♬ 女 ♬
自宅待機の間、まったく外に出なかった。
買い物にも行かなかったし、散歩にもいかなかった。
狭いアパートの中に居続けた。
その間、何歩歩いたのだろう?
数十歩ということはないだろうが、せいぜい数百歩程度だろう。
運動といえば軽いストレッチ体操をするくらいで、負荷のかかることはほとんどしていない。
それでも、体重は増えなかった。
食事を1日2食にしたせいかもしれないし、家にある食材で賄おうとして少量しか食べなかったせいかもしれないが、とにかく増えることはなかった。
それと、外に出なかったから他人と話す機会はまったくなかった。
感染拡大に繋がる行動を慎んだ結果だったが、自宅待機が終わった時にうまく喋れるのか不安になった。
だから、食べるものが何も無くなった自宅待機最終日にピザの宅配を頼んだ。
配達の人と少し会話ができたらいいなと思ったからだ。
しかし、実際に話せたのはピザを受け取った時に言った「ありがとうございました」の一言だけだった。
それも、マスクをしている上に蚊の泣くような声で言ったから、会話と呼べるものではなかった。
*
途轍もなく長い2週間が終わった。
幸い、ベーカリーの奥さんもアルバイトも全員無症状で過ごすことができた。
ほっとしたが、しかし、陰性の証明を貰ったわけではない。
無症状であったというだけだ。
奥さんは、検査を受けて陰性という事実を確認したかったが、「無症状の人に検査をすることはできない」と断られたという。
「濃厚接触者なのに検査が受けられないってどういうことなの? これが医療先進国の日本なの? 絶対に間違ってる!」と顔を真っ赤にして憤慨していたが、どこにもぶつける相手がいなかった。
政府や役人相手に喧嘩をしても勝てるわけがないのだ。
いや、その前に相手にしてもらえない。
どうしようもないのだ。
奥さんは諦めるしかなかった。
しかし、そのことが奥さんの精神にダメージを与えているのは間違いないように思えた。
*
追い打ちをかけるようなことが起こった。
噂だ。
それも心無い酷い噂が聞こえてきた。
『コロナを撒き散らす店』という噂だった。
それがSNSで拡散するのに時間はかからなかった。
その上、店と看板の写真が投稿されたと思ったら、いつの間にか看板の文字が『コロナベーカリー』に変わっていた。
匿名をいいことに酷い虐めが横行し始めた。
なんでもありの状態になった。
運営会社に削除依頼をしたが、取り合って貰えなかった。
奥さんはノイローゼのようになった。
もう商売を続けていくのは無理だと泣いた。
女は精一杯慰めたが、奥さんの気分が上向くことはなかった。
更に追い打ちをかけたのがご主人の変調だった。
入院中に発現した味覚障害が退院後も続いたのだ。
これはパン職人としては致命的だった。
味がわからないご主人がパンを作ることはできない。
それはつまり、店を再開できないということを意味していた。
味覚障害のご主人とノイローゼの奥さんが最悪の決断を導き出すのに時間はかからなかった。
廃業と従業員解雇という後戻りできない決断が下されたのだ。
すべての関係者の目から光が消えた。
*
解雇が続いて女の気力はゼロになった。
職探しをしなければと思いながらも、その気になれず、食材の買い物に行く以外は家の中でごろごろしていた。
しかし、手持ちのお金が底をついたので、仕方なく通帳2冊とそれぞれのカードを持って銀行に行った。
ATMコーナーの前には行列ができていた。
外出自粛の呼びかけに協力して自宅で過ごす人が増えているから、普段よりも手持ちのお金を持っておきたいという人が多いのだろう。
少し待っていると、7番のATMが空いたので、通帳とカードをバッグから取り出して、操作を始めた。
先ず残高の多い方の口座から10万円を引き出した。
死亡保険金1,000万円が振り込まれた口座だ。
通帳に残高を記帳すると、498万円と印刷されていた。
この10年余りで半分になってしまった。
このペースでいけばあと10年で終わりか、と思った途端、恐怖が襲った。
そんなには持たない。
収入がゼロになったのだ。
仕事を見つけることができなければ3年も持たないだろう。
そう思い至ると、膝が震えてきた。
その時、後ろで咳払いの音が聞こえた。
振り向くと、列が長くなっていた。
待っている人は皆イライラしているようだった。
慌てて通帳をしまって、もう一つの通帳をATMに差し込んだ。
18歳の時に家賃の年額前払いなどに使って残高は1,000円を切っていたが、その後一度も記帳していなかったので、再度確認しようと思ったのだ。
僅かばかりでも利子が付いていれば嬉しいな、と思う間もなく印刷を終えて通帳が出てきた。
残高を見て息を呑んだ。
その数字が信じられなかった。
目を擦った。
でも数字に変化はなかった。
100万円。
間違いなく、入金100万円と印刷されていた。
その日付は、母が死んだ正にその日だった。
*
気がついたら、花屋敷の玄関の前にいた。
銀行からここまでどうやって歩いてきたのか、まったく記憶がなかった。
ハッとしてバッグの中を確かめた。
大丈夫だった。
通帳とカードがあった。
10万円を入れた封筒もあった。
ほっとしたら力が抜けて、思わずしゃがみこんでしまった。
「大丈夫?」
庭から玄関へ回って来たらしい奥さんに顔を覗き込まれた。
