食べていないのに、かじりかけのクロワッサンも飲みかけのカプチーノにも手が伸びなかった。


 小銭を置いて、店を出て、霧雨の中を少し歩いて、バス停に立った。


 昨日と同じ時刻のバスに乗ると、見覚えのある顔がこちらを向いた。

 すると、あらっ、というような表情になったが、すぐに「ボンジョルノ」と明るい声で微笑んだ。

 しかし、男は暗い声しか返せなかった。

 昨日と同じ2列目に座っても、ルームミラーは見なかった。


 車内には陽気な音楽が流れていた。

 天気にそぐわない明るいメロディで馴染めなかったが、雨に煙る景色をぼんやりと眺めていると、曲が変わった。

 イタリア語で歌われるとても静かな曲で、雨の日にピッタリのそぼ降るメロディだった。

 それに抱かれていると、フェードアウトして曲が変わった。

 大好きな曲だった。『YOUR SONG』

 思わずルームミラーを見ると、運転手が男を見ていた。

 その口元が動くと、微かに声が聞こえてきた。

 歌詞を口ずさんでいるようだった。

 男はルームミラーから目が離せなくなった。


 曲が終わった時、運転手がルームミラー越しにウインクを投げたように見えた。

 それは男の目の中にすっと吸い込まれて、心の中に溶けて広がった。


 ありがとう。


 日本語で呟いた。


        *


 バスを降りると、雨は止んでいたが、低く垂れこめた雲が無理矢理我慢しているように見えた。


 ありがとう。


 空に向かって呟いた。


 昨日と同じ場所に座ると、ジーパンの尻がじっとりと濡れた。

 目の前に広がる海は塞ぎ込んでいるように見えた。

 そのせいか、砂浜を歩く人は誰もいなかった。


 不機嫌そうな海から目を逸らして、手に持った写真を見つめた。


 君が望むなら……、


 砂の上にビニール袋と写真を置いた。


 ここでいいかい?


 返事はなかった。


 もっと後ろの方がいいかい?


 返事はなかった。

 それでも、海からの風に吹かれて写真がわずかに動いた。


 後ろの方がいいんだね、


 10メートルほど下がって腰を下ろすと、さっきよりはるかに見晴らしがよかった。


 ここでいいかい?


 今度も返事はなかったが、さっきと同じくらいの風が海から吹いても、写真は動かなかった。


 ここでいいんだね。


 確認するように写真を見つめてから両手で砂を掘った。

 50センチほどの深さになるまで掘り続けた。


 砂は重く湿っていたが、温かかった。

 すると、ウミガメの卵が孵化(ふか)する映像が脳裏に浮かんだ。


 ここで生まれ変わるのかい?


