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♪ 男(6) ♪

 

 1週間の有給休暇が終わろうとしていた。

 日付が変わったら仕事へ行かなければならないのはわかっていたが、気持ちの整理はまったくついていなかった。

 たった1週間でつくはずはなかった。

 いや、1か月後でも、1年後でもそれが変わるはずはなかった。


 この1週間、一日中骨壺を抱きながら彼女に話しかけていた。

 それ以外に何をする気も起らなかった。

 ほとんど動かずじっとしていたが、それでもお腹がすくので、仕方なくカップラーメンやパンを口にしたが、まったく味がしなかった。

 ほんの少し食べては、残りを捨てた。

 台所のペダル式ダストボックスの中には生ごみを入れた袋が重なっていたが、収集日のことは頭から完全に消えていた。


        *


 日付が変わっても仕事には戻れなかった。

 その後は毎朝会社に電話して、有給休暇を取り続けた。

 しかし、それにも限界がある。

 有給休暇はいつか使い終わる。


 机の引き出しから便箋と封筒を出して、ボールペンを握った。

 ミミズのような文字しか書けなかったが、それでも書き直す気力はなく、そのまま便箋を折り畳んで、封筒の中に入れた。


        *


 有給休暇を使い果たした翌日、久し振りに外出した。

 太陽がまぶしかった。

 足を引きずるようにして会社へ向かった。


 無言で上司に封筒を渡した。

 中から便箋を出した彼は、〈一身上の都合〉という文字を目で追うと、すぐに「わかった」とだけ言って、席を立った。

 引き止められることはなかった。

 引き継ぎさえ求められなかった。

 代わりはいくらでもいるし、自分の仕事は誰にでもできるのだ。

 私物をバックパックに詰め込んで出口へ向かったが、誰からも声をかけられなかった。

 可哀そうに、という視線だけを背中に感じながら会社をあとにした。


        *


 10日後、男はシベリアの上空にいた。

 足元がかなり冷たくて、毛布1枚では眠れそうになかった。

 通りかかったキャビンアテンダントに声をかけたが、追加の毛布はないと言われた。

 エコノミーの客が毛布を2枚要求するのは理不尽とでも言いたげな態度だった。

 仕方がないので足元に置いていたキャリーオンバッグに予備の靴下を入れていなかったか探したが、見つけることはできなかった。


 旅慣れている自分がこんな初歩的なミスをするなんて……、


 思わず唇を噛んだが、今更後悔してもどうしようもなかった。

 足首を交差して、温もりが逃げないようにして、目を瞑った。

 でも、睡魔は近寄って来なかった。

 疲れているのに中枢神経が覚醒したままだった。

 眠るのを諦めて、上着の内ポケットに入れた薄いビニール袋を取り出した。

 すると、彼女の骨と一緒に入れたペアリングが隣席の読書灯の光を受けて生きているように輝きを放った。


 一緒だからね、


 心の中で囁いた。


 一緒に旅しようね、


 もう一度心の中で囁いてから、骨が壊れないようにそっと内ポケットに戻した。


        *


 ポーランドの上空に差し掛かった。

 寒さは変わらなかったが、眠ることを諦めたので、どうでもよくなっていた。

 機内モニターで空路を確かめると、オーストリアの上空を経てアルプスを越えた先に目的地があった。


 もうすぐだよ、


 胸にそっと手を当てて彼女に告げた。


        *


 13時間の飛行が終わった。

 現地時間は18時8分と表示されていた。

 マルペンサ空港の出国ゲートには長い行列ができていた。

 寒くもなく暑くもない5月のミラノは観光に最適なので、世界中から観光客が押し寄せているようだった。

 それに、背広姿のビジネス客も少なくなかった。


 かなり待たされて出国ゲートを抜けた男は、スマホでルートを確認して、スーツケースを押しながら空港に隣接するホテルへ向かった。


 一番安いシングルルームを予約していた。

 無職になった男に贅沢は許されないからだ。

 新婚旅行のために貯めたお金と僅かな退職金で今回の旅行と今後の生活費を賄わなければならない。

 節約! と口に出して、1階のフロント脇にある棚からサンドイッチとビールを手に取った。

 今日の夕食はこれがすべてだ。

 それでも、なんの問題もない。

 彼女と一緒なら高級レストランのディナーと変わらない。


 部屋に入って、小さなテーブルの上にサンドイッチとビールを置き、その向こう側に彼女の写真と形見のビニール袋を置いた。


 乾杯、


 彼女の写真に向けて缶を掲げた。


 いただきます、


 サンドイッチを掲げた。


 明日から始まるよ、


 シチリアまでの旅を彼女に説明した。


 一緒だからね、


 呟いた瞬間、彼女の顔が揺れて見えた。

 すると、喉の奥から何かが込み上げてきた。

 それを押し止めようとビールを流し込んだが、口の中に苦味が広がっただけだった。

 すぐに頭を振った。


 ダメだダメだ、


 彼女に見えるように右手をゲンコツにして頭を叩いた。


 楽しい旅にしなきゃね、


 無理矢理笑みを浮かべた。


 そのあとはボーっとテレビを見ていたが、機中で眠らなかったせいか、徐々に瞼が重くなってきた。

 睡魔に抱かれるのに時間はかからなかった。


