♬ 女(8) ♬
その夜、夢を見ました。
補助輪を外した自転車に初めて乗った時の夢でした。
後ろの荷台に手を添えていたのは、父ではなく母でした。
わたしがバランスを崩さないように、荷台に手を添えながら走っていました。息を切らしながらも、何度も走ってくれました。
そして遂に一人で漕げるようになると、道路にへたり込みながらも、笑顔で拍手をしてくれました。
それは、実際の出来事に近い夢でした。
仕事で忙しい父はわたしの相手をする時間が限られていたので、何かを初めてする時にはいつも母が付き添ってくれていたのです。
自転車の時もそうでした。
補助輪を苦労して外してくれたのも母でした。
一人漕ぎできるまで何回でも手助けしてくれたのも母でした。
うまくいかない時は励ましてくれて、うまくいった時は自分のことのように喜んでくれました。
そんなことを思い出していると、ちょっとセンチな気分になってきました。
寝袋を頭まですっぽりとかぶって、少し泣きました。
でも、母を許すことはできませんでした。
それとこれとは別だからです。
父を裏切った女は過去に母だった人とは違うからです。
わたしは夢の残像を頭から消しました。
自転車を買ってから、用がなくても隣町のリサイクルショップに行くようになりました。
オーナー夫妻はプライベートに土足で入り込んでこなかったので、安心して付き合うことができたからです。
何回か通った後、意を決して、それまで口に出せなかったことをお願いしました。
「こちらで働かせていただけませんか?」
人柄に惚れ込んでいたので、仕事をするならこの店でと思っていたのです。
でも、2人は同時に困ったような顔になって、目を見合わせたまま首を傾げていました。
「ダメ、です、か……」
恐る恐る声を出してみたものの、空気がどんどん気まずくなっていくような感じがして、最後は尻切れトンボのようになってしまいました。
「ダメじゃないんだけど……」
ご主人が困ったような顔をしたまま腕を組んで奥さんに視線を向けると、意を汲んだ奥さんが申し訳なさそうに口を開きました。
それは店の現状についてでした。
開店してやっと1年を乗り切ったばかりで経営はまだ軌道に乗っているとは言えないこと、
家賃の支払いと借金の返済でいっぱいいっぱいなこと、
だからとても人を雇う余裕がないこと、
そんなことをぽつりぽつりと話してくれました。
その後は声が途切れて何かを考えるような表情になりましたが、「店が軌道に乗ったらね」と言ってご主人に目をやりました。
ご主人はすぐに頷いて、「そうなったら真っ先に声をかけるからね」と言ってくれました。
「ごめんなさい、無理なお願いをして……」
顔を見ながら頭を下げると、2人は同時に強く首を横に振りました。
そして、今まで通り気楽に遊びに来て欲しいと優しい言葉をかけてくれました。
でも、それから2週間ほどは店に行けませんでした。
気まずくなったわけではありませんが、どういう顔をして行けばいいかわからなかったからです。
それでも、これ以上間隔が空くと永遠に行けなくなるような気がして、重い腰を上げて、自転車にまたがりました。
店に着くと、わたしの顔を見た途端、店先で掃除をしていた奥さんの顔がパッと明るくなりました。
そして店の奥で作業をしているご主人に向かって声をかけて手招きをすると、ニコニコしながら店先に出てきました。
抱き合いませんでしたが、そんな雰囲気で喜んでくれたのが嬉しかったことを覚えています。
暫く近況を報告し合ったあと、奥さんが店からチラシのようなものを持ってきて、わたしの前で開きました。
ミニコミ誌でした。
赤いボールペンで囲んだところを指差したので、見ると、アルバイト募集と書いてありました。
「とても美味しいベーカリーさんなの。いつも行列ができるくらい人気の店なのよ。それに、私たちと同じくらいの年齢のご夫婦がやっているから、どうかなって思って」
わたしに紹介しようとずっと待っていたのだそうです。
水曜日から日曜日の週5日勤務で、時間は朝7時から11時まででした。
時給は900円で、月に直すと72,000円になります。
家賃をカバーできる金額です。
それに、人気のベーカリーで働くのはとても楽しそうに思えたので、すぐにその気になりました。
同じ商店街の中にあるその店に奥さんが連れて行ってくれました。
オーナー夫妻に紹介してくれて、推薦の言葉を添えてくれましたが、昼の繁忙期の直前だったせいか、「後日面接をしたいので履歴書を持ってきてください」とだけ言って仕事に戻っていきました。
気づいたらお客さんが一気に増えていました。
これ以上いたら邪魔になるので店から出ましたが、香ばしいパンの香りがわたしを誘惑するようにいつまでもまとわりついていました。
奥さんと別れたあと、文房具店に寄って履歴書を買い、急いで部屋に戻りました。
椅子に座って何を書こうかと暫し考えましたが、特記するようなことは思い浮かばなかったので、名前と住所と高校中退とだけ書きました。
翌日の夕方、ベーカリーへ向かいました。
店に着くと、丁度店仕舞いをしているところでした。
「少し待ってて」と言われたので、片づけの様子を見ながら、自分が採用になった時の動きを勝手にシミュレーションしました。
20分ほど経って手招きをされたので、ついていくと、自宅になっている店の2階に案内されました。
リビングのテーブルで向かい合うように座りましたが、緊張のせいか、声が喉につかえたようになって、挨拶の言葉が出ていきませんでした。「よろしくお願いします」とだけ言って、履歴書を差し出しました。
すると、「バイトの経験は?」と訊かれたので、コンビニとスーパーでバイトしたことがあると答えました。
「リサイクルショップの方とはどういうお知り合い?」と訊かれたので、初めて訪問してから今までのことを話しました。
それから「パンは好き?」と訊かれたので、「お米よりパンの方が好きです」と答えると、2人揃って嬉しそうに笑いました。
そして、「いつからできる?」と訊かれたので、「明日からでも大丈夫です」と答えました。
すると2人が顔を見合わせ、奥さんが頷くと、ご主人も頷きました。
「では、明日から来てください」と言われて面接が終わりました。
高校中退のことは訊かれませんでした。
わたしは体を二つ折りにして謝意を示しました。
顔を上げると2人の顔に笑みが広がっていたので、新しい扉が開いたと感じました。
あの日以降、母が来ることはありませんでした。
わたしはベーカリーでのアルバイトに夢中になっていましたし、駅の『ふれあい広場』にあるピアノでの演奏を楽しんでいたので、母のことはほとんど忘れていました。
たまにドアの外で物音がすると、母かなと思ってびくっとしましたが、いつも隣に住むおじさんが引き起こす音でした。
わたしの毎日はほぼ同じことの繰り返しでした。
アパートに帰ると、シャワーを浴びて、夕食を作って、食べて、後片づけをして、手洗いで洗濯をして、歯磨きをしたらすぐに寝袋に潜り込んで、音楽を聴いていました。
だから、母のことを思い出す余地はほとんどありませんでした。
このまま母との関係が自然に消えていきそうな気がしていました。