♪ 男(1) ♪
夜遅くに社員からのメールを受け取った男は、派遣先が大変なことになろうとしているのを初めて知った。
厳しいだろうということはわかっていたが、事態はそれを遥かに超えていた。
放置しておけば経営に大きなダメージを受けるのは確実だったし、社員7名の雇用継続が危うくなるのは目に見えていた。
それに、慎重に検討する余裕がないことも確かだった。
法人顧客推進派と富裕層個人客推進派の双方の意見を見比べた。
どちらも重要な指摘がなされていたし、どちらを選んでも不正解とは思わなかった。
B to Bについては既にルートを持っているのだから、取引スーパーを拡大するのは容易だろう。
しかし、既存取引先の高級スーパーの反発は必至だろうし、取引中止という最悪のケースもあり得るかもしれない。
安売りスーパーとの差別化のためにこのハウスから仕入れているのだから、それが崩れるとなると協力関係は消滅してしまうだろう。
それに、高級ホテルの購買にも影響が及ぶかもしれない。
高級食材を使っていることを謳い文句にしているのに、それが安売りスーパーの棚に並んでいると知ったら評判に傷がつくのは明白だ。
レピュテーション・ビジネスの最先端をいく高級ホテルにとって見逃すことができない事態になるだろう。
安売りスーパーとの取引を安易に選択することは危険だ。
では、どうする?
富裕層個人客の開拓を選ぶか?
いや、それは時間がかかり過ぎる。
名簿を持つ企業を探し当て、交渉し、それからビジネスモデルを作っていく時間的な余裕はない。
ハウスでは日に日に出荷が減っており、資金繰りが悪化しているのだ。
何週間かかるか、何か月かかるかわからないことに時間を費やしている場合ではない。
う~ん、富裕層の顧客名簿さえあれば……、
男は頭を抱えた。
顧客名簿、顧客名簿、顧客名簿、
すぐに活用できる顧客名簿、
う~ん、
ブツブツ言いながら狭い自宅の中を歩き回った。
グルグルグルグル歩き回った。
しかし、何も思いつかなかった。
なんの伝手も思い浮かばなかった。
う~ん……、
日付が変わっても唸り声が収まることはなかった。
*
翌日、寝不足の目を擦りながら朝食を取った。
朝食といってもトーストと茹で卵とコーヒーだけだったが。
今日は、農作業の昼休み時間にリーダー格の社員から電話がかかってくることになっている。
彼らはなんらかのアドバイスを期待しているだろう。
社長だから社員には考えつかないことを言ってくれるだろうと思っているはずだ。
しかし、頭の中にはなんのアイディアもなかった。
安売りスーパーとの取引懸念を伝えることしかできないのだ。
でも、それは富裕層個人客推進派が指摘していたことだから、ただの同意に過ぎない。
社長ならではの見解ではないのだ。
さあ、どうする?
改めて答えを探したが、脳みそを振っても溜息しか出てこなかった。
パソコンを立ち上げてメールをチェックしたが、昨夜のリーダー格社員からのメール以降新たなメールは受信していなかった。
どこかにアイディアはないか?
誰かの示唆はないか?
しかし、何も浮かんでこなかった。
「う~ん」と唸って、パソコンの前で腕を組んでm天井を見上げると、小さな蜘蛛が目に入った。
じっとしていた。
が、そのうちスーッと下りてきた。
見えないが、お尻から糸を出して下りているのだろう。
目で追っていると、ふと、スパイダーマンの映画を思い出した。
彼のようにビルの間を自在に飛び回って富裕層を見つけることができれば……とバカなことを考えていたら、メールの受信音で現実に戻された。
誰だ?
社員からのものではなかった。
取引先とも違う。
件名を見た。
『頑張ってください』と記載されていた。
本文を読んだ。
『釧路と沖縄を旅した者です。あの時は大変お世話になりました。思い出に残る素晴らしい旅行になり、大変満足しております。ところで、新型コロナウイルスで旅行ができなくなりとても残念ですが、今は辛抱するしかないですね。旅行代理店は予約のキャンセルが続いて経営が大変だというニュースを見ました。貴社もご苦労されていると思います。これがいつ収束するかわかりませんが、緊急事態宣言が解除されて旅行できるようになったら必ずまた旅行を申し込みますので、それまでの間頑張ってください。応援しております』
顧客からのメールだった。
自社の企画をよく利用してくれている優良顧客だった。
ん?
優良顧客?
あっ、優良顧客だ。
自社に優良顧客がいた。
優良顧客のデータベースを持っていた。
毎年利用してくれている顧客、年に何度も利用してくれる上得意客が少なからずいるのに、なんで気づかなかったのだろう?
レターボックスから葉書の束を取り出した。
全部礼状だった。
旅を満喫した顧客がお礼の絵葉書を送ってくれるのだ。
男はそれを大事に取ってあった。
一つ一つ読み返すと、すべてに笑顔が感じられた。
男は礼状を貰う度に感激して、読み終えると頭を下げるのが常だった。
この一人一人のお客様が会社を支えてくれているのだと思うと、いつも涙が出てきそうになった。
彼らは今どうしているのだろう?