        *


 泥のように眠って目覚めた翌朝は、眩しいくらいの光が窓から降り注いでいた。


 いい旅になりそうだね、


 机の上の彼女にウインクを投げた。


 ホテルを出て、到着ロビー近くの4番ゲートに向かった。

 10分ほどでエアポートバスが到着した。

 行先は中央駅前広場脇のルイージ・ディ・サヴォイア広場。

 空港からの距離は約50キロ。

 50分ほどで着くという。

 料金は往復で14ユーロ。

 窓際の席が空いていたので、そこに腰を下ろした。


 君が見たかった歴史的建造物までもうすぐだからね、


 広い窓から見えるのどかな田園風景を彼女に見せながら話しかけた。


 その後は暫くボーっと景色を見ていたが、ミラノの街中へ入ると、歴史を感じさせる建物をあちこちに見かけるようになった。


 そろそろだ。


 彼女の写真を内ポケットにしまって到着を待った。


        *


 これが大聖堂だよ、


 1386年から建設が開始され、500年という気の遠くなる時を経て完成したミラノ大聖堂前に男は立っていた。

 ゴシック建築としては世界最大級の大きさというだけあって、その威容に圧倒された。

 高さ108メートル、幅六1.5メートルとガイドブックに書いてあった。

 男は大聖堂に背を向け、頬の横に彼女の写真を並べてスマホで自撮りをした。

 その映り具合を確認すると、彼女が嬉しそうに笑っていた。


 中に入ると、ステンドグラスの余りの美しさに身動きできなくなった。

 しかしいつまでもそうしているわけにもいかず、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に移動することにした。


 到着すると、すぐに教会を背にして彼女と一緒に写真を撮った。

 でも中には入らなかった。

 いや、入れなかった。

 本当はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『最後の晩餐』の実物を見せてあげたかったが、予約が取れなかったので、諦めるしかなかった。


 ごめんね、


 彼女に頭を下げた。


 仕方ないわよ。


 慰めてくれた。


 これで我慢してね、


 ガイドブックを開いて、『最後の晩餐』のページに彼女の写真を並べてスマホで撮影した。


 ごめんね、


 また謝った。


        *


 昼前にナヴィリオ運河に着いた。

 元々は大聖堂を取り囲むように作られたもので、生活物資を運ぶ重要な水路だったが、戦後、埋め立てられて僅かに2本残っているだけだという。

 ライトアップされる夕暮れ以降が綺麗だとガイドブックに書いてあるが、夜は行きたいところが別にあるので、ここで昼食を取ることにした。


 まだ時間が早いせいもあって、運河沿いのテラス席に座ることができた。

 地ビールの小瓶と魚介の唐揚げを注文すると、それほど待たされずに運ばれてきた。

 エビ、シャコ、ムール貝、それに、何かは知らないが白身の魚、その上にレモンが一切れ乗ってある。

 ジュッと絞ってエビを頬張ると、カラッと上がった殻が香ばしかった。

 それに身の甘いこと。

 余りに美味しいので、紙コップのような容器の半分くらいを一気に食べてしまった。

 でも、残りの半分はゆっくり食べる。

 彼女との時間を大切にしなければならない。

 運河がよく見えるように紙コップ型容器に写真を立てかけて、椅子も運河の方に向けた。


 よく見えるかい? 


 彼女の顔を覗き込んだ。


 素敵な景色ね。


 彼女が微笑んだ。


 ビールが無くなったので、ちょっと贅沢するね。


 彼女に断ってもう1本頼んだ。


        *


 街をぶらぶら歩きたいと言っていた彼女の意を尊重して、午後は街歩きを楽しんだ。

 旧市街をゆっくり歩いたあと、ウインドーショッピングにも時間をかけた。

 ファッションの都と言われるだけあって素敵な店が多い。

 彼女に買ってあげたら喜んでくれただろうなというような服ばかりだ。


 君はどれが好き? 


 花柄のワンピース。


 彼女と語り合いながらウインドーショッピングを楽しんだ。


 その後は、ミラノで一番大きな公園と言われている緑豊かなセンピオーネ公園のベンチでのんびりと過ごした。

 夕方になっても昼間のように明るいので離れがたかったが、時間になったので今日最後の目的地に向かった。


        *


 駅の反対側にその店はあった。

 陽が落ちて灯りに照らされたガリバルディ地区にひっそりと佇む店。

 ニューヨークや東京と同じ店名のジャズクラブ。


 この店に君を連れてきたかったんだ。

 君と初めて会ったジャズクラブと同じ店名だからね。

 今宵は2人で素敵なジャズを聴こうね。


 微笑む彼女を胸に抱いて店の中に入った。


 2階のカウンター席に座って、メニューを開くと、おいしそうな料理が目に飛び込んできたが、ぐっと我慢して、一番安いものを頼んだ。

 パニーノ。

 それに合わせる飲み物をどうしようかと少し迷ったが、赤のグラスワインにした。


 彼女の写真にグラスの縁を当てて乾杯した。

 少しして運ばれてきたパニーノは結構な大きさで、パンに挟まれた具材がはみ出ていた。

 大きく口を開けて一口かじると、ハムとチーズと野菜のバランスが最高で、思わず頬が緩んだ。


 美味しい? 


