♬ 女(5) ♬
夜が明けると、年が変わっていました。
でも、だからどうということはありませんでした。
年が明けてもめでたいわけはないからです。
荷物を全部出して、空になったスーツケースを引きずって、昨日行ったコンビニへ向かいました。
肉まん2つとホットコーヒーを買って、イートインスペースで食べました。
肉まんを頬張ると、肉汁が口いっぱいに広がって豚肉の旨味が味蕾を刺激しました。
コーヒーを飲み終えると急に腸が動き出したので、店員に断ってトイレを借りました。
体の中の悪いものがすべて出たような気がしました。
昨日電気ストーブを買ったリサイクルショップに行きました。
元旦だから閉まっているかと思ったら、開いていました。
この商店街は3日まで営業して4日から7日まで休むのだと店主から聞いてホッとしました。
助かったと思いました。
早速、生活用品を買い揃えました。
フライパン、鍋、包丁、俎板、フライ返し、栓抜き、はさみ、茶碗、皿、コップ、ドライヤー、どれも一番安いものを買ってスーツケースに入れました。
引きずるとガチャガチャと音がしましたが、まったく気になりませんでした。
その足でスーパーマーケットに寄って、豚肉と野菜と醤油とサラダ油と特大サイズのミネラルウォーターとリンスインシャンプーとボディーソープとタオルと歯磨きと歯ブラシ、そして、食器用洗剤と洗濯用液体石鹸と物干しハンガーを買いました。
これらをスーツケースに詰め込むと、ガチャガチャ音が小さくなったような気がしました。
部屋に戻ってスーツケースの中から今日買ったものを取り出して、所定の場所に置くと、少し生活の匂いがしてきたような気がしました。
昼は水だけで我慢して、夜は豚肉とキャベツを炒めて食べました。
ご飯がないので大盛りにして食べました。
お腹いっぱいになると、睡魔が襲ってきました。
でも、必死に堪えました。
悪夢が怖かったからです。
突然明かりが消えました。
その後すぐにジーという音がして、チカチカと点滅していましたが、暫くしてまた消えました。
丸型の蛍光灯を買わなければいけなかったことを思い出しましたが、後の祭りでした。
暗闇の中を恐る恐る這うように移動して、洗面台とトイレとシャワースペースが一体になっている部屋の明かりを点けました。
ドアを開け放つと、六畳間が少し明るくなりました。
膝を抱えて朝までまんじりともせずに過ごしましたが、何もせずに目を開け続けているのは本当に辛かったです。
死ぬかと思いました。
それに長かったです。
時間が経つのがこんなに遅いとは思いませんでした。
外が明るくなってから、お湯を熱めにしてシャワーを浴びました。
風邪をひかないように速攻で体を拭いて、服を着て、ドライヤーで髪を乾かしました。
2日間寝ていませんでしたが、少し元気が出ました。
昨日の残りの豚肉とキャベツを炒めて食べて、食後に水をごくごくと飲むと、腸が動き出しました。
夕食と朝食でキャベツを1個丸ごと食べた効果が現れたのか、するりとお出ましになり、爽快感に包まれました。
食物繊維の威力は凄いと思いました。
その日はバックパックを背負って、スーツケースを引きずって、リサイクルショップへ行きました。
ご飯が食べたかったから炊飯器を探しました。
高機能製品が並んでいましたが、それには興味がありませんでした。
シンプルで安いものでいいからです。
そのことをお店の人に伝えると、奥の倉庫から小さな炊飯器を持ってきました。
未使用の新古品で、値段は税込み2,940円でした。
但し、2合炊きで保温機能は付いていないと言われました。
でも、それで十分でした。
お金を払うと、しゃもじと計量カップをおまけで付けてくれました。
昨日たくさん買ってくれたから、そのお礼だと言われました。
ニコニコしながらバックパックに炊飯器を入れてくれた中年のご主人とは友達になれそうな気がしました。
この町でやっていけるかもしれない、そう思うと、少し気持ちが明るくなりました。
スーパーへ寄って、お米と卵と梅干と白菜の浅漬けを買ったあと、あの電器店へ行きました。