 でも、沈黙しか返ってこなかった。

 小さくため息を吐いた男は、生卵を置くようにそっとビニール袋と写真を穴の底に置いた。


 それでも、埋められなかった。

 埋められるはずがなかった。

 2つを取り出して写真に頬ずりをして、袋の上からリングに口づけをした。

 すると、ぽつんと雨粒がビニール袋の上に落ちた。

 低く垂れこめた雲は、我慢の限界だと顔をしかめていた。


 そうだね、雨が降る前に埋めないとね……、


 ビニール袋と写真に口づけをして、穴の底に戻し、その上から少しずつ砂をかけた。

 彼女の顔が見えるように周りから埋めていった。


 見えるのは彼女の顔だけになった。

 もう口づけもできないし、頬ずりもできない。

 砂がついた人差し指を自分の唇に当ててから、彼女の唇の上にそっと置いた。


 爪に雫が落ちた。

 雨粒ではなかった。

 肩の震えが止まらなくなった。

 嗚咽が雨を呼んだ。

 風を呼んだ。

 波しぶきを呼んだ。

 叩き付ける雨に全身を震わせた。

 体の核が共鳴した。


 あ~~~~~~~~~、


 自分の声だとは思えない叫びが体の奥から噴き出した。

 すると、打ち消すように海鳴りが襲いかかってきて、男の叫びを包み込んだ。

 そして、渦を巻くように空へ連れ去って消えた。


 彼女の傍を離れることはできなかった。

 埋めたところに手を置いたまま動かなかった。

 びしょ濡れの体は冷え切り、感覚は無くなっていた。

 このまま死んでもいいと思った。

 一緒に遠い所へ行きたいと思った。

 穏やかになった海は子守歌のような波を寄せていた。


 …………


 いつの間にか眠っていた。

 夢を見ていた。

 あの運転手の夢だった。

 あの曲をずっと口ずさんでいた。

 男はルームミラー越しにそれをじっと見ていた。


 目的地に着いてバスを降りたが、バス停から動かず、運転手が戻ってくるのを待った。

 ずっとずっと待った。


 バスが戻ってきてドアが開くと、運転手が微笑んだ。

 男は微笑みを返してバスに乗り込んだ。


 一番後ろの席に座って、遠ざかる海岸を見ると、彼女を埋めた場所を月光が照らした。

 すると、砂の中から彼女が舞い上がって、男が遠ざかっていくのを上空から見つめていた。


 彼女が息を吐くと、男の左手の小指に何かが絡まった。

 でも、何も見えなかった。

 もう一度息を吐くと、その息は男の指に絡まった何かと一緒に空へ舞い上がっていった。

 そして、物凄い勢いで東の方角へ飛んでいった。

 それを見届けた彼女は砂の中に戻っていった。


 …………


 寒くて目が覚めた。

 まだ生きていた。

 彼女のところへは行けなかった。

 それが辛くて動けずにいたが、芯からの震えに促されて、立ち上がった。

 そして、重い足でバス停に向かった。


 暫くしてバスが来た。

 全身ずぶぬれの状態で乗り込んだ。

 偶然にも運転手はあの女性だった。

 乗車は拒否されなかった。

 発車すると、すぐにバスの中が温かくなり始めた。

 空調を冷房から暖房に切り替えてくれたようだった。

 男の他には誰も乗っていなかった。

 運転手と2人だけだった。


 陽気なリズムがバスの中を支配していた。

 レゲエだった。

 スッチャカ、スッチャカ、弾むようなギターのカッティングが運転手の肩を揺らせていた。


 男が降りるバス停に到着した。


 ありがとう。


 日本語で言って頭を下げた。

 すると、ちょっと待って、というふうに運転手が男の二の腕に触った。

 そして、一語一語確かめるように言葉を発した。


「When one door of happiness closes, another opens」


 その言葉をもう一度ゆっくり口にして、男の腕をギュッと握った。

 そして、大丈夫よ、というふうに男の目を見て頷いた。


 ドアが開いた。

 男はバスを降りた。

 雨の中、遠ざかるバスを見送った。

 すると、運転手の声と表情が蘇ってきた。


「When one door of happiness closes, another opens」


 一つの幸せな扉が閉じた時、別の扉が開く。


 バスが視界から消えた時、ポケットからスマホを取り出して、スペルを間違えないように気をつけながら入力した。

 すぐに検索結果が表示された。ヘレン・ケラーの言葉だった。続きがあった。


「When one door of happiness closes, another opens; but often we look so long at the closed door that we do not see the one which has been opened for us」


 一つの幸せな扉が閉じた時、別の扉が開く。しかし、多くの場合我々はその閉まった扉をいつまでも見つめているために、新たに開いた幸せの扉が見えない。


 この言葉を何度も口に出して、その意味するところを考えた。

 何度も考えた。

 でも、自分にとって意味のある言葉だとは思えなかった。


 彼女との扉が閉まって、自分はその扉を見続けている。

 それは間違いない。

 でも、新たに開く幸せの扉は必要ない。

 望んでいるのは彼女との扉が再び開くことなのだ。

 彼女以外との扉が開こうとどうしようと関係ないのだ。

 だから、閉まった扉を見続けながらこれからも生きていくのだ。


 いつまでも一緒だからね、


 呟きを乗せて雨の中に彼女を探した。そして返事を待った。

 しかし、いつまで待っても彼女は姿を見せず、声は聞こえなかった。

 それでも雨の中で待ち続けた。雨が彼女の所に連れて行ってくれるのを期待しながら。



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