♪ 男(5) ♪
最後の瞬間に立ち会うことはできなかった。
病院に駆けつけた時には既に息を引き取っていた。
覚悟をしていたつもりだったが、彼女の死を受け入れることはできなかった。
昨日まで息をしていたのだ。
酸素マスクの力を借りてではあったが、間違いなく息をしていたのだ。
生きていたのだ。
この世に存在していたのだ。
ほんの少ししか会話をすることはできなかったが、握った手は温かかったのだ。
しかし、触れた手に温かみは残っていなかった。
これからどんどん冷たくなっていくのかと思うと、居たたまれなくなり、病室から逃げ出すように廊下に出た。
壁に背を付けて天井を見上げると、明かりが滲んで見えた。
残っていないはずの涙が零れ、生きている意味と共に流れ落ちた。
立っていられなくなった。
うずくまって両手で頭を抱えた。
何かを叫びたかったが、何を叫んだらいいのかわからなかった。
う~~~~~~~~~~っという詰まったような声しか出せなかった。
その時、手が肩に触れた。
彼女の義兄だった。
彼女と会うきっかけを作ってくれた恩人であり、交際を温かく見守ってくれた人だった。
彼の目は真っ赤に腫れ、鼻から水が滴り落ちていた。
声を出そうとしたようだったが、彼の口からは何も出てこなかった。
それでも何かを伝えるような目で見つめられ、腕を取られた。
そして、立ち上がるようにと引き上げられた。
よろけながらもなんとか立ち上がると、背中を押された。
病室に戻ると、彼が私の右手を取り、彼女の顔に触って欲しいというように誘導された。
頬を撫でた。
冷たかった。
ツルツルの頭を撫でた。
冷たかった。
閉じた瞼に触れた。
冷たかった。
目が開かないことはわかっていたが、それでも奇跡が起こるのを待った。
待ち続けた。
でも、瞼が開くことはなかった。
彼女は永遠の闇の中に連れ去られたのだ。
後ずさりするように彼女から離れて病室を出ると、逃げるように病院をあとにした。
*
彼女のいない人生を生きることに意味があるのだろうか……、
出会った時から24時間、常に彼女のことを考えていた。
心は常に彼女と一緒だった。
彼女がいるから仕事を頑張れた。
彼女がいるから引っ越しをした。
彼女がいるから料理を覚えた。
彼女がいるから毎日が楽しかった。
彼女がいるから……、
でも、もう彼女はいない。
人生のすべてだった彼女はもういない。
もうどこにもいないのだ。
それは、彼女と出会う前に戻る事とは違っていた。
部屋の中はもちろん、
病院から駅までの間にあるレストラン、
コーヒーショップ、
鮨屋、
ラーメン屋、
居酒屋、
牛丼屋、
スーパー、
コンビニ、
ドラッグストア、
100円ショップ、
花屋、
公園、
池、
橋、
道路、
路地、
そのすべてに彼女との思い出が詰まっているのだ。
彼女と出会う前はただの池だったところが、2人で足漕ぎボートに乗った瞬間から特別な場所に変わったのだ。
いつの間にか、思い出が詰まった公園に来ていた。
池で恋人同士が楽しそうに乗るボートを見ていると、彼女と交わした会話がすべて蘇ってきた。
繋いだ手の温もりが蘇ってきた。
代わりばんこに飲んだキャラメルマキアートの甘い香りが蘇ってきた。
もうそこはただの池ではなかった。
彼女と過ごした池なのだ。
彼女を見て、
彼女を感じて、
彼女に触れて、
彼女に見つめられた特別な場所なのだ。
もう彼女と出会う前に戻る事なんてできるわけがない。
彼女の洋服、パジャマ、下着、靴下、スリッパ、靴、サンダル、化粧品、歯ブラシ、食器、コップ、そして、写真、それに、2人で聴いたCD、2人で観たDVD、2人で頭をくっつけて寝た大きな枕、それから、彼女が裸の上に羽織った男物の白いワイシャツ、2人で入ったバスタブ、2人で取り合いをしてシャワーを掛け合ったシャワーノズル、2人で体を拭き合ったバスタオル、2人で髪を乾かし合ったドライヤー、2人で使った爪切り、どちらが早く覚えるか競い合ったイタリア語の本、それ以外にも、彼女がアイロンをかけて新品のようにしてくれたハンカチ、スーツやシャツやズボンにもアイロンをかけてくれた。それから、膝の上で耳掃除をしてくれた綿棒の入ったプラスチックのケース。
何を見ても、どこを見ても、部屋中彼女だらけなのに、もう彼女はいない。
彼女との思い出だけが取り残されて、独りぼっちになった自分を取り囲んでいる。
切なくて……、
寂しくて……、
どうしたらいいのかわからない……、
会いたい……、
*
葬式の間、遺影をずっと見ていた。
恥ずかしそうに微笑んだその顔は男が撮った写真だった。
病気になる前の一番輝いていた時の写真だった。
そして、宝物の写真だった。
焼香の順番が来た。
親族が終わって最初に焼香台の前に立った。
一礼をして数珠を左手にかけ、右手で抹香をつまんで額に付けるようにした。
それを香炉の炭の上にくべて合掌した。
でも、目は閉じなかった。
一心に遺影を見つめて話しかけた。
愛してるよ、
一生愛し続けるからね、
誓いを立てて、頭を垂れた。
そして、遺族に一礼して席に戻った。
*
葬式が終わり、用意されたタクシーに乗り込み、火葬場へ移動した。
火葬前の最後の面会のために棺の蓋が開けられた。
きれいに化粧が施された彼女の美しい顔が目の前にあった。
頭を撫でて、おでこに触って、頬を撫で、唇に触れた。
本当はキスがしたかった。
最後にキスをしながら、ありがとうと伝えたかった。
でも、できるわけがない。
唇に触れながら彼女の感触を指に憶えさせた。
「キスしてあげて」
彼女のお母さんだった。
男の背中に軽く手を添えて静かに押した。
彼女の唇の上に置いた男の指が濡れた。
堪えていた涙が爪の上で光った。
鼻水が落ちそうになった。
すすり上げた。
それでも止められそうになかった。
白いハンカチが差し出された。
彼女のお父さんだった。
背中の手が2つになった。
彼女に顔を近づけ、唇に触れた。
冷たかった。
でも、彼女の唇だった。
キスをしたまま、ありがとう、と言った。
さようなら、とは言わなかった。
「ありがとう……」
お母さんだった。
「ううっ……」
お父さんだった。
背中の2つの手が喪服を掴んで震えていた。
………
棺の中に花と思い出の品が入れられた。
男は彼女と2人で写った写真を手にし、あっちへ行っても一緒だからね、と呟いて彼女の胸の上に置いた。
そして、左手薬指のペアリングを抜いた。
すっと抜けた。
細くなった指が痛々しかった。
胸が締め付けられて堪えられなくなった。
棺にすがるように腰を落とした。
声を上げて泣いた。
………
灰になって戻ってきた。
係員に頼んで左手薬指の付け根付近の骨を拾ってもらい、小さな骨壺に入れた。
その上にペアリングを置いて、蓋を閉めた。
これからずっと一緒だからね、
骨壺を抱いた。