本当は行きたくなかったのですが、他に電器店がなさそうなので仕方ありませんでした。
店に入ると、あの感じの悪い年配の店主が、またわたしをじろじろ見ました。
丸型の蛍光灯が欲しいと言うと、発売されたばかりのLED蛍光灯を勧められました。
そんな最新のものではなくて普通の安い蛍光灯が欲しいと言うと、LEDは10年持つからお得なんだと説教するように言われました。
でも、そんな高価なものは買えないので、とにかく普通のものをくださいと言い返すと、ずり下がったメガネの上からいやらしい目でわたしの胸を舐めるように見ました。
とっさにコートの前を合わせて、その視線をブロックしました。
店主はチェッというふうに舌打ちして、棚から30型と32型がセットになった商品を取り出しました。
1,470円だと言うので、千円札1枚と五百円玉を1個渡しました。
お釣りを手渡されそうになったので、いらないと言って、逃げるように店を出ました。
スケベ爺が触った小銭を受け取るなんてまっぴらだと思ったからです。
部屋に戻って、蛍光灯を付け替えようと照明に手を伸ばしたら、届きませんでした。
その時、ふと気づきました。
この部屋には机も椅子もないことを。
途方に暮れましたが、今日も真っ暗な中で夜を過ごすなんて冗談じゃないと思って、急いでリサイクルショップへ引き返しました。
わたしの姿を見てご主人の顔が曇ったように見えました。
「炊飯器、壊れていましたか?」と心配そうな声で尋ねられました。
そうではないことを告げて、事の顛末を話すと、ご主人が破顔しました。
でも、すぐに真顔になって奥の倉庫に行き、正方形の小さなテーブルと椅子を2脚持ってきました。
3品で税込み999円だと言われました。
超安いので即決しましたが、持って帰ることができないことに気がつきました。
困りましたが、どうしようもないので有料配達を頼もうと顔を向けた時、意外なことを言われました。
タダで配達してあげるというのです。
やっぱりいい人でした。
言葉に甘えることにしました。
宅配便のような配送車に積み込んだあと、わたしは助手席に乗り込みました。
アパート近くの空きスペースに車を止めて、2人でダイニングセットを運び込みました。
六畳間に仮置きすると、「私が蛍光灯の交換をしましょうか? それともご自分でやりますか?」と訊いてきたので、返事をしようとすると、「今後のためにも自分でやった方がいいかもしれないですね」と勝手に結論を言われてしまいました。
わたしは椅子の上に乗って、外側の蛍光管に接続しているコンセントを抜きました。
そして、蛍光管を支えている金具から外そうとしましたが、これが簡単ではありませんでした。
中々外れないのです。
無理に外そうとすると内側の蛍光管が破裂しそうで怖くなりました。
すると、椅子を支えてくれているご主人が見かねたのか、「内側から外さないとだめですよ。ツメを下げるようにすれば外れますから」と言うので、そうしたらなんとか外れました。
ホッとしました。
2本とも外し終えると、新しい蛍光管を渡してくれました。
外す時と逆の順番に取り付けると、スムーズに接続することができました。
紐を引っ張ると、すぐに点きました。
部屋が一気に明るくなりました。
下を見ると、ご主人がニコニコしていました。
わたしが笑みを返すと、彼が両手を出したので、それを握って椅子から降りました。
その途端抱き締められました。
そして、首筋にキスをされました。
唇の端に触れてきました。
とっさに顔を背けると、彼の左手がわたしの右尻に、右手がわたしの左胸を掴みました。
何度か揉まれました。
「ヤメテ!」
突き飛ばすと、彼はバランスを崩して尻もちをつきました。
わたしは台所へ行って包丁を取り出し、彼の鼻先に突き付けました。
彼は両目を全開にして、あわあわと口を震わせていました。
そのあとのことはよく覚えていません。
気づいたらアヒル座りをしていました。
包丁は畳の上にありました。
血は付いていませんでした。
人殺しはしなかったようです。
