♪ 男(9) ♪
翌日、市内の名所を回ったあと、バスに乗ってモンデッロへ向かった。
20分ほど揺られると、綺麗な海が見えてきた。
バス停で降りたのは、一人だけだった。
海に向かって歩くと、潮風が頬を撫でた。
その中に地中海の匂いを感じた。
波打ち際まで行くと、半端ない透明度に誘われた。
男はジーンズの裾をまくって、足首まで海に入った。
綺麗だろ?
彼女の写真を海面に近づけた。
本当、透き通ってる。
ティレニア海だよ。
泳ぎたいわ。
そうだね、水着になろうか。
ビキニを持ってきたの。
君の好きな花柄だね。
そう、そしてあなたの好きな花柄。
似合ってるよ。
ありがとう。あなたも水着になったら?
そうする。
熱帯魚のプリントが可愛い。
ありがとう。
さあ、泳ごう。
遠浅の海を2人でどこまでも泳ぎ続けた。
浜に戻って息を整えていると、思い詰めたような声が鼓膜に纏わりついた。
お願いがあるの。
なんだい?
ここに私を埋めて。
えっ?
骨とリングと2人で写った写真を砂浜に埋めて欲しいの。
でも、
お願い、ここに埋めて。
でも……、
男は狼狽えた。
骨とリングを埋めてしまったら彼女の形見が無くなってしまうからだ。
そんなこと、できるはずがなかった。どんなに頼まれても、聞き届けるわけにはいかなかった。
*
その夜、不思議な夢を見た。
天使になった彼女が空に浮かんでいた。
見つめていると、語りかけてきた。
ティレニア海の潮騒を子守歌にして眠りたいの。
あなたが恋しくなったら日本が見える高さまで舞い上がって姿を探すから大丈夫よ。
答えられずにいると、目の高さまで下りてきて、暫く正面から見つめられた。そして、椅子に座った男の膝にそっと腰かけた。
ありがとう。新婚旅行楽しかったわ。約束してくれたことを全部果たしてくれて嬉しかった。あなたってやっぱり最高ね。本当にありがとう。
でも、日本には帰りたくないの。だって一緒に帰ったらあなたを束縛してしまうでしょう。
それは嫌なの。あなたを束縛したくないの。
すぐに男は首を振った。
そんなこと言うのは止めてくれ。君のいない人生なんて考えられない。生きているかどうかなんてどうでもいいんだ。君と2人で過ごしたいんだ。
それはダメ。私の願いはあなたが幸せになること。私に束縛されることではないの。私を卒業して。未来へ一歩踏み出して。
そんなことできるわけがない。無理だ。絶対無理だ。
子どもみたいなこと言わないの。
子どもみたいでもなんでも構わない。一生君だけを思い続ける。
ありがとう。とっても嬉しい。こんなに愛されるなんて世界一幸せだわ。
でもね、あなたが本当に私を愛しているなら、宇宙一幸せにして。
宇宙一?
そう。だから、私よりもっと素敵な人と巡り会って欲しいの。その人と幸せになって欲しいの。その姿を見ることができれば私は宇宙一幸せになれるの。
そんなことは無理だ。君以上の女性なんているはずがない。
よく聞いて。私はもうこの世にいないの。それに、もうすぐ遠い所へ行ってしまうの。こうやってあなたと話すことはできなくなるの。
冗談じゃない。遠くになんか行かせない。絶対に君を手放さない。
それは無理なの。あなたがどんなに望んでも無理なの。行かなきゃならないの。
止められないのか?
止められない。
だとしても君を思い続ける。君とこうやって話し続ける。
それはできないわ。私が遠くに行ったあとに残るのは幻なの。幻は喋ることができないの。
そんな……、
呆然としていると、彼女は羽ばたいて男の目の前で静止した。
最後のお願いを聞いて。骨とリングと2人で写った写真をあの砂浜に埋めて。そして、素敵な人に出会って幸せになって。私を宇宙一幸せにして。
*
目が覚めたら、彼女の存在を感じられなくなった。
会話も交わせなくなった。
何度呼び掛けても返事はなかった。
奈落の底に突き落とされたようになった。
昨日まであんなに楽しかったのに……、
孤独が男を支配した。
生きる意味が感じられなくなった。
気づくと、11時を回っていた。
体は重かったが、微かに残っている気力をかき集めてなんとか立ち上がり、もう一度海に行くためにバスに乗った。
運転手は女性だった。
ジーンズの上に花柄のシャツを着ていた。
顔を見た瞬間、目を疑った。
フィレンツェのヴェッキオ橋で見たピアニストによく似ていたからだ。
余りにも似ていたので目を離せないでいると、運賃を促された。
1.4ユーロをケースに置くと、「グラッツェ」とほんの僅かに頬を緩めたが、早く座るようにとまた促された。
男は前から2番目の席に座って、運転手の顔をルームミラーで探した。
本当によく似ていた。
25分後、モンデッロに着いた。
バスに乗っている間ずっと写真の彼女に話し続けたが、なんの返事も返ってこなかった。
もうどこかに行ってしまったのだろうか……、
*
ティレニア海は今日も透明だった。
太陽に照らされて水面がキラキラと光っていた。
決心は変わらないのかい?
返事はなかった。
砂の上に遺骨とリングが入ったビニール袋と写真を置いた。
ここに埋めたらいいのかい?
無言だった。
暫く砂の上に座って海を見ていたら、太陽を真上に感じた。
その光がビニール袋と写真をキラキラと輝かせていた。
無理だ。君と別れることなんてできるはずがない。
写真とビニール袋を持って立ち上がり、海岸沿いのカフェに入ってビールを飲んだ。
ツマミは頼まず、小瓶を2本飲んで店を出た。
バスに乗ってパレルモまで帰った。
運転手は厳つい感じのおじさんで、運賃を渡しても何も言わなかった。
早く座るようにと顎をしゃくられたので、一番後ろの席に座った。
それからあとは窓の外を見続けたが、何を見ているのか、まったくわからなかった。
ホテルに戻ってから一晩中話しかけた。
でも、彼女は何も答えてはくれなかった。
部屋のどこにも存在を感じることはできなかった。
独りぼっち……、
呟いた言葉が壁に吸い込まれていった。




