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♬ 女 ♬

 

 花屋敷での生活を始めた女は家事全般を受け持つことになった。

 本来なら仕事を探すことを最優先に考えなければならないのだが、奥さんの強固な反対によって求職活動を取り止めることにしたのだ。

「こんな緊急事態宣言中に無理して探す必要はない。公共交通機関で移動したり、不特定多数の人と接触して感染の危険性を高めてはいけない」と諭されたのだ。

 そして、「何十年も専業主婦をしてきたから飽きちゃった。家事を全部任せるからお願いね」と一方的に決められてしまった。

 もちろんそれは女を案じての発言だったし、無収入の女が肩身の狭い思いをしなくても済むようにという配慮からだった。

 部屋に戻って一人になった時、涙を堪えることができなかった。


 翌日から調理や掃除、洗濯と忙しい毎日が始まった。

 一人暮らしの時もマメにやっていたので苦痛ではなかったが、18歳の時に母親と死別した女は、すべてが自己流であったことを気づかされた。

 洗濯物の干し方一つにしてもそうだった。

 今までは洗い上がったものをバサバサと振って、シワを伸ばしてから干していたが、それだと洗剤のカスや糸くずが床に散らばってしまうし、シワも十分に伸ばせていないと注意された。

 奥さんは見本を示すように、洗濯物を小さく畳んで、それを両手で挟んでパンパンと叩いてから干した。

 女が真似てやってみると、小さなシワまで伸びていることがわかった。

 それに、これをリズミカルにやると結構楽しかった。

 天気の良い日は必ず、女が叩くパンパンという音がベランダで響くようになった。

 それは、生きていたらこういうことも教えてくれたであろう母親に向けての伝心音のようでもあった。


 わたしは大丈夫。

 なんとか元気でやっています。

 心配しないでください。


 そう伝えるかのように、今日も空へ向けてパンパンと音を飛び出させた。


        *


「ちょっと手が離せないから出てくれる?」


 家事が一段落してちょっとひと休みという時、庭仕事をしている奥さんから声がかかった。

 女は「はい」と答えて、廊下のニッチに置いてあるシャチハタの印鑑を持って玄関を開けた。


 門扉の手前に若い男性配達員が立っていた。

 重そうな大きな箱を持って、少し膝を曲げるような恰好をしていた。

 受け取ろうとすると、重いから玄関の中まで運ぶと言う。

 奥さんの姿が見えたので視線を向けると、OKの視線が返ってきた。

 玄関の上り口まで運んでもらった。


「結構大きいわね」


 箱を見た奥さんが思案顔になった。

 それでも、箱の端を両手で持ち上げようとしたが、すぐさま顔をしかめた。

 とても持ち上がりそうになかった。

 女が反対側を持ち上げる格好をしたが、やめておきましょう、というように首を横に振った。


 頷いた女は上面のガムテープを剥がして箱を開けた。

 中には野菜がいっぱい詰まっていた。

『朝採れ野菜定期便』というチラシが目に入った。

 裏を見ると、農作業をしている人たちの笑顔が並ぶ写真の上に、『元気だ! 岩手だ! 野菜がうまい!』という筆で書いたような太いキャッチコピーが浮き出すように印刷されていた。


「これ、どうしたのですか?」


 左手に真っ赤なトマト、右手に深緑色のズッキーニを持った女は、箱の中にびっしり詰まっている色々な野菜に目を奪われた。


「凄いでしょう。おいしそうでしょう」


 奥さんもトマトとズッキーニを持って、どうしてか得意そうな顔をしていた。


「夫が退職してからよく旅行に行ってたのよ。いつも利用していた旅行代理店がね……」


 団体旅行や有名な観光地を避けて穴場のようなところを探していた2人は、たまたま小さな旅行会社のサイトに巡り合い、一度利用したらとてもいいので、それからは毎回その会社のプランに乗ったのだという。

 その会社が新型コロナウイルスによる経営危機を乗り切るために、岩手県のハウス野菜栽培会社に社員を派遣したそうだ。

 社員は古民家に泊まり込み、日々野菜の収穫を手伝っているのだが、その経験を、緊急事態宣言で外出自粛を余儀なくされている顧客と共有したいとメルマガを始めたらしい。

 そのうち、その野菜をなんとか売ってもらえないかという顧客からの要望が増え、遂に野菜の直販を始めたのだという。

 それを知った奥さんは真っ先に注文を入れ、それが今日届いたのだ。


「それにしてもこんな量を……」


 女は、2人では食べきれないと首を横に振った。


「実はね、これを『子ども食堂』に持っていきたいの」


「子ども食堂ですか?」


 政府の要請によって小中学校や高校が休校になると共に給食が中止になり、それに伴って貧困家庭の子供が大きな影響を受けていた。

 給食が無くなれば、昼食は自分で賄わなければならない。

 それは日々の暮らしに四苦八苦している貧困家庭にとって容易なことではなかった。

 中には、ちゃんと食事が取れるのは学校給食だけという子供も少なくない。

 彼らにとっては生死にかかわる問題でもあるのだ。

 そんなニュースを目にする度に奥さんは心を痛めていたという。


「子供のうち、7人に1人が貧困家庭らしいの。彼らは給食費を免除されているから無料で食べられるのだけど、学校が休校になるとその分を自宅で食べなければならなくなるから一気に負担が増えることになるの。ただでさえ厳しい環境で暮らしているのに、更に追い打ちをかけられているの」