旅行ができなくなって、外出自粛でレストランでの食事やデパートでの買い物ができなくなって、ストレスを感じているのではないだろうか。
それなら、今こそお返しをしなければならない。
窮屈な自粛生活の中に潤いをお届けしなければならない。
男は居ても立ってもいられなくなり、部屋の中をグルグルと歩き回った。
すると、アイディアが止めどもなく溢れてきた。
あれもできる、
これもできる、
あれもしたい、
これもしたい、
気がつくとアイディアが頭の中から溢れ出して床の上を泳ぎ回っていた。
それを両手ですくって口の中に入れ、もう一度体の中に戻した。
そして、to-do listに打ち込んでいった。
・岩手での農業体験の日記的発信
・古民家共同生活の日記的発信
・岩手県内の魅力発信
・最上位顧客へのテストマーケティングと検証
・本格マーケティングの実施
・岩手県内の古民家の開拓
・ポストコロナ時代の新しい旅行の提案
・新しいビジネスモデルの構築
・その他、あれやこれや
夢中になって企画をインプットしていたら、突然、スマホが動いた。
邪魔されないようにマナーモードにしていたので震えるように動いていた。
受話器のアイコンを右にスライドすると、リーダー格の社員の声が聞こえてきた。
一気にアイディアを開陳しようかと思ったが、齟齬がないかの確認と、まとめ直す時間が必要と思い、一旦電話を切った。
そしてto-do listを何度か見直して、修正を加え、彼らの昼休みが終わる15分前に掛け直し、できるだけ落ち着いた声でゆっくりとアイディアを説明した。
彼は息を呑んで聞いているようだった。
一つの説明が終わるたびに、なるほど、と相槌を打った。
すべてを説明し終わった時、驚嘆するような声が聞こえてきた。
耳が痛くなるほどの大きな声だった。
それからしばらくは周りに話している声が聞こえた。
男のアイディアをかいつまんで説明しているようだった。
そして、声が戻ってきた。
「ありがとうございました。はっきりとした方向性が見えました。こちらで出来ることはすぐに着手します」
*
男は早速、企画書の作成に取り掛かった。
リーダー格社員がハウス野菜栽培会社のオーナーに説明するための資料だ。
オーナーに納得してもらえなければこの話は進まないから、細心の注意を払ってまとめ上げなければならない。
先ずは環境及び市場分析。
新型コロナが及ぼす全体的な影響と取引先の状況分析を簡潔にまとめたが、高級ホテルの状況については詳細に記述した。当面大幅な回復が見込めそうもないことを数値を用いて訴えた。
次にハウス野菜栽培会社が置かれている現状と選択肢について記述した。
これには、法人顧客推進派と富裕層個人客推進派の議論を踏まえた上で、重要なものを抜き出し、箇条書きでまとめた。
そして、それをSWOTに落とし込んでいった。
SWOTとは、S=STRENGTH(強み)、W=WEAKNESS(弱み)、O=OPORTUNITY(機会)、T=THREAT(脅威)のことである。
つまり、
自社の強みと弱みを客観的に把握しましょう、
それを機会に生かしましょう、
脅威には備えましょう、
そのためにしっかり戦略を立てましょう、
ということを〈見える化〉するための分析手法だ。
しかし、分析を細かくやり過ぎると焦点がぼけてしまう。
だから、最も大事なことだけに絞って記述した。
・強み…高級ブランドとしての評判が定着。有機肥料と無農薬と清潔な栽培環境管理による安心と安全のお届け。
・弱み…外部環境変化やアクシデントに対する危機管理が脆弱。
・機会…巣ごもり消費の拡大。運動不足による健康不安。安心安全への意識高揚。
・脅威…高級ホテルの食材需要が長期低迷する可能性大。
分析の次は企画の全体像を示した。
目的とゴールの明示である。
何処へ向かうべきか、ゴールすれば何が待っているのか、ということを明確化するのだ。
・目的…ブランド価値を維持しながら取引先の拡大を図る。
・ゴール…高級ホテルの食材需要がゼロになっても完全にカバーできる売上確保。
全体像を固めたあとは、より具体的な内容を示さなければならない。
「誰に」「何を」「どうやって」の明示だ。
・誰に…自社の優良顧客(年に何度も利用してくれるリピート顧客)。
・何を…安心安全な環境で栽培した新鮮朝採れ野菜の提供。現地疑似体験の提供。
・どうやって…顧客直販(その前提としてメルマガの発信)。
あとは、スケジュール。
どのタイミングで何をやっていくのかを明示した。
①最上位優良顧客のリストアップ
②ホームページの作成
③社員を岩手県のハウス野菜栽培会社に派遣したことをメルマガで発信
④社員たちが実際に行っている農作業の様子を発信
⑤同時に、古民家での共同生活の喜怒哀楽を発信
⑥同時に、岩手県の知られざる魅力スポットを発信
⑦『野菜詰め合わせ』の宅配定期サービス開始のお知らせを発信
⑧テストマーケティングを実施
⑨テストマーケティングの検証
⑩本格マーケティングの実施
そして最後は、収支計画。
但し、これはこちらではわからないので、現在と同等の利益率になる販売方法(詰め合わせの内容や価格、経費など)の検討をオーナーに依頼することにした。




