♪ 男(8) ♪
翌日、ローマに着いた。
ホテルのチェックインを済ますと、すぐにレンタサイクルの店に行き、後ろに人が乗れる荷台のあるタイプのものを借りた。彼女との約束を果たすためだ。
自転車にまたがると、ケース付きストラップに彼女の写真を入れて、首から下げ、彼女のお気に入りのシャツを腰に巻き付け、その袖をへその前あたりで結んだ。すると、後ろに乗った彼女が自分のお腹に手を回しているような気がした。
出発するよ、
彼女に声をかけて自転車を漕ぎ出した。
ブランカッチョ宮殿からバルベリーニ宮殿へ、
共和国広場からフォロ・ロマーノへ、
コロッセオからジョー・ブラッドリーのアパートへ、
トレヴィの泉からスペイン広場へ、
パンテオンからヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂へ、
真実の口からサンタンジェロ城へ、
そして最後に、コロンナ宮殿。
『ローマの休日』でオードリー・ヘップバーンが扮するアン王女とグレゴリー・ペックが扮するジョー・ブラッドリーが廻ったコースを辿るのだ。
「ローマに行ったらバイクに乗って、映画のストーリーと同じように廻ってみたいの」
あの日、目を輝かせて彼女が言った。
「スペイン階段に座って、ジェラートを食べたいの、ジョーがやったみたいに真実の口に手を入れて私を驚かせて」とも言った。
「あ~待ち切れない」と後ろから抱きついてきた。
「あなたの背中に顔をくっつけてローマの風を感じたい」と夢見るような声が男のハートを掴んだ。
「必ず行こうね、映画と一緒の順番で廻ろうね」
へその前で手を組んだ彼女の10本の指に男は自らの指を重ねた。
そんな彼女に約束した日のことが鮮明に蘇ってきた。
すると、へその前で結んだシャツの袖が嬉しそうにはためいた。
気持ちいいかい?
風を感じているかい?
自転車を漕ぎながら彼女に話しかけた。
とっても気持ちがいいわ。
髪がなびいているのが見える?
しっかり抱きついているのがわかる?
そう言って男の首筋にキスをした。
幸せな気分になった男は、彼女がもっと風を感じられるようにペダルを強く踏みこんだ。
スピードを出すからしっかり掴まっていてね、
後ろに向かって声をかけると、シャツの結び目がギュッと締まったように感じた。
*
その夜、夢の中でも彼女とデートをした。
船上パーティーでダンスを踊っていた。
彼女の髪に口づけをしながら幸せに酔った。
しかし突然、多数の暴漢が現れて、2人に襲いかかった。
男は彼女を守るために戦ったが、多勢に無勢で逃げるしかなくなった。
2人でテベレ川に飛び込み、必死に泳いで向こう側の岸に辿り着いた。
暴漢は追ってこなかった。
安心した2人は抱き合って口づけをかわした。
長い長い口づけをかわした。
アパートに帰って、びしょ濡れの服を脱ぎ、熱いシャワーを掛け合った。
そして、そのまま抱き合った。
一つになると、男の首に回していた彼女の腕がきつく締まり、内からの波動が胸へ、唇へ、そして脳に伝わってきた。
かつてないほどの高みに達した瞬間、狂おしいほどの歓喜が溢れた。
すべての力を使い果たした時、目が覚めた。
とっさに彼女を探した。
しかし、どこにもいなかった。
夢の中に戻りたかった。
でも、戻れなかった。
彼女の写真を抱いて泣いた。
*
ピザを食べに行こうね、
ヴェスヴィオ火山を見上げながら彼女を誘った。
いいわね。
ティレニア海を見つめていた彼女が頷いた。
何がいい?
そうね……、
彼女が首を傾げた。
やっぱりマルゲリータかな、
笑顔で見つめられた。
そうだね、じゃあ、私は何にしようかな?
いろんな味を試したいから4種ミックスにしようかな?
いいわね、私にもちょっと分けてくれる?
いいよ、あ~んしてあげる。
本当?
彼女が嬉しそうに笑った。
男はナポリの大聖堂の前にあるピッツェリアに入り、ピザを注文した。
ところが、店員が運んできたそれを見て、驚いた。
マルゲリータと4種ミックスでテーブルがいっぱいになったのだ。
目を丸くしていると、周りのテーブルから興味津々といった視線を感じた。
一人で食べられるのか? といった好奇な視線だった。
それがちょっと気になったが、テーブルの下で秘かにベルトを緩めて、臨戦態勢に入った。
よし、準備OKだ。
手でつかんでマルゲリータにかぶりついた。
美味かった。
ピザ職人の魂が入っていた。
生地は歯ごたえがあるのにサクサクと軽い。
それに、トマトやモッツァレラチーズ、バジリコのバランスが最高で、それぞれが主張しながらもハーモニーを奏でている。
本場ならではの味に感心したが、ふと見ると、私も食べたい、というように彼女が口を開けていた。
ごめん、ごめん、と謝ってから一切れ取って写真の口に近づけた。
美味しい? と訊いた瞬間、彼女の顔が恵比寿さんになった。
今度は君が最初だからね。
4種ミックスの中からマリナーラを切り分けて彼女の口に近づけた。
どう?
