♪ 男(3) ♪
4月5日、8時間かかって現地に着いた。
途中2回休んだだけなので、皆疲れた顔をしていた。
それに、午後3時を回ると一気に気温が落ちた。
途中ラジオで聞いた天気予報では、今日の最低気温は1度ということだった。
1度というのは、東京では真冬の寒さだ。
それでも、古民家で出迎えてくれたハウス栽培のオーナー夫妻の笑顔に癒された。
きれいに掃除してくれていただけでなく、『ひっつみ』を準備しているという。
男は思わず口を右手で押さえた。
この前見た白昼夢を覗かれていたように感じたからだ。
そのせいで、オーナーの顔をまともに見ることができなかった。
ひと休みした男は社員と共にテーブルに着いた。
目の前には豪華なひっつみが用意されていた。
オーナーの音頭で乾杯したあと箸を伸ばすと、一瞬にして恋に落ちた。
干したイワナから取った出汁はクセがなくさっぱりとした風味で、それにカニが合うのだ。
それも貴重なモクズガニとくるからたまらない。
特にカニ味噌は旨すぎる。
濃厚な味わいに溜息が出そうになる。
残念ながら旬ではないので冷凍品らしいが、それでもこれだけの味わいを出せるのだからなんの問題もない。
イワナとモクズガニという川で生息する者同士が奏でるハーモニーに男の味蕾は感嘆の声を上げ続けた。
*
4月6日、朝からどんよりとした雲が空を覆っていた。
夕方には雨が降るらしい。
社員を激励し、オーナー夫妻に礼を言って、男は一人、東京へ急いだ。
すると、東京に近づくにつれて空から雲が無くなり、途中から快晴に変わった。
18度まで気温が上がっているらしい。
岩手との違いに、改めて日本は広いと認識を新たにした。
自宅に着いた頃には薄暗くなっていた。
もう少し早く着くつもりだったが、仲間のいない一人旅は退屈で、眠気覚ましに4回も休憩を入れたので時間がかかってしまったのだ。
男は急いで部屋に上がり、ケトルでお湯を沸かした。
そして、途中コンビニで買ったカップラーメンを掻き込んだ。
火傷しそうになりながらも冷たい水で口の中を冷やしながら食べ終えて、テレビを付けると、官邸におけるぶら下がり会見が始まっていた。
7日に緊急事態宣言を発令し、8日午前零時から効力を発生させると首相が言明した。
対象地域は、東京、埼玉、千葉、神奈川、大阪、兵庫、福岡の7都府県だった。
都市の封鎖はしないが、密閉・密集・密接の〈3つの密〉を防ぐためには外出自粛に対する全面的な協力が必要であると強調し、国民の理解を求めた。
ついに来たか……、
男の口から思わず重く沈むような息が吐き出された。
それでも、岩手へ社員を送り届けることがぎりぎり間に合ったことへの安堵も同時に感じていた。
但し、それは嵐の前の準備ができただけということもわかっていた。
想像もつかないほどの大嵐が目前に迫っているのだ。
これからが正念場なのだ。
勝つか負けるか、
倒すか倒されるか、
生き残りをかけた戦いを前に身震いを止めることができなかった。
*
4月7日、夕方6時から首相の記者会見が始まった。
医療関係者や感染対策に関わる人たちへの感謝を述べたあと、全世界で6万人以上の死者が出ている事実を上げ、日本でも大都市圏を中心に感染者が急増しており、ウイルスとの過酷な戦いが始まっていることを強調した。
マスクや感染対策用医療品の増産に取り組み、ベッド数の確保にも取り組んでいるが、医療提供体制の逼迫の危惧があり、時間の猶予がないことを訴えた。
そして特別措置法第三十二条に基づき、緊急事態宣言を発出すると宣言した。
対象地域となる7都府県においては、生活の維持に必要な場合を除き、みだりに外出しないように要請すると語気を強めた。
そしてこの緊急事態宣言を1か月で解除するためには、人と人との接触を7割から8割削減しなければならないと訴えた。
更に、〈3つの密〉を回避するために、バー、ナイトクラブ、カラオケ、ライヴハウスへの出入りを控えること、集会やイベントを避け、飲み会はもとより、家族以外の多人数の会食も行わないよう要請した。
その上で、これに伴い経済活動に大きな影響が出ることも言及した。
