♪ 男(1) ♪
いつものように旅支度をしていた。
といってもたいしたことではない。
小さなキャリーバッグに服や下着や洗面用具などを最低限詰め込むだけだ。
あとは、仕事で使うカメラやボイスレコーダー、文具などをショルダーバッグに詰めたら終わり。
これだけの荷物で何週間も旅をすることになる。
そして、1年をかけて全国の観光地を取材して回る。
男は小さな旅行代理店を営んでいる。
社員が10名のネット専門の会社だ。
JTBやHIS、近ツーのような大手ではないから、社長といえどもなんでもやらなければならない。
特に、観光地の魅力を伝えるために現地を取材するのは大事な仕事だ。
何をどう伝えるかで勝負が決まるから、率先してやることにしている。
予定表を開いた。
1月は北海道を攻める。
なんといっても食材が最高だ。
冬の海の幸は格別といってもいい。
それに、温泉がまたいい。
雪景色の中で入る露天風呂は他に類を見ない。
それから、パウダースノーは外せない。
ウインタースポーツを楽しむ人にとっては最高なのだ。
本州とは違う雪質の虜になる人は多い。
それと、観光客が少ないのも魅力だ。
夏の2割ほどしかいないから、ゆったりと楽しむことができる。
2月は沖縄を攻める。
日本全体が真冬になる2月に沖縄は春を迎えるからだ。
平均気温17度と、東京の春の陽気だ。
1足先に春を感じたい人にはたまらない。
それに、降雨量も少ないので天気の心配をしなくてもいい。
観光客も少ないので混雑が嫌いな人にはうってつけだ。
北海道と同様、人が行かない季節に行くのが通というものだ。
3月以降のことを頭に思い浮かべていたら、いつの間にか零時になった。
もうそろそろ寝る時間だが、一向に眠気がやってこない。
寝酒と寝ミュージックをやるか……、
男はワイングラスに『Bin555』を注いだ。
オーストラリアの『ジョージ・ウィンダム』が2015年にリリースしたシラー種の赤ワイン。
これはキャップ式なので日常ワインとして最適だ。
飲み過ぎないように棚から小ぶりのワイングラスを出し、三分の一ほど注いで、スワリングして、香りを楽しんだ。
しかし、すぐには飲まない。
お供に音楽が欠かせないからだ。
本棚から取り出したのは『WINTER STORIES』だった。
ブライアン・カルバートソンが2019年の冬にリリースしたアルバム。
アメリカではあまり話題にならなかったようだが、男にとってはお気に入りリストの上位に入る欠かせないアイテムだ。
キーボードとトロンボーンの両方を操るブライアン・カルバートソンが今回はキーボードに専念していて、特に生ピアノへの入れ込み方が半端ない。
ドラムとベースとピアノだけのシンプルな編成で淡々と演奏が続くが、それが〈冬〉のイメージを表すのにこれ以上ない効果をもたらしている。
リモコンの再生ボタンを押すと、落ち着いたピアノソロが聞こえてきた。
『SITTING BY THE FIRE』
クリスタルな音色だが、焚火に当たっているような温もりも感じる。
赤ワインを手に持った彼の目に炎が踊っている様子を想像しながら、男はグラスを掲げて彼のアルバムにそっと当てた。
シラーを飲みながら聴き惚れていたら、2曲目が始まった。
『MONTANA SKIES』
ゆったりとしたリズムの中でピアノの音が羽ばたき、空を飛んでいるようだ。
上空から見る雪景色は本当に素敵だよ、と語りかけている。
男の心はモンタナへ飛んだ。
カナダに隣接するアメリカ最北部の州へ。
日本とほぼ同じ面積に百万人位しか住んでいない自然豊かな場所。
目を瞑ると、雪原を歩くヘラジカの姿が見えた。
どこへ行くんだい? と問いかけると、ヘラジカは立ち止まってちょっと顔を向けたが、すぐに歩き出した。
行先は風に訊いてくれとでもいうように。
その後姿を見つめていると、風に乗って舞う雪の精が近づいてきた。
そして彼女の両手が男の瞼を覆い、彼女の唇が男に重なった。
夢の中へ誘うように。
*
翌朝、男は羽田から北海道に向かう飛行機の中にいた。
目的地は札幌ではなく函館でもなく、釧路だ。
北海道の東部に位置する人口16万人の拠点都市。
市章には北極星があしらわれ、スズランが市の花になっている。
雄大な自然の中に『釧路湿原』『摩周湖』『阿寒湖』『屈斜路湖』があり、『タンチョウ』や『マリモ』に出会えるところでもある。
水産業や酪農、林業が主要産業で、大規模な食品工場や製薬工場、製紙工場もある。
1月の平均気温はマイナス5.4度で、最低気温はマイナス10 度を超える日もある。
平均積雪量は44センチだ。
そんな寒い所に観光客が行くのかって?
