♬ 女(4) ♬
その日は手袋をしていてもジンジンするくらい寒かったことを覚えています。
木枯らしが真正面から強く吹き付けていたので、コートの襟を立てて、前傾姿勢になってバイト先から家に向かいました。
アパートが見えたと思ったら、窓には明かりがついていました。
暗い部屋に帰ることが多い土曜日だったのですが、母が早く帰ってきたことに少しほっとしました。
チャイムを鳴らすと、ロックを解除する音がしたので、ドアを開けました。
母が立っていました。
でも、その顔は緊張しているように見えました。
何かあったのかな、と思いながら中に入ると、知らない靴が目に入りました。
男の靴でした。
思わず身構えました。
「誰?」と尋ねた声は掠れていました。
母は何も答えず、居間の方に目をやりました。
部屋に入ると、男の背中が見えました。
見覚えがある気がしました。
男がゆっくりと振り向きました。
知っている男でした。
緊張した表情で頭を下げましたが、何も言わずに顔を元に戻しました。
わたしは男の正面に座りました。
「もしかして母の病気が……」
男は頭を振りました。
「では、どうしてここに……」
男は居住まいを正して、横に座る母の顔を見ました。
母は緊張した面持ちで頷きました。
男は頷き返してゴクンというように唾を飲み込みました。
そして、信じられない言葉を発しました。
「お母さんにプロポーズしました」と言ったのです。
頭が真っ白になりました。
瞬きができなくなりました。
呼吸が止まっている事に気づいて、大きく息を吐きました。
そして、息を吸い込みながら男の横に座る母を見ました。
母も瞬きをしていませんでした。
目を大きく見開いたまま、わたしに頷きました。
意味がわかりませんでした。
医師が患者にプロポーズ?
何それ?
わたしに隠れて何やってんの?
そんなこと許されるの?
お父さんを裏切っていいの?
どうなってんの?
そんなことがグルグル頭の中を回っていました。
訳がわからなくなりましたが、それだけでなく、もっと酷いことを聞かされました。
「お腹の中にね」と母が言ったのです。
わたしは両耳を塞いで、意味不明な声を出して、部屋から飛び出しました。
気づいたら、通りを走っていました。
つっかけのまま、コートも纏わず、泣きながら走っていました。
母が父以外の男に抱かれた?
母のお腹の中に父の遺伝子が入っていない妹か弟が宿った?
もう頭の中がぐちゃぐちゃになって大きな声で叫んでいました。
イヤ~!
空気を切り裂くような声でした。
イヤ~~~!
この世から消えたくなりました。
そのあとのことはよく覚えていませんが、いつの間にか公園の入口に立っていました。
視線の先にブランコがありました。
近づいて両手でチェーンを掴み、ゆっくりと腰を下ろしました。
ブランコに乗るのは久し振りでした。
いつ以来のことか思い出せませんでしたが、母がわたしを太腿の上に抱っこして漕いでくれたことが蘇ってきました。
でも、それは記憶ではないのかもしれません。
父が撮った写真をあとで見たことを記憶と勘違いしているだけかもしれないからです。
そうだとしても、母の太腿が温かかったことを覚えているような気がしました。
でも、その記憶らしきものはすぐに頭から消し去りました。
ブランコを後ろに引いて、そっと足を上げました。
わたしの体が前に行き、そして後ろに戻りました。
しかし、心は戻りませんでした。
木枯らしがどこかへ運んでいってしまったのだと思います。
突然、父の寂しそうな顔が浮かんできました。
ごめんなさい……、
謝ると、父の顔が消えました。
入れ替わるように医師の顔と声が蘇ってきました。
「プロポーズしました」
母の声が聞こえてきました。
「お腹の中にね……」
その声が耳の奥で反響を始めました。
止めて!