世界経済だけでなく、日本経済も戦後最大の危機に直面していること、その中で多くの中小・小規模事業者が事業継続に大きな支障をきたしていることを説明したあと、雇用と生活を断じて守り抜いていくために108兆円の経済対策を実施すると言明した。
更に、困難に直面している家族や中小・小規模事業者には6兆円を超える現金給付を行うと明確に発言した。
また、売上が大きく減った中堅・中小法人に対して、史上初めての事業者向け給付金制度を創設すると打ち上げた。中堅・中小法人に200万円、個人事業主に100万円支給するとのことだった。
更に、固定資産税を減免し、消費税や社会保険料の支払いを1年間猶予するとも言った。
また、無利子無担保で最大5年間元本返済据え置きの融資が受けられるようにすることも付け加えた。
その上で、大きな不安の中でも希望が確実に生まれていることを強調し、ワクチン開発、治療薬開発への期待を滲ませた。
そして、国民全員の力を合わせてウイルスとの戦いに打ち勝つことができれば、この試練を必ず乗り越えることができると締めくくった。
*
男は昨夜ほとんど眠れなかった。
緊急事態宣言発令は、想像をはるかに上回る衝撃を精神に与えていた。
眠気がまったく来ないばかりか、寝酒をしてもさっぱり効果がなかった。
諦めてベッドに潜り込んだが、色々な不安が次々に頭に浮かんできて目は冴えるばかりだった。
枕元にCDコンポを持ってきてヒーリング・ミュージックを流したが、リラックスも癒しも得られなかった。
諦めて午前4時にベッドを抜け出した。
外は真っ暗だった。
夜明けまでまだ1時間以上あるので当然なのだが、ため息が出た。
電気シェーバーを持ってトイレに入った。
いつもなら髭を剃り終わる頃にお通じの兆しがあるのだが、今日はほんの控え目にガスが挨拶してくれただけだった。
トイレから出て洗面所に移動し、泡石鹸で顔を洗ってから化粧水をたっぷりつけた。
そして、ジェット式のヘアトニックでマッサージしたあと、ヘアクリームを塗り、ドライヤーで髪をセットした。
それが終わって洗面ボウルに目を移すと、抜け毛に目がいった。
数えると、28本も落ちていた。
最近抜け毛が多い。
頭皮の曲がり角なのだろうか?
それとも、ストレスによる一時的なものだろうか?
どちらにしても気が滅入ることに違いはない。
ティッシュで拭ってゴミ箱に捨てたが、その上に1本はらはらと落ちてきた。
それをつまんで毛根を見ると、膨らみが見つからなかった。
毛根がほとんどない抜け毛は危険信号だと何かの雑誌で読んだことがある。
薄毛予備軍か……、
寝不足の体に重い鉛が被さった。
ホットミルクとバタートーストで朝食を済ませたあと、寝酒が残っている頭に喝を入れるために濃いコーヒーをマグカップ一杯飲み干した。
ブラックが全身を駆け巡ると少しシャンとしてきたので、タブレットを立ち上げて、〈to-do list〉に本日の予定を打ち込んだ。
・賃貸ビルの解約通知
・本社移転登記の準備
・引っ越しスケジュールの立案
・事業者向け給付金制度の確認
・最大5年間元本返済据え置き融資の確認
・その他すべきことは全部
窓が明るくなってきたので、カーテンを開けた。
快晴のようだった。
忘れ物がないか確かめて家を出た。
*
三つの密を避けるために早めに電車に乗ったが、予想以上に乗客がいた。
マスクをしていない人がちらほらいたので、そういう人たちを避けて車両の端へ移動した。
そして、いつものように吊革に掴まろうとして、ハッと気づいた。
ウイルスが付着しているかもしれない、と。
慌てて手を引っ込めた時、急ブレーキがかかり、アナウンスが流れた。
「急停車します。ご注意ください」
しかし、既に隣の人にぶつかっていた。
なんとか転ばずに済んだが、思い切りキツイ目で睨まれた。
男はちょっとだけ頭を下げて、ゆっくり方向転換をして反対側の端の方へ歩き始めた。
「俺のせいじゃないし……」とブツブツ言いながら。
会社に着くと、既に出社している人がいた。
経理担当役員だった。
緊急事態宣言の会見を見て眠れなくなったから、始発電車に乗って会社に来たという。
上手がいた。
2人で顔を見合わせて苦笑いをしたが、男はすぐに表情を引き締めてタブレットを取り出した。
そして役員の隣に座り、2人でto-do listを確認した。