 女もそのことは知っていた。

 給食が中止になった上に、頼みの綱でもある子ども食堂までもが中止に追い込まれているというニュースを見たことがあった。

 感染拡大防止の観点から公民館などの施設が使えなくなり、更に、企業からの寄付が業績悪化に伴って削減されているらしい。

 その数は全国でかなりの数に上り、貧困家庭に深刻な影響を与えているようだった。


「資金援助のような大きな手助けはできないけれど、何かお役に立てるものがないかと考えていたの。そんな時、この朝採れ野菜定期便のことを知って、自分たちで食べる分以外を全部寄付しようと思い立ったの」


 貧困というだけで負い目を感じている子供たちに、これ以上辛い思いをさせたくないという想いがひしひしと伝わってきた。


 早速、自分たちの必要分だけを取り出して、残りを自転車の前カゴに乗る大きさの袋と後ろの荷台に乗る大きさの細長い段ボールに詰め替えた。

 女のママチャリで届けるのだ。


        *


 奥さんが電話をかけ終わると、すぐに自転車にまたがり、ペダルを漕ぎ始めた。

 日が暮れる前に届けたいので、必死になって漕ぎ続けた。

 前と後ろに結構な重さの野菜を積んでの運転は楽ではなかったが、心と体に漲るエネルギーが両足に力を与えていた。

 無収入という負い目と日々戦っている女にとって、社会に貢献できるという喜びは大きかった。

 ペダルを漕ぐ度に自分が確かに存在していることを感じることができた。


 自転車で30分ほど走ると、子ども食堂を運営するNPO法人が入る建物が見えてきた。

 奥さんから、郵便局の隣にあるコンビニの2階だと聞いていたので、すぐに見つけることができた。


 恰幅の良い中年女性が出迎えてくれた。

 責任者だという。

 当初、学校のない休日だけに活動を行っていたが、新型コロナの影響で休校になってから毎日活動するようになったのだという。

 しかし、資金も食材もボランティアもまったく足りない状態になり、存続の瀬戸際に立たされているのだと嘆いた。


「ビルのオーナーさんや1階のコンビニさんから強力なご支援を頂いているお陰で今までなんとか維持できていたのですけど、休校がこのまま続くと……」


 彼女はその先の言葉をぐっと飲み込んだ。

 それでも、野菜の入った箱と大きな袋を渡すと、表情がパッと変わり、「本当に助かります」と頭を下げた。

 そして、ありがたそうに野菜を見つめた。


 それを見て、「わたしにお手伝いできることありますか?」という言葉が口を衝いた。

 野菜を届けるだけで満足しているわけにはいかないと思ったからだ。

 自分だって路頭に迷うかもしれなかった。

 それを花屋敷の奥さんに救ってもらった。

 今度は自分の番だと思った。

 お役に立つ番が来たのだと。


「本当ですか? お手伝いいただけますか?」


 彼女は、救いの神が現れたかのような目で女を見つめた。


 ボランティアは、調理スタッフ、食器洗い担当、掃除や片づけ担当、子供たちの遊び相手、に分かれるそうだが、食事前後に子供たちと遊ぶスタッフがいないのだという。

 それに、朝から夜まで親が働きに出ていて、1日中一人ぼっちで過ごす子も少なくないので、それをなんとかしたいのだそうだ。


「ちょっと考えさせてください」


 返事を保留にしてその場を辞した。

 花屋敷に居候になっている身分としては勝手に決めることはできない。

 奥さんとよく相談して家事と両立できる方法を探さなくてはならないのだ。


        *


「家に来てもらったら?」


 奥さんの意外な言葉に驚いた。


「来てもらうって……」


 豆鉄砲を食らったような顔をしているであろう自分に更に驚く言葉が投げかけられた。


「週に1回、ピアノを教えてあげるのってどう?」


 食事前後にただ相手をしてあげるのではなく、目的を持って生活する楽しさを味わってもらったらいいのではないかというのだ。


「それに、両手の指をすべて使うピアノは脳の発達にとてもいいっていうじゃない。特にHQに効果があるらしいわよ」


 HQとは〈人間性知能〉のことで、夢や目的に向かって行動する能力や思いやりとか協調性とかを身に着ける能力などのことをいうのだそうだ。


「有名大学の合格者にピアノを習っている人が多いって聞いたことがあるわ」


 指を10本使うだけでなく、楽譜を見ながら演奏するということは目と指と脳が連動しなければできないから、とても高度な訓練になるのだという。


 幼い頃からピアノを弾いてきた女だったが、そんな理論的なことは一度も聞いたことがなかった。

 生まれた時から身近にピアノがあり、両親がピアノを弾き、自然に自分も弾けるようになったから、楽譜を見ながらピアノを弾くのはごく自然なこととしか思っていなかった。

 でも、そうではないらしい。

 脳に対して優れた訓練機能があることを初めて知った。


「あなたがちゃんと受験勉強していたら東大へ行っていたかも知れないわね」


 茶化すふうではなく、真剣にそう思っているというニュアンスが込められていたので、なんだか嬉しくなって照れてしまった。


「とにかく、よく考えてみて」


 奥さんはさり気なく女の肩に手を置いて、二度ほど柔らかく揉むように動かしたあと、ポンと優しく叩いた。

 そして、暗くなった庭に目をやって、カーテンをゆっくりと閉めた。



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