ニンニクの風味が最高!
また恵比寿さん顔になった。
次をどれにするかちょっと迷ったが、チーズの上にアンチョビが乗ったものを彼女に少し分けてから、自分の口に入れた。
う~ん、最高。
ローマ風のピザらしいが、これもまたいい。
それにロゼが合った。
アンチョビに赤ワインは難しいから、店の人の意見を聞いてロゼにして正解だった。
奥に立っているスタッフにグラスを掲げると、彼は右手親指を立てて嬉しそうに微笑んだ。
最後は生ハムが乗ったピザを2人で分けた。
フィレンツェ風らしい。
アーティチョークがアクセントになったこれもいける。
全部食べたら胃がパンパンになって、動けなくなった。
スタッフからエスプレッソを勧められたが、頷くわけにはいかなかった。
胃の隙間はもう1ミリも残っていないのだ。
今夜は食事を抜こうとその場で決めた。
*
アマルフィに行けなくてごめんね、
シチリア行きの電車から海の方向を眺めながら彼女に謝った。
アマルフィには鉄道が通っていないのだ。
金銭的な制約によって時間的な余裕がないので、アマルフィをパスする以外に選択肢がなかった。
もう一度ごめんねと言った瞬間、在りし日の会話が蘇ってきた。
『アマルフィ 女神の報酬』を見た彼女が、「あなたが織田裕二で、私が天海祐希。海岸に面した素敵なお店でリモンチェッロを飲みたいな」と言ったのだ。
「イイネ、それいい。絶対行こう」とその時は約束したのだが……、
ごめんね。でも、リモンチェッロは買ったから、電車の中で一緒に飲もうね。
バッグからボトルとプラスチック製コップを取り出して注ぐと、レモンの爽やかな香りが漂った。
乾杯!
彼女の口に近づけた。
香りと味はどう?
爽やかで甘くておいしいわ。
よかった。
でも、ごめんね、アマルフィに行けなくて。
いいのよ、目を瞑ればここがアマルフィだわ。
ありがとう、私も目を瞑るね。
本当だ、アマルフィの海が見えた。
君と手を繋いで海岸を歩いている。
天海祐希より素敵な君と一緒にいられるなんて、世界で一番の幸せ者だね。
私もよ、あなたは織田裕二より何倍も素敵よ。
…………
いつの間にか夕陽が落ちた海岸で抱き合ってキスをしている夢を見ていた。
ヒロインとヒーローになれたね、
天の川の囁きを乗せた流星が祝福するように降り注いだ。
…………
夢から覚めると、列車はイタリア本土の先端、ヴィラ・サン・ジオバーニに到着しようとしていた。
ここから引き込み線を通ってフェリー乗り場へ向かう。
そしてそのまま電車ごとフェリーでシチリア島へ向かうのだ。
8両編成の列車が4両ずつに切り離されて、船内にある2本の線路に納められた。
約1時間の船旅が始まった。
デッキに上がって、窓際の席でエスプレッソを飲んだが、いつもと味が違っていた。
ちょっとセンチな気分になっているからかもしれなかった。
彼女との楽しい旅が終わりに近づいているからだ。
内ポケットから写真を取り出して、囁きかけた。
旅が終わってもずっと一緒だからね、
しかし彼女は目を合わそうとはしなかった。
寂しそうに海を見つめていた。
船が着岸して線路が連結されると、また電車が走り出した。
パレルモへ向かう電車の窓からは青く広がる海が見えた。
もうすぐ旅の終着駅だよ、
男は海に向かって写真を掲げた。
ゲーテが「世界で最も美しいイスラムの都市」と称賛したパレルモに君は来たかったんだよね。
太陽とオリーブ、アーモンド、オレンジの中を歩きたかったんだよね。
そこにやってきたんだよ。
君の憧れの地、パレルモにやって来たんだよ。
……、
どうしたの、涙ぐんだりして。
だって、本当に来れるなんて……、
バカだな、約束したんだから当然だよ。
……、
また泣く、
だって……、
パレルモに涙は似合わないよ。
さあ、笑って。
うん、もう泣かない。
男は彼女の涙を吸い取るようにキスをした。




