♬ 女(2) ♬
母は2月生まれでした。
2月26日です。
誕生花はミモザでした。
だからか、母の誕生日にはいつもミモザの花が家中を飾っていました。
溢れんばかりに生けられた花瓶を見て、「どうしたの?」って訊いても、「うふふ」といつも誤魔化されました。
今思えば父のプレゼントだったのかもしれません。
父が母に渡す場面は見たことがないのですけど。
18歳までは絵に描いたような幸せな家庭でした。
裕福ではなかったけど愛情と笑顔が溢れていました。
わたしは世界で一番幸せな娘でした。
でも、父の突然死で一変しました。
家から愛情と笑顔が消え、失望と苦悩と暗闇が支配するようになりました。
母は極端に口数が少なくなり、仮面を被ったような無表情が続きました。
明らかに病的でした。
一日中塞ぎ込んで、溜息ばかりついていました。
近所の子供にピアノを教えることも止めてしまいました。
無収入になった我が家は一気に家計が苦しくなりました。
貯金は200万円ほどしかありませんでしたし、死亡保険金は1,000万円しかありませんでした。
それ以外には月10万円ちょっとの遺族年金が支給されるだけでした。
その遺族年金は家賃で消えました。
毎月の生活費は貯金と保険金を取り崩していくしか方法がありませんでした。
お金以外にも心配なことがありました。
母の様子がおかしいのです。
不眠が続いているようでしたし、食事の量が明らかに減っていました。
隅から隅まで読んでいた新聞を読まなくなりましたし、テレビで面白い番組をやっていても笑わなくなりました。
化粧もしなくなりました。
心配になって図書館で医学書を読み漁って、母の症状とよく似た病気を探しました。
すると、見つかりました。
『うつ病』と記載されていました。
原因の一つに〈家族や親しい人の死亡〉があると書かれていました。
症状も原因もピッタリ母に当てはまりました。
治療の項目を見ると、〈休養〉と〈薬物療法〉と〈カウンセリング〉と書いてありました。
重症度別の症状と治療方針が書かれているところを読むと、放置して悪化すると自殺の危険性があると書いてありました。
背筋が冷たくなりました。
自殺の原因の二番目がうつ病とも書いてありました。
一番目が経済困窮でした。
読み終わった時、背筋が凍りつきました。
母をこのままにしておいてはいけないと思いました。
病院に連れて行かなければならないと思いました。
なので、どの診療科へ連れて行けばいいのか探しました。
そのページを見つけると、そこには、精神科、神経科、心療内科の三つが書かれていました。
いきなり精神科は無理だと思いました。
母が行きたがらないに違いないからです。
神経科か心療内科のどちらかだと思いました。
自宅に戻って該当する病医院を電話帳で探しました。
近所は噂になるといけないから少し離れた所にある病医院がいいと思って探しました。
できれば女の先生がいいと思いましたが、どの施設も院長は男性医師でした。
女医さんのことは諦めて、良さそうなところを探しました。
すると、『内科・神経科』を標榜するクリニックが目に留まりました。
これなら警戒されずに連れて行けると思いました。
すぐに電話をかけました。
でも、完全予約制だと言われ、諦めざるを得ませんでした。
母の体調が良さそうな時にぱっと連れて行くことはできないからです。
それでも諦めきれず、何か方法はないかと考えていると、ふと、母の体調変化に好不調の波がはっきりしていることを思い出しました。
それは天気と関係があるように思えました。
天気が悪い日に母の調子が思わしくないのです。
特に雨の日が最悪でした。
どんよりとした曇りの日も同じでした。
それに比べて晴れの日は幾分調子が良さそうでした。
急いで新聞の週間天気予報欄で晴れの日を探すと、5日後が快晴マークになっていました。
躊躇わず電話をして、予約を入れました。
母の症状を伝えた上で、あることをお願いしました。
予約した日がやって来ました。
予報通り快晴でした。
思わずガッツポーズを作って気合を入れました。
9時過ぎに母がだるそうな表情で起きてきました。
それでも、昨日よりはかなりマシなように見えました。
天気が影響しているのは間違いないようでした。
母の好物のジャムトーストと目玉焼きを作って、一緒に食べました。
母は半分ほど残しましたが、それをわたしが平らげて、食後に紅茶を入れました。
たっぷりのミルクと砂糖を入れて甘めにしてあげると、おいしそうにすすっていました。
わたしはストレートで飲みながら母の様子を見ていました。
笑みは出なかったものの、仮面でもありませんでした。
大丈夫かなって思って、話を切り出しました。
「ちょっと気になることがあって病院を予約しているんだけど付いてきてくれない?」