思わず両手で耳を押さえました。
両手を放したわたしはバランスを取ることができなくなり、ブランコから落ちてしまいました。
地面が冷たかったことを覚えています。
お尻から頭へ冷感が走ると、もうダメだと思いました。
もう元には戻れないと思いました。
その日以来、その土曜日の夜以来、母とは口をきかなくなりました。
高校に行く気が起らなくなりました。
バイトも辞めました。
もうどうでもよくなったのです。
抜け殻のような時間をただ浪費するばかりでした。
12月も半ばになった頃、医師から手紙が来ました。
年末休みが始まる12月30日に身内だけの結婚式を挙げて、その日の夜便でハワイに発ち、1月4日に帰ってくると書いてありました。
わたしは吐き気を覚えて、その場で破り捨てました。
その翌日、1時間以上電車に乗って見知らぬ町へ行き、駅前で不動産会社を探しました。
全部で4軒回りましたが、賃貸契約するには住民票と印鑑証明と連帯保証人が必要であることをどの店でも言われました。
連帯保証人はいないと告げると、賃貸保証会社との契約が必要だと言われました。
現在休職中で収入がないと伝えると、契約は難しいと言われました。
それなら1年分前払いするからと言うと、最後に訪ねた不動産会社だけが可能だという返事を返してきました。
年内に入居可能な物件を3軒見て回り、その中から家賃6万円のシャワー付きアパートの1階を借りることに決めました。
その翌日、市役所へ行って、転出届を出しました。
そして、転居に伴う諸々のことを片づけて行きました。
12月30日、夜明け前にそっと家を出ました。
当てもなくあちこちをぶらぶらしたあと、漫画喫茶で時間を潰しました。
コンビニで買ったサンドイッチをかじりながら時計と睨めっこを続けました。
21時30分になりました。
飛行機が成田を飛び立つ時間です。
もう一度時間を確認してから店を出て、家路を急ぎました。
明かりのついていないシンと静まり返った家に入ると、居間のテーブルに封筒が置いてあるのを見つけました。
母からでした。
封を開けずに破り捨てました。
押入れから大きなスーツケースとバックパックを取り出して、先ず父の形見を入れました。
それから、服と身の回りの品を可能な限り詰め込みました。
貴重品をしまっている引き出しのカギを開けて、通帳を2つ取り出しました。
別の引き出しのカギを開けて、印鑑を2つ取り出しました。
それをショルダーバッグの内ポケットに入れて、ファスナーを締めました。
そして本棚からアルバムを取り出し、父とわたしが2人で写っている写真を全部抜き取りました。
母とわたしの2人だけの写真は全部破り捨てました。
3人で写っている写真は破ることができなかったので、そのままにしておきました。
夜が明けるのを待ってブレーカーを落とし、ガスの元栓を締めました。
ドアに鍵をかけてから、きちんとしまっていることを確認して、ドアに組み込まれている郵便受けに鍵を放り込みました。
カチャンと金属音がしました。
1時間以上電車に乗って2週間前に来た駅で降り、駅前の銀行でお金を下ろしました。
そのお金で敷金と礼金と手数料と火災保険料と1年分の家賃を前払いしました。
それから不動産屋の女性社員にアパートまで送ってもらって鍵を受け取り、一般的な注意を受けました。
ガスは開栓済みになっているのですぐに使えるが、くれぐれも火の元には気をつけてと念を押されました。
部屋の中はがらんとして、冷え切っていました。
六畳間の窓には薄汚れた黄色のカーテンが、天井には古臭い丸型の照明器具が付いているだけでした。
照明器具から垂れ下がっている紐を引っ張ると、ジーという音がして暫くしてから点灯しました。
よく見ると、蛍光灯の両端がかなり黒ずんでいたので、切れる寸前かもしれないと思いました。
ショルダーバッグからメモとボールペンを出して、〈丸形蛍光灯を買うこと〉と書き込みました。
小さな台所にはガスコンロがありました。
年代物のようでした。
これも前に住んでいた人が残していったのだろうと思いました。
古臭くて汚かったですが、それでもありがたかったです。
生きていくために1円でも倹約しなければならないからです。
突然、お腹が鳴りました。
家を出る時にコッペパンと牛乳をお腹に入れただけだったので、胃の中は空っぽになっていました。
近くのコンビニでミネラルウォーターとラージサイズの即席カップ麺を買って割りばしを貰い、店員に断ってポットからお湯を注いで4分待って、イートインスペースで蓋を開けました。
湯気と共においしい香りが立ち上ってきました。
人目も気にせず貪るように食べました。
胃の中が温まると、体もホカホカしてきて少し元気が出てきました。
ミネラルウォーターを一口飲んで店を出ました。
商店街を歩いてみましたが、寂れた個人商店ばかりでした。
年末の稼ぎ時なのにシャッターが下りている店も少なからずありました。
若い人はあまり見かけなかったので、終わりかけている町かもしれないと思いました。
電器店を見つけたので中に入ると、店主と思われる年配の男性がわたしをじろりと見ました。
とても感じが悪かったのですが、それを無視して暖房器具を探しました。
でも、店が狭いせいか品数が少なかったし、予算より高い物しかなかったのですぐに出ました。
少し歩くとリサイクルショップがありました。
店先に小型の電気ストーブが置かれていました。
特価と書かれてあったので、中に持って入ってコンセントを差してもらいました。
きちんとつきました。
オレンジ色の灯りが温かく感じました。
千円札を出して20円お釣りをもらいました。
包装すると別途金がかかると言われたので、裸のまま抱えて持ち帰りました。
その夜は何も食べないで、ミネラルウォーターをちびちび飲んでやり過ごしました。
部屋を閉め切っても電気ストーブだけでは寒かったのですが、インナーを重ね着して、コートを羽織って凌ぎました。
裏起毛のジーパンを履いてきて良かったと思いました。
それでも足元が寒かったので、厚手の靴下を重ね履きしました。
少し温かく感じるようになったせいか、膝を抱えたままの状態で何回かウトウトしました。
でも、横になって寝ようとは思いませんでした。
本格的に眠ると恐ろしい夢にうなされそうで怖かったからです。