 彼女が私の顔を覗き込んでいた。


 とっても。


 良かった。


 彼女が笑った。


        *


 食べ終わって少し経った頃、照明が落とされ、ミュージシャンが登場した。

 拍手の中、それぞれが手を上げてステージに上がると、更に拍手が大きくなった。


 男性2人と女性1人が所定に位置に着いた。

 ドラマーは大柄なスキンヘッドで、ベーシストは神経質そうな短髪。

 どちらも50代くらいに見えた。

 ピアノとヴォーカル担当の女性はまだ若そうで、30代前半と思われた。

 腰までありそうな黒い長髪が東洋系の雰囲気を漂わせていた。


 ピアニストがドラマーに目配せをし、ドラマーがベーシストと目を合わせた瞬間、演奏が始まった。

 大好きな曲だった。『´S WONDERFUL』

 ガーシュイン兄弟が作詞作曲した名曲。

 1927年にミュージカルのために書き下ろした曲だが、その後多くの歌手がカバーした彼らの代表曲。

『ラプソディ・イン・ブルー』で有名なガーシュインだが、彼が作曲したバラードナンバーは本当に素晴らしい。

 それに、ボサノヴァ風にアレンジした演奏がとても心地良い。

 ピアニストのセンスだろうか? 

 次の曲への期待が一気に高まった。


 期待を裏切らない演奏が続いた。『EMBRACEABLE YOU』、『THE MAN I LOVE』と更にガーシュインの曲が続いたのだ。演奏もさることながらその歌唱力に舌を巻いた。


 3曲目が終わり、拍手に軽く会釈を返したピアニストが座ったままマイクを握った。


「懐かしのロックはお好きかしら?」


 イタリア訛りの英語で客席に問いかけると、あちこちから拍手が起こった。


 どんな曲だろう? 

 自分の知っている曲かな? 


 期待でワクワクしていると、意外な曲が始まった。

『LIGHT MY FIRE』

 アメリカのロックバンド、ザ・ドアーズの代表曲。

 1967年に3週連続で1位を獲得した大ヒット曲。

 邦題は『ハートに火を点けて』

 原曲がわからない程にテンポをぐっと落として、完全にジャズになっている。


 凄い! 


 彼らのセンスに思い切り脱帽した。


 演奏が終わって驚きながら拍手をしていると、「これは知っているかしら?」と悪戯っぽい笑みを浮かべてビートルズの曲を歌い出した。

『STRAWBERRY FIELDS FOREVER』

 落ち着いたテンポでボサノヴァ調にアレンジしている演奏が心地良い。

 それに、けだるそうに歌うピアニストの声に引き込まれた。

 色々な心情を表現できる七色の声が観客の心を鷲掴みにしていた。


 演奏開始から60分が過ぎた頃、ステージ最後の曲が終わった。

 でも、当然のように観客はアンコールを求めた。

 一度控室に下がった3人がステージに戻ってくると、拍手と口笛が彼らを迎えた。


 アンコールを2曲続けたあと、ピアノだけをバックにしてあの名曲が始まった。

『SMILE』

 映画『モダン・タイムズ』のためにチャップリンが作った曲。

 余りにも素晴らしいので聴き入っていると、演奏が終わった瞬間、手に持った写真が震えるように動いたような気がした。

 どうしたのかと思って視線を移すと、何か言いたそうな表情になっていた。


 何? 


 彼女の唇が動いた。


 あなたも笑って。


 そうだね、新婚旅行だものね、笑わないとね。


 写真に向かって口角を上げた。

 でも、すぐに彼女に注意された。


 目が笑っていないわよ。


 その通りだった。

 不自然なのは自分でもわかっていた。


 もう少し時間をくれるかな? 


 わかったわ。


 優しく包み込むような声だった。


 ありがとう。


 彼女の唇にキスをして、そっと胸に抱いた。


 その時、会場が明るくなった。

 もうアンコールはありませんよ、とでも言っているように。

 ステージを見ると、既にピアニストの姿はなかった。


 周りの客が立ち上がった。

 男も立ち上がろうとしたが、彼女の囁きがそれを止めた。


 素敵な夜をありがとう。


 男は再び腰を下ろして彼女に向き合った。


 どういたしまして。


 すると、彼女の明るい声が耳に届いた。


 また連れて来てね。


 男は大きく頷いた。


 そうだね、また来ようね。


 客が次々に立ち上がる中、男は写真を手に持って、彼女との会話を続けた。



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