♬ 女 ♬
ミモザが満開の時を迎えていた。
緑の葉を覆い尽くすように咲く黄色の小花が甘い香りを漂わせていた。
ただ、自分の感覚では例年より1週間ほど早いように感じた。
そのことをご主人に訊いてみようと思っていたが、満開の間は一度も顔を合わすことがなかった。
*
もうすぐ『ミモザの日』がやってくる。
3月8日のイタリアの記念日がミモザの日だ。
正式には『女性の日』なのだが、日頃の感謝を込めて男性が女性にミモザを贈るのが習わしになっていることから、ミモザの日と呼ばれている。
その日ミモザを贈られた女性たちは家事や育児から解放され、女性同士で食事をしたり、おしゃべりに花を咲かせて、束の間の自由を満喫するらしい。
イタリアの男性は粋なことをするものなのだなと思う。
国民性は違うが、日本でもこんな習慣があればいいのになと思う。
この花屋敷のご主人はどうだろう?
奥さんにミモザを贈って自由な1日をプレゼントするのだろうか?
もしそうなら素敵だなと思うと、満開を迎えたミモザを切って花束にして奥さんにプレゼントしているご主人の姿が思い浮かんだ。
すると、父の顔が蘇ってきた。
父が母にそのようなことをしていたことは記憶にないが、恋人同士の時や新婚の時はどうだったのだろう?
そんなことが頭に過ると、母に花束を贈って愛の歌をピアノで弾いている父の姿が浮かび上がってきた。
優しい横顔だった。
優しい眼差しだった。
そして、優しい指の動きだった。
その時、ふっと柔らかな風が頬を撫で、ミモザの香りと共にメロディを運んできた。
バーブラ・ストライサンドの『The way we were(追憶)』だった。
その歌声に耳を澄ますと美しい思い出が蘇ってきたが、それはすぐに痛みに変わった。
戻ることのない幸せな日々に唇を噛んだ。
*
なんか変だ。
ミモザの花が盛りを過ぎても手入れが為されていないのだ。
いつもなら萎れた花がらを小まめに取り除いているのに、そのままになっている。
それに、あれからご主人の姿は一度も目にしていない。
何かあったのだろうかと気になったが、といって確認することもできず、その後も花屋敷の前を通り過ぎる日が続いた。
そんなある日、花屋敷の前に立って話す2人の婦人を見かけた。
通り過ぎようとすると、沈んだ声が聞こえてきた。
「可哀そうにね……」
「まさかこんなことになるとはね……」
「あんなに元気だったのにね……」
「わからないものね、まさかこんなに早く逝くとはね……」
足が止まった。
まさか?
「新型コロナって本当に怖いわね……」
「急変したって聞いたわよ。入院する時はたいしたことなかったらしいのにね……」
もしかして……、
胸騒ぎがした。
「あの~、この家のご主人がどうかされたのですか?」
いきなり見ず知らずの女に声をかけられた2人は驚いたような顔をしたが、「お知り合いの方ですか?」と優しい声で尋ねられた。
女が頷くと、「ご愁傷さまでした。あんなにお元気だったのにね」と気の毒そうに目を伏せた。
2人の話によると、
奥様が入院していた病院で新型コロナウイルスの集団感染が起こり、奥様は陰性だったが、毎日見舞いに行っていたご主人が感染したらしい。
発熱は軽微だったようだが、咳と味覚障害が出現したため、急遽別の病院に入院して隔離されたのだという。
しかし、3日前に急変し、そのまま帰らぬ人になったということだった。
不運なことに入院先にはECMOがなく、人工呼吸器による対応しかできなかったのだという。
新型コロナウイルスには治療薬がないため、自分の免疫に頼るしかないのだが、それはご主人にとってとても孤独な戦いであり、自分の免疫だけで戦うには余りにも手強い病原菌だったに違いない。
その上、医療関係者以外接触禁止となった病室を誰も見舞うことができなかったので、病態が急変したご主人は誰にも看取られず、一人寂しく息を引き取ったらしい。
それを聞いた乳がん治療中の奥様はショックを受けて、口もきけない状態になっているのだという。
「ご葬儀はどうするのかしら?」
2人は目を合わせたが、すぐに力なく首を横に振った。
「遺体はすぐに火葬されたんだってね。家族や親族に見送られなかったばかりか、骨も拾ってもらえないなんて、本当に可哀そうよね」
遺骨は病院が預かっているらしいが、奥様に届けることもできず、関係者全員が困っているらしい。
「ご親戚の連絡先とかご存知ないですか?」
いきなり話を向けられた。
「いえ、ただの顔見知りですので」
女は手を振ってその場を辞そうとした。
「もし何かご存知でしたら……」
なおも追ってくるので、失礼のないように丁寧に頭を下げて背中を向けた。
歩き出すと、もうそれ以上は追いかけてこなかった。
ほっとした。
しかし、駅に向かって歩いているつもりが、どこを歩いているのか急にわからなくなった。
見慣れた景色なのに方向感覚がまるでないのだ。
突然、眩暈がした。
とっさに歩道に植えられた樹木に手をついて体を支えたが、足元がふわふわと揺れているような感じがして立ち続けることができなくなった。
樹木にしがみつくように体を預けて、目を瞑ってじっと耐えた。
けれども、改善する気配はまったく感じられなかった。
そればかりか、吐き気を催して胃液が上がってくる感じがした。
すぐに右手で口を押さえて身構えた。
しかし、何も出てこなかった。
嘔吐したほうが楽になるのにと思ったが、体の反応は何故か治まっていった。
ふわふわ感が消え、眩暈もなくなった。
ところが、心がどうにかなっていた。
自分の中にないのだ。
ぽっかり穴が空いていた。
あの時のように、父を亡くした時のように、ぽっかりと、本当にぽっかりと空いていた。
お父さん……、
心の中で呼びかけると、父の顔にご主人の笑顔が重なった。
女は唇を噛んだ。
もっと早く声をかけておけばよかった、
もっとお話しをしておけばよかった、
そうしたら娘のようになれたかもしれないのに、
父親のようになってくれたかもしれないのに、
でも、ほんの少ししか言葉を交わせなかった、
ほんの少し話しただけで自分の前からいなくなってしまった、
ミモザの花と一緒に消えてしまった、
どうして?
目の前の樹木は何も言わなかったが、僅かに葉が揺れたと思ったら、ご主人の寂しそうな声を運んできた。
「花は枯れても毎年咲くけど、人は死んだら生き返らないんですよ」