立ち上がって玄関へ行くと、スニーカーが片方踏み付けられたようにひしゃげていて、ドアが開きっぱなしになっていました。
彼が逃げるようにして出て行ったのだろうと思いました。
すぐにドアを閉めて鍵をかけました。
感じが良くて親切そうで友達になれそうな気がしていたのに、結局は電器店のスケベ爺と一緒でした。
男なんてみんな一緒だと思いました。
エッチなことしか考えていないんだと思いました。
女をセックスの対象としてしか見ていないんだと思いました。
電車の中で痴漢をするように何をしてもいいと考えているんだと思いました。
結局みんな一緒なんです、男なんて。
夕方、交番へ向かいました。
被害届を出すためではありません。
これ以上あの男に関わり合うのはごめんだし、それに調書を取られるわけにはいきません。
わたしは未成年の家出娘なので、保護されて実家に送り返されるのがわかっているからです。
そんなことになったら人生は終わってしまいます。
対応してくれたのは若い男性警官でした。
優しそうな感じでしたが、リサイクルショップと電器店を探していると伝えると、怪訝そうな表情になりました。
調べればすぐに見つかるのに、というような目をしていました。
そんなことはわかっていますが、わたしはパソコンも携帯電話も持っていないし、電話帳も持っていないのです。
どこに何があるのか探しようがないのです。
でも、そんなことを説明しても意味はないので、職業別電話帳を貸してくれたら自分で探すと伝えました。
すると彼は面倒くさそうに立ち上がって、棚から電話帳を引き抜いて渡してくれました。
交番勤務の警察官は親切な人が多いと聞いていましたが、そうではない人もいることを知りました。
見回りと道案内などの単純な業務に飽きているのだろうか、
刺激のある事件に飢えているのだろうか、
被害届を出せば目の色が変わるのだろうか、
そんなことを考えながら電話帳のページをめくりました。
調べた結果、近くにはなさそうでしたが、隣町に各1軒あることが確認できました。
ペンとメモを借りて書き留めました。
礼を言って電話帳を返しましたが、彼は、どうも、とだけ言って道路の方に目を向けました。
この町の男は終わっていると思いました。
越してきたばかりでしたが、もう引っ越すことを考えてしまいました。
その夜、自分の叫び声で目が覚めました。
ヤメテ! と叫んでいました。
リサイクルショップの主人に体を触られている夢を見たのです。
上半身が汗びっしょりになっていました。
冷気の中で体が凍えそうになっていました。
慌てて電気ストーブのスイッチを入れ、下着と服を脱ぎ、体を拭いて、新しい下着と服に着替えました。
それで体の震えは止まりましたが、心の震えは続いていました。
現実だけでなく夢の中でも被害に遭うなんて信じられませんでした。
「まさか、トラウマ?」と思わず呟いていました。
すると、昨日の出来事が蘇ってきました。
首筋にキスをされた感触、
尻を触られた感触、
胸を揉まれた感触、
すべて蘇ってきました。
ウワ~! と叫んでシャワールームに飛び込みました。
シャワーを全開にしたあと、さっき着た服を急いで脱ぎ捨てて、頭から浴びました。
そして全身を泡で洗いました。
首筋と尻と胸は赤くなるほど強く擦って洗いました。
バカヤロー!
チクショー!
死ねー!
と大声で叫びながら洗い続けました。
でも、気持ち悪い感触が消えることはありませんでした。
あの時殺しておけばよかったと思うと、包丁を握っていた時の右手の感触が蘇ってきました。
あいつの心臓を突き刺すようにシャワーヘッドを掴んでグイと前に突き出しました。
しかし、手応えは何もありませんでした。
目がジワーッと熱くなったと思ったら、涙が止まらなくなりました。
肩の震えも止まらなくなりました。
泣きながらシャワーを浴び続けました。
なんとか気を落ち着かせて、体を拭いて、髪を乾かして、六畳間に戻ると、窓が薄明るくなっていました。
夜が明けたようでした。
カーテンを開けると、雨が降っていました。
結構強く降っていました。




