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♪ 男 ♪

 

 テレビ局主催の広告賞授賞式が始まった。


 その賞は、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、webに掲載された広告の中から今年一番話題を集めた広告に大賞を与えるものだった。


 厳正な審査の結果という前置きがあったが、事前の予想通り、大手電機メーカーが大賞を受賞し、社長が晴れやかな表情を浮かべて原稿を読み上げた。


 その後、トロフィーの授与になり、司会の女性アナウンサーがプレゼンターの名前を呼んだ。

 すