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♪ 男(4) ♪

 

 週末が休日の彼女と平日が休日の男が朝から晩まで一緒にいることは不可能だった。

 それに、週末も遅くまで残業している男は、彼女が休みの日の夜でさえ時間を作ることができなかった。

 だから、デートはいつも男の休日である平日の夜に限られていた。

 彼女の勤務が終わるのを待って、病院の近くの飲食店で夕食を共にするのがお決まりのコースだった。

 それでも、その短い時間の1秒1秒は、これまでの人生のどの瞬間に比べても輝きに満ちていた。


 初めてのキスは5回目のデートの時だった。

 夕食後、近くの公園のベンチに座り、彼女を引き寄せて、そっと唇を合わせた。

 初めてお互いの体に触れたのは7回目のデートの時だった。

 柔らかな感触に心が震えた。

 そして、初めて一つになったのは、彼女が平日に2日間有給休暇を取り、伊豆のホテルに泊まった12回目のデートの時だった。

 寝るのを惜しんで愛し合った。


 男が転居を決心したのは13回目のデートの時だった。

 彼女と1秒でも長く一緒にいるためには、病院の近くに家を借りるしかないと思ったのだ。

 それを告げた時の驚いた顔と、その後の嬉しそうな表情に心が弾んだ。

 男は早速、家探しを始めた。


        *


 彼女が勤める病院と駅の中間に築18年の2LDKを借りることができた。

 外観は古さを感じたが、室内は小綺麗にリフォームされていて、住むには何の問題もなかった。18回目からは男のマンションでデートを重ねるようになった。


 それ以来、男は料理をするようになった。

 そして、彼女が仕事を終えてマンションのインターホンを鳴らした時、完璧にテーブルセッティングされているように準備をするようになった。

 料理といっても、スープ、サラダ、パスタ、パンがほとんどだったが、いつも美味しい美味しいと言いながら彼女は完食した。


 22回目の時、彼女を玄関で迎えて、「シャワーにする? それとも、ご飯にする?」と尋ねると、「あなたにする!」と飛びついてきた。

 その時の彼女のキラキラとした瞳は宝石よりも輝いて見えた。

 愛し合ったあと、2人でシャワーをし、バスタオル姿のままで乾杯した時のちょっと恥ずかしそうな表情に愛しさが込み上げた。


 まだプロポーズはしていなかったが、新婚旅行はミラノからシチリアまでを巡る旅と決めていたので、イタリア観光に関するDVDを買っては2人で見るようになった。


 こんなホテルに泊まって、

 こんなレストランで食事をして、

 こんな景色を見て、

 こんな遺跡を見て、

 こんな建造物を見て、

 こんな美術品を鑑賞して……、


 映像を見ながら夢中になって話し合った。

 そして、映像の中に引き込まれるようにお互いを見つめ合い、抱き合い、愛し合った。ミラノで、フィレンツェで、ローマで、ナポリで、シチリアで。


        *


 プロポーズをしたのは100回目のデートの時だった。

 それは丁度初デートから1年目の記念日だった。

 男は意識して1周年が100回目のデートになるように調整しながらデートを重ねていたのだ。


 プロポーズの言葉は「君と共に人生を歩きたい!」だった。

 ロマンティックな言葉ではなかったが、初デートの時に聞こえてきた〈心の声〉だと伝えた。

 彼女の両目から溢れる涙が返事だった。


 すぐに2人でデパートの宝飾品売場へ行き、ペアリングを買って、左手の薬指にはめた。

 そして、新婚旅行はミラノからシチリアまでを巡る旅をしたいと告げた。

 するとまた彼女の両目から涙が零れ、その奥で瞳がゆらゆらと揺れた。

 そして、「こんなに幸せでいいのかしら……」と、込み上げる思いが満ちたような声が溢れるように漏れた。


        *


 彼女の両親へ挨拶に行く日程について話し合うことにしていた日、彼女から「今日は行けない」という電話があった。

 最近体がなんとなくだるく、疲れやすかったが、今朝は起きるのが辛かったのだという。

 仕事が忙しかったから疲れが溜まっているのだろうとも言っていた。

 でも、1日休めば大丈夫だから、と男を安心させた。

 くれぐれも無理しないように、と伝えて電話を切った。

 彼女のために用意した食材をどうしようかと考えたが、2人分を食べれば彼女が元気になりそうな気がして、2人分作って、食べきった。

 その夜は、2人で買った大きな枕を抱きながら彼女の体調回復を願い続けた。


 しかし、翌日も彼女は仕事を休んだ。

 息切れや動悸がするという。

 声の様子が変なので、診察を受けることを勧めたが、

 休めば治るから、と取り合ってくれなかった。

 しかし、その後も体調は良くならなかった。

 というより悪化しているように思えた。

 頭痛や関節痛がするし、鼻血や歯ぐきからの出血もあると言い出したのだ。


 心配になってネットで彼女の症状を調べた。

 すると色々な病気の可能性がありそうだったが、その中に気になる病気があった。

 すぐに電話をかけた。


「薬剤師が病気になったらシャレにならないぞ」


 冗談めかして言ったあと、強く検査を勧めた。

 すると、「心配性なんだから」と揶揄するような声が聞こえたが、何度も強く勧めると、渋々ではあったが、診察を受けることに同意した。


        *


 翌日、血液検査やCT検査などを受けたあと、骨髄検査が行われた。

 検査後、すぐに結果と病名が告げられた。

 聞きたくない内容だった。

 急性骨髄性白血病。

 血液の癌だった。

 進行が速い病気だと言われた。

 その上、全身の臓器へ広がっているという。

 本人には伏せられていたが、両親に対しては、かなり厳しい状態です、と告げられた。

 それを聞いた男は目の前が真っ暗になった。

 体中から力が抜けて、何も考えられなくなった。


 すぐに入院して抗がん剤治療が始まった。

 複数の抗がん剤が併用され、更に骨髄に直接抗がん剤を投与する髄腔内注射が行われると、事前に告知された通りの副作用が現れた。

 食欲が無くなった上に、吐き気を催したのだ。

 その上、口内炎が多発した。

 そして、12日目、遂に髪の毛が抜け始めた。

 それだけではなく、眉毛まで抜け始めた。

 そして、体中の毛が抜けた。

 彼女は「赤ちゃんみたいになっちゃった」と言って男の手を下着に中に導いた。

 下腹部にあるはずのものがなかった。

 唖然としていると、その先に導かれた。

 しかし、触れてはいけない気がして、直前で手を止めた。


        *


 病気の進行と戦う姿を見ているのが辛かったが、彼女は必死になって戦っていた。

 そこには鬼気迫るものがあり、「白血病なんかに絶対負けない!」とツルツルの頭を撫でながら男に何度も言った。

 結婚式と新婚旅行という目標が彼女を支えていたのだ。


 この病気の発症頻度は10万人に2~3人だという。

 0,002パーセント。

 そんな低い確率の病気に彼女が侵されるなんて信じられなかった。

 それも、プロポーズしたばかりなのだ。

 残酷な仕打ちに心が壊れそうになった。


        *


 病気のせいか、薬の副作用のせいか、彼女はどんどんやせていった。

 食べ物を受け付けないし、食べられてもすぐに吐いてしまうのだ。

 栄養は点滴に頼るしかない状態になった。


 腕に繋がれた点滴チューブが痛々しかった。

 それに、同じ場所に針を刺し続けていると痛みが増したり赤くなったりするので、何回も点滴部位を変更しなければならなかった。

 そのせいで、白くすべすべしていた彼女の腕は見る影もなくなっていた。


 そんな厳しい状況が続いたが、それでも、元気づけるために色々なことを考えて実行した。

 その一つが特大の模造紙だった。

 拡大コピーしたイタリアの地図を貼って、その上にミラノからシチリアに至る主要各都市の観光スポットの写真を貼り付け、新婚旅行のプランを語り合ったのだ。

 ミラノでは何を買おう、

 フィレンツェでは何を見よう、

 ローマでは何をしよう、

 ナポリでは何を食べよう、

 シチリアではどこへ行こう、

 と詳細を詰めていった。


 その時だけは彼女の顔が明るく輝いた。

 その表情を見て、これは最高の治療ではないかと思うようになった。

 抗がん剤よりよく効く治療薬、それは〈明るい希望〉に違いないと思ったのだ。

 新婚旅行に行きたいという強い想いが彼女の免疫を活性化させ、癌細胞をやっつけてくれると思ったのだ。


 その願いが通じたのか、小康状態が訪れて、彼女の顔色が少し明るくなった。

 男はそのチャンスを逃すまいと〈明るい希望〉を投与し続けた。

 ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、シチリアに関する書籍を持ち込んでは彼女と2人でページをめくった。


 彼女もそれに反応した。

 白血病なんかに負けていられない、

 そんな強い気持ちが再度漲るようになった。

 それを見て、このまま完全緩解(かんかい)へ向かうと男は信じた。

 そして、退院できる日が来ると信じた。


 しかし、それは、束の間の贈り物でしかなかった。

 全身状態の悪化か薬の副作用かわからないが、呼吸をするのが苦しいと訴え出したのだ。


 酸素マスクを装着された彼女はもう身動きができなくなった。

 上半身を起こしてベッドの上で新婚旅行ごっこをすることさえできなくなってしまった。〈明るい希望〉という名の薬を飲ませることはもうできなくなった。

 男にできることは、彼女の手を握ることと、ただ祈ることだけになってしまった。



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