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♪ 男(1) ♪

 

 朝採れ野菜定期便の予想外の受注増加で、てんてこ舞いになった。

 定期便の注文者数が100人を超えたのだ。

 そのうち半分が週に1回、30パーセントが2週に1回、月に1回は20パーセントだった。

 それはとても嬉しいことだったが、受注だけでなく色々な問い合わせもあり、とても一人では手が回らなくなった。

 そこで、副業をしている2人と自宅で暇を持て余しているであろう経理担当役員に復帰してもらうため、カムバックメールを送った。


 まだ元の給料を払える状態ではないことを付記して送信したが、経理担当役員からはすぐに返信があり、明日からでもOKということだった。

 手数料収入として売上が立つようになったので、損益管理や資金管理を頼んだ。


 残りの2人からは翌日の夜に返信があった。

 勤務先の了解を得て復帰するという。

 一人は、新婚ほやほやの男性社員で、調理品の自転車宅配の仕事をしていた。

 もう一人は40代半ばの女性社員で、夫の親の面倒を見ながら、ドラッグストアでアルバイトをしていた。


        *


 翌週、男性社員が復帰した。

 新本社である男の自宅に顔を見せた彼は疲れ切っていた。

 思ったよりも大変な仕事だったという。

 会社から配達依頼が入ると、加盟店に料理を取りに行き、それを注文者に届けるのだが、ボックス型リュックなどの装備は自己負担だったこと、配達員同士の競争が激しくてオーダーが入らない時間帯が続くと焦ること、一日中自転車に乗っているので筋肉痛や股ずれに悩まされたこと、お客さんに早く届けるために急がなければいけないこと、そのため、事故の危険性を常に感じていたという。急ぐあまり、歩行者と接触しそうになったことが何度もあったらしい。


「ほんの数センチの差でぶつかりそうになった時は肝を冷やしました。振り返らずに飛ばし続けたのですが、心臓はドキドキどころかバクバクしていました。もしぶつけて大けがをさせていたら、いや、死亡事故を起こしていたらと思うと、生きた心地がしませんでした。仕事が終わって〈自転車事故に関する賠償金〉で検索したら、1億円近い賠償金を命じた判決を見つけて、膝の震えが止まらなくなりました。そんなことになったら人生は終わってしまいます。自分が危機一髪だったことを身に沁みて理解しました。そして、これ以上続けるべきではないと考えるようになりました。でも、仕事をしなければ食べていくことはできません。悶々としながら配達の仕事を続けていたのです」


 そんな状態だったから、カムバックメールを見て救われたと頬を緩めた。


「それにしても面白いことを始めましたね」


 まさか旅行代理店が朝採れ野菜定期便という企画を考えるなんて夢にも思わなかった、と感心したような表情で男を見つめた。


「自分でもこういう企画を始めるなんて思ってもみなかったよ」


 男は正直に成り行きを話した。


「いや、そんなことはないです。社長がお客さんのことを大事にしてきたからこそ思いついたんですよ。決して偶然ではないと思います」


 すると、隣で聞いていた役員が大きく頷いた。


「社長は常にお客様のことを第一に考えていましたからね。それに、お客様からお手紙やメールをいただくと本当に嬉しそうに読まれていましたから」


 役員が言う通り、男は社員に対して常に顧客の傍で仕事をするように促していた。

 それでも、わかったような顔をして頷いている社員を見ながら、本当に理解させるためには命令や指示では無理なんだろうな、とも思っていた。

 特に、ネット上のやり取りで済んでしまう日々の業務の中で、見たこともない顧客の存在をイメージさせることは容易なことではなかった。


 そんなことを思い悩んでいた2年前の春、顧客から封筒で礼状が届いた。

 60代後半の女性からだった。

 長い間病気で入院していたご主人の病状が少し良くなり、一時帰宅を許された時のことが書かれていた。

 肺癌治療でやせ細ったご主人を連れ戻った奥さんは、家でゆっくりしてもらおうと思っていたのだが、ご主人は旅行に行きたいと言い張ったそうだ。

 大部屋の病室で何年も過ごしたあとだっただけに、外の空気を胸いっぱい吸いたいと望んだという。

 しかし、車椅子での移動しかできない状態で旅行へ行くのは無理だと奥さんは反対した。

 それでも、絶対に行くと言って聞かなかったため、離れて暮らす娘に頼んで、車椅子でも行ける旅行を探したらしい。


 娘は父親の願いを叶えようと必死になって探したが、母親が望むような旅行プランは見つからなかった。

 ところが、諦めかけた時に偶然、我が社のサイトに辿り着いた。

 そこには、『看護師資格を持つスタッフがお世話する安心旅行』というプランが掲示されていた。

 娘は内容を確認したあと、早速、母親に連絡し、すぐに申し込んだのだという。


 念願の旅行が実現したご主人は別人のように元気だったらしい。

 それに、看護師資格を持つスタッフの同行でなんの心配もなくなった奥さんも心から旅行を楽しめたという。

 旅行中ずっと車椅子を押してくれたスタッフへの感謝が文面に満ち溢れていた。

 しかし、幸せは長く続かなかった。

 一時帰宅期間が終わって病院に戻ったご主人の体調が急変したのだ。

 発熱と呼吸困難で言葉を交わすのも難しい状態になったそうだ。

 旅行に連れて行くべきではなかったと奥さんは悔やんだが、ご主人はか細い声で「楽しかった。お前と2人で行けて幸せだった。何も思い残すことはない。ありがとう」と言ったのだという。

 その時、奥さんは思った。旅行をせずに死の瞬間を迎えたら、夫は死んでも死にきれなかっただろうと。

 と共に、何かの偉大な力が自分たち2人に奇跡のような時間を与えてくれたのだろうと悟った。

 息を引き取ったご主人は本当に安らかな顔をしていたのだという。

 その後に書かれていた感謝の言葉に心が震えた。


『偉大な力が娘と貴社を結びつけ、奇跡のような旅行を楽しむことができました。看護師資格を持つスタッフが随行するプランを考えていただいたお陰で、夫は笑顔で天国へ旅立ちました。もし旅行に行かずに夫に先立たれたら、私は一生悲しみの中で暮らすことになったと思います。でも、旅行中に撮った数々の写真が、夫の笑顔溢れる写真が家のあちこちで私を見つめてくれています。更に、看護師スタッフさんがタブレット端末で撮ってくれた動画がいっぱいあります。夫に会いたくなったらすぐに見ることができます。いつでも夫に会えるのです。だから、私が泣くわけにはいきません。悲しみに沈むわけにはいかないのです。笑顔で暮らしていこうと思います。そして、一周忌には夫の写真を持って思い出の地を訪ねたいと思っています。最高の奇跡をありがとうございました。このご恩は一生忘れません。本当にありがとうございました』


 男はその礼状を社員に回覧した。

 誰もが胸を打たれたようだった。

 そして、自分たちの仕事が顧客の人生に大きく関わっていることを実感したようだった。

 すると、企画立案やクレーム対応などに変化が表れた。

 顧客の立場に立って考え、行動するようになったのだ。

 それは、顧客の傍に寄り添うという意味を真に理解したことの表れであり、男が口を酸っぱくして言い続けてもきちんと理解されなかったことが、たった1通の礼状で腹に落ちたことを意味していた。

 それ以来、礼状や御礼メールはすべて社員と共有することにしている。

 常に顧客の傍で仕事をするために。



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