残念ながら多くはない。
しかし、知る人ぞ知るという冬の釧路ならではの魅力が数多くあるのだ。
それを掘り起こして発信できれば、新たな需要につなげることができる。
男は気合を入れて釧路の地へ足を降ろした。
*
釧路駅から歩いて2分のところにあるビジネスホテルに向かった。
いつも利用している宿泊料金がメチャ安いホテルだ。
5,000円を切っているから申し分ない。
もちろん税抜きだが、この値段でしかもツインとくれば、多少のことには目を瞑れる。
弱小旅行代理店の経営者にとってコスト以上に優先するものは何もない。
それに携帯型のWi-Fiを持ち歩いているので、セキュリティの心配をすることなく仕事ができる。
部屋に入ると、いきなりお腹が鳴った。
他のことはほっといて早く飯を食わせろという催促だった。
真っ先に浮かんだのは炉端焼きだった。
しかしこれは夜に取っておくことにして、次に浮かんだ海鮮丼を目当てに『和商市場』へ向かった。
*
釧路駅を背にして徒歩で10分の距離にある和商市場は、函館朝市や札幌二条市場と並んで北海道三大市場の一つに数えられる有名な市場だ。
そこで食べる『勝手丼』を外すことはできない。
市場内で購入したご飯の上に鮮魚店で買った刺身をトッピングして、自分流の丼を作ることができるようになっている。
男はホームページにアップするために豪華な勝手丼をこしらえた。
ウニ、イクラ、サーモン、ボタンエビ、そして、毛ガニ。
贅沢過ぎる食材を溢れんばかりに盛り付けて、写真を撮った。
それを画面で確認していると、見た人が涎を垂らす光景が浮かんできた。
よし、大丈夫だ。
カメラを置いて、丼と箸を持つや否やウニとイクラと毛ガニを一緒にすくって、口に入れた。
すると待ちかねていたように味蕾が踊り出した。
♪ 港祭りだ。イイッショ、イイッショ、釧路は最高! ♪
胃に落ちたあとも踊りが続いた。
♪ イイッショ、イイッショ、釧路は最高! ♪
男は丼を一気に掻き込んだ。
*
ホテルに戻って写真をパソコンに取り込んだ。
なかなかの出来栄えだ。
和商市場の外観、
市場内の通路に溢れる人の波、
鮮魚店の店頭に並ぶ鮮度抜群の魚介類、
勝手丼を作るために丼を持って店を回る人たち、
男が作った勝手丼、
アングルとピントが最高に決まっている。
我ながらアッパレと自画自賛した。
よし、OK。
会社に送信後、社員に指示を出して、早速その写真をホームページにアップした。
時間とお金に余裕のある退職世代は気に入ったらすぐに予約してくれるから、どんどん新たな情報をアップしなければならない。
何人かでも食い付いてくれるようにと祈って、パソコンの画面に向かって手を合わせた。
*
パソコンを閉じて、次の仕事に取り掛かった。
向かったのは、観光案内所だった。
JR釧路駅の旅行センターの横に赤い看板が見えた。
iのマークと釧路市観光案内所の文字が白抜きになって目立っている。
中に入ると、髪の長い素敵な女性が応対してくれた。
2年前に寄った時とは違う女性だったので、また新しい情報を手に入れることができるかもしれないと期待が高まった。
男は身分を明かした上で、来店の目的を話した。
釧路市の観光促進に少しでも役に立ちたいというのが一点、
だからこそ、観光客にほとんど知られていない穴場を知りたいというのがもう一点で、
協力していただけるとありがたいと告げた。
すると、「そうですね~」と何かを探すように視線を遠くに投げたその女性の眉が少し八の字になった。
それでも、すぐに笑みを浮かべて、『釧路湿原のタンチョウヅル』や『SL冬の湿原号』といったお決まりの観光コースを口にした。
しかしそれは既に紹介済みだったので、もっとニッチな穴場がないかと男は再度尋ねた。
現地の人しか知らない穴場が知りたかったからだ。
すると、彼女はしばらく悩んでまた八の字眉になってうつむいたが、そうだ! というふうに手を合わせるようにして男に視線を戻した。
「『カヌー体験ツアー』ってどうでしょう?」
「カヌーですか? 真冬にカヌー?」
男は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「そうなんです。釧路川をゆっくりとカヌーで下るのですが、時には霧氷、時にはフロストフラワー、時にはダイヤモンドダストなどが楽しめるんです。とても幻想的ですよ。それに、野生の動物に出会えるかもしれませんし、滅多に経験できないツアーだと思います」
「野生の動物というのは?」
「はい。先ほどもお話ししましたが、タンチョウヅルがいますし、運が良ければエゾシカに会える可能性もあります」
エゾシカか~、
雪原を歩く見事な角を持ったオスのエゾシカを思い浮かべていると、心はいきなりモンタナの雪原に飛んだ。
ヘラジカと雪の精に出会った憧れの地へ。
「もしかして雪の精に会えるかな~」
思わず声が出てしまったが、彼女は怪訝な表情を見せることもなくフッと笑って、「ダイヤモンドダストの馬車に乗ってやってくるかもしれませんね」と夢見るような声を出した。