ピンクのガーデングローブを嵌めた手には小さなスコップが握られていた。
植え替えをしていたらしい。
女が立ち上がると、安心したような表情になって、家の中に入るように勧めた。
*
「召し上がれ」
奥さんがホットミルクティーとチーズケーキを女の目の前に置いた。
「頂き物なんだけど美味しいわよ」
早く食べなさい、というように掌を差し出した。
女は喉がカラカラだったので、ミルクティーを一口すすった。
甘くて柔らかい優しさが口の中に満ちた。
それで気持ちが落ち着いたので、フォークでチーズケーキを一口大に切って、頬張った。
コクのある濃厚な味わいが口の中に広がった。
う~ん、おいしい。
顔が綻んでいくのが自分でもわかった。
食べ終わると、奥さんはさり気なく自分の近況を話し始めた。
なんの質問もしない優しさが嬉しかったし、取り留めのない話が嬉しかった。
そのせいか、心が温かくなった。
すると表情が変化したのを察したのか、「庭に出る?」と誘われた。
しかし、即座に首を横に振った。
言葉が唇の手前まで出かかっていた。
もう止められなかった。
一気に話した。
今までのことを全部話した。
ピアノの仕事を失ったこと、
ベーカリーのご主人が新型コロナに罹患したこと、
濃厚接触者として2週間自宅待機していたこと、
ベーカリーが廃業することになって職を失ったこと、
そして、母が死んだ日に預金通帳に100万円が振り込まれていたこと、
息を継ぐのを惜しむ勢いで一気に話した。
奥さんは柔らかな表情で静かに聞いてくれた。
途中で口を挟むこともなく、相槌を打つこともなく、同情を寄せることもなく、ただひたすら柔らかく受け止めてくれた。
「うちに来ない?」
それは突然の投げかけだった。
女はピンとこなかった。
うちに来ないって、どういうこと?
「引っ越してらっしゃい」
直球だった。
「何もかも全部変えればいいのよ」
そうするのが当然という口調だった。
「はあ」
女は気の抜けた返事しかできなかった。
「ダメなことを引きずっていたらドツボにはまるわよ!」
断固とした口調だった。
それにしても、どうしちゃったんだろう?
この前会った時はご主人に先立たれて辛そうにしていたのに。
女はその変わり様についていけなかったが、突然、奥さんは夢の中で見たことを話し始めた。
ご主人が出てきたのだという。
お前がしょんぼりしていると自分も元気が無くなる。
辛そうな顔を見ていると心が締め付けられる。
だから、そんな顔しないで明るく笑って欲しい。
そう言われたらしい。
「あの世に旅立ってまで私のことを心配してくれていたなんて……」
泣き笑いのような顔になった。
「私のことが心配で天国へ行けなくなったら可哀そうだからね」
窓越しに空を見上げた。
「もう大丈夫よ。そんなところにいないで早く天国に行って!」
空の方に向かって手を振った。
*
奥さんに急かされて、訳の分からないまま賃貸契約を解除して、女は花屋敷に引っ越した。
あてがわれたのは8畳の客間だった。
こんないい部屋を使っていいのか不安になったが、「訪ねてくる人もいないから丁度良かったのよ」とさり気なく心配を取り除いてくれた。
荷物の整理が一段落した時、娘さんの部屋を見せてくれた。
死んだ日のままにしているそうで、2階の8畳間にはアップライトピアノが置いてあった。
幼稚園の頃から習い始めて、音大を卒業したあと、中学校の音楽教師をしていたのだという。
壁には額に入った賞状がいくつも飾られていた。
「色々なコンクールで優勝したのよ」と懐かしむように微笑んだ。
ピアノの上には3人で写った写真がいくつも置いてあった。
どちらかというとご主人似の顔をしていた。
目に入れても痛くないほど可愛くてたまらなかったに違いない。
写真の中のご主人の顔は目尻も口元も思い切り緩んでいた。
それから、数は少ないが、大人数で写っている写真もあった。
椅子に座った老夫婦の肩に手をかけて娘さんが笑っていた。
「私の実家に帰省した時のものよ」
その時初めて奥さんの実家が岩手県の田舎にあることを知った。
「もう2人とも死んじゃったから空き家になっているんだけどね」
古い家の前で撮った写真を指差した。
明治の末期に建てられたもので、築百年を超えているのだという。
「今年は帰ってないから……」
家の様子が心配そうだった。
「人が住んでいないと家は傷みやすくなるからね」
特に水回りのことが心配だと顔をしかめた。
排水などの古い水が管に残っていると腐食に繋がるし、パッキンなども劣化が進むのだそうだ。
それに、空気の入れ替えをしないとカビなどが発生しやすいし、人気がないとネズミなどが住み着く可能性だってあるらしい。
「でも、今帰るわけにはいかないし……」
新型コロナが終息するまでは動けない、ともどかしそうに溜息を漏らした。
それでも、気を取り直そうとするかのように写真を見つめて笑みを浮かべた。
「いい所よ、とってもいい所なの」
都会と違って文化的な生活には程遠いが、自然に囲まれて生活していると心が解放されるのだそうだ。
特に、雪に閉ざされた冬が終わって一気に花が咲き誇る春がやってくると、言葉に表せないほど幸せな気持ちになるのだと目を輝かせた。
「帰れるようになったら一緒に行きましょうね」
実家の写真に視線を落として目を細めた。