すると母は、ん? というような表情になりましたが、反応はそれだけでした。
「一人だと心配だから付いてきて欲しいの」
わたしは重ねて頼みました。
「そうね」
母の返事はそれだけでしたが、「初めての病院だから心配なの」と懇願すると、母はテーブルに左肘をついて、左手の上に顔を乗せて、「何が気になるの?」とけだるそうに言いました。
「ちょっと……」と言うと、「そう」と言って、眠そうな目でわたしの顔を撫でるように見ました。
「お願い」
わたしは顔の前で両手を合わせました。
すると、「いいけど」と言って、右肘をついて右顎を右手の上に乗せました。
それからもう一度「いいけど」と言って、小さなあくびをしました。
母が着替えるのにとても時間がかかって焦りましたが、予約の1時間前にはなんとか家を出ることができました。
最寄り駅から2つ目の駅で降りて、ロータリーを超えて2つ目の信号を右に曲がりました。
すると、2つ目の角に看板が見えました。
『内科・神経科クリニック』
母を待合室に座らせて、受付を済ませました。
問診表には母の名前と症状を書きました。
母の横に座って呼ばれるのを待ちました。
15分後、名前を呼ばれました。
わたしの名前でした。
2人で診察室に入って椅子に座りました。
院長は丸顔で小太りの男性医師でした。
60歳くらいだと思いました。
その横には神経質そうな中年の女性看護師が立っていました。
〈悩み〉や〈症状〉、〈それがいつ頃から始まったのか〉や〈最近の環境の変化〉などについて質問されました。
わたしがそれに答えるにつれて母の表情が変わりました。
わたしの横顔を信じられないといったような目で見ていました。
自分とまったく同じ症状だと気づいたからだと思います。
「父が死んだことがまだ信じられません」
「切なくてたまりません」
「いつも疲れていて何もやる気が出ません」
「眠れない日が続いています」
「食欲はほとんどありません」
「なんにも興味がわきません」
わたしが話す度に母の顔が曇りました。
そして、「会いたくてたまりません」「寂しくて寂しくて死にたくなります」と言った時には両手で顔を覆いました。
「もっと優しくしてあげればよかった」と言った時には大粒の涙が零れ落ちました。
それを見て、わたしも堪えられなくなりました。
もう話せなくなりました。
母と2人で涙を流しました。
「お辛かったですね」
黙ってわたしたちを見ていた医師が優しく声をかけてくれました。
「私も妻を亡くした時は死にたいと思いました」
医師が声を詰まらせると、患者はわたしから母に替わりました。
母は泉が湧きだすように次から次と辛い心内を吐露していったのです。
涙を流しながら、鼻をすすりながら、肩と手を震わせながら吐露していきました。
「よくわかります。私も一緒でした。本当によくわかります」
医師は涙を流しながら何度も頷いていました。
看護師も泣いていました。
神経質そうに見えた彼女は温かい心の持ち主だったようです。
母が心内をすべて吐き出した時、「念のために簡単な検査をしましょうね」と医師が母に語りかけました。
頷く母を見て、検査内容を看護師に指示しました。
尿検査、血液検査、血圧、体重測定などの一般的な検査が行われました。
その間、わたしは待合室で待っていました。
母が待合室に戻ってきて暫く待たされたあと、看護師がわたしを呼びに来ました。
ドキドキしながら診察室に入ると、「お母さんはうつ病と思われます。ご主人を突然亡くされた喪失体験が引き金となって発症したのだと思います」と告げられました。
そして、病気の概要や治療方針、日常生活での注意点を説明されました。
うつ病とはエネルギーが枯渇した状態であり、ガソリンが切れた自動車のようなものなので、それをよくわかってあげることが重要だと言われました。
抗うつ薬による治療が必要なことや、ゆっくり休むことが必要なので、「頑張れ」とか「元気を出して」などと励ましてはいけないとも言われました。
治癒するまでに数か月から数年かかることもあるので、完治を焦らないこと、何よりもお母さんのあるがままを受け入れてあげること、と念を押されました。
わたしはメモを取りながら一つ一つ頭に叩き込みました。
そして、母を再び元気にしてあげたいと強く思いました。
でも、長い戦いに備えなければいけないとも思いました。
これからは生活費だけでなく治療費もかかるからです。
貯金と生命保険を合わせた1,200万円ほどはすぐに無くなってしまうでしょう。
家計を助けるためにアルバイトをしなければいけないと思いました。
それも、複数を掛け持ちする必要があると思いました。
放課後にできるアルバイトと土日にできるアルバイトを探さなければならないと思いました。




