♬ 女 ♬
わたしは誰?
わたしは誰??
わたしは誰???
問いかけても答えてくれる人はいない。
わたしはピアニスト。
ラウンジに目をやり、鍵盤の上に赤いキーカバーを被せながら呟いた。
でも、誰からも拍手を貰えないピアニスト。
小さな溜息と共に鍵盤の蓋を降ろし、ラウンジに一礼した。
わたしは誰?
ホテルを出てもう1度問うたが、その声を風がさらっていった。
わたしはピアニスト。
言い聞かせるように呟いた時、冷たい空気がうなじから忍び込んできた。
急いでコートの襟を立てて首の前を閉じるようにしっかり合わせたが、寒さは消えなかった。
心の中に寒風が吹いていた。
冷たい風を防ぐコートの襟は心の中にはなかった。
*
最寄り駅に着いた。
品川駅だった。
夜9時を過ぎているのに駅の改札口は真昼のように明るく、群れのようになった人々がホームに向かって急いでいた。
女は温かさが欲しかった。
だから改札口を右手に見ながら港南口へ向かい、隣接する商業ビルに入った。
3階にあるこじんまりとしたコーヒーショップに入ってカウンターに座った。
その途端、誰かの名前が呼ばれた。
つられて店内を見回すと、若い女性が手を上げていた。
すぐに店員がコーヒーを運んできた。
この店は入店すると最初に注文と会計を済ませて名前を登録する決まりになっているのだ。
少しして女の名前が呼ばれた。
「ストレンジャー様」
手を上げると隣に座る若い男性に顔をしげしげと見つめられたが、それに気付かぬふりをして、店員からカプチーノを受け取った。
ラテアートが素敵だった。
四葉のクローバーが浮かんでいた。
わたしは誰?
四葉のクローバーに問いかけた。
しかし、クローバーは何も言ってくれなかった。
いいのよ、答えなくても。
それでも暫くクローバーを見つめていると、その姿が崩れ始めた時、囁くような声が聞こえた。
あなたはあなたよ。
女はクローバーが形を失っていくのをじっと見ていた。
すると、跡形もなく消える寸前、遺言のような囁きが耳に届いた。
あなたはあなたよ。
女は静かに頷いた。
そうね、わたしはわたしね。
心の中が少し温かくなった。
カップの取っ手をつまんで口に運ぶと、深煎りらしいビターな味がした。
それがミルクと交じり合ってマイルドに変化し、優しい風味となって喉を通っていった。
あなたはあなたよ。
胃の中から声が聞こえた。
すると、頭の中にあのメロディが浮かんできた。
*
最寄り駅で降りて真っすぐアパートに帰ったが、誰もいない部屋は寒々と冷え切っていた。
すぐに部屋の明かりを点け、電気ストーブのコンセントを差し、600Wにして手をかざした。
エアコンはあるのだが、光熱費を節約するために使用を控えている。
誘惑に負けないようにリモコンは台所の一番上の棚に隠して、椅子に乗らないと取れない高さに仕舞っているのだ。
少し暖かくなってきたので、服を着替えた。
裏起毛の厚地スウェット上下の上にベンチコートを羽織った。
野外スポーツ観戦用なのでとても温かい。
でも足元が寒かったので、厚手のハイソックスを2枚重ねて履いた。
これで万全だ。
女っぽさは欠片もないが、誰も見ていないからなんの問題もない。
わたしはわたしだ。
台所に行って、小さな鍋に500mlの水を入れて火にかけてから、フライパンでモヤシとキャベツを炒めた。
鍋の水が沸騰してきたので、即席麺を入れて2分煮た。
そして、生卵を入れて更に1分煮た。
そこで火を止めて、添付のミソスープの素を入れて、卵が崩れないように慎重にかき混ぜた。
大きめの椀にラーメンと卵とつゆを移し、モヤシとキャベツを上に乗せた。
夕食の完成だ。
日雇いのような生活をしている女に1食100円以上お金をかける余裕はなかった。
たまにはおいしいものを食べたいと思うこともあるが、無い袖を振ることはできない。
それに、貧乏生活にはすっかり慣れたから、野菜と玉子付き味噌ラーメンで十分幸せな気持ちになれる。
寒い冬に温かいものでお腹がいっぱいになれば、他には何もいらない。
他人から見たら酷い食事だと思われるかもしれないが、そんなことは関係ない。
わたしはわたしだ。
体の中から温かくなったので電気ストーブを300Wに落として、タイマーを1時間にセットした。
それから洗面所で化粧を落としてスキンケアと歯磨きをしたあと、コンポにCDをセットして部屋の明かりを落とした。
豆電球がわたしを見つめていた。
何か言いたそうだったので、「ありがとう。でも大丈夫。おやすみなさい」と声をかけて、リモコンの8番ボタンを押した。
コーヒーショップで頭に浮かんだメロディが部屋に流れてきた。
『JUST THE WAY YOU ARE(素顔のままで)』
心の中にビリー・ジョエルの温かい歌声がしみ込んでくると、ビリーの声に重なるようにサックスの音色が聞こえてきた。
グラミー賞を4度も獲得したフィル・ウッズの優しい音色だ。
聴き惚れていると、今度はサックスの音に重なるようにビリーの歌声が戻ってきた。
その優しい声に包まれながら、いつの間にか夢の中へ入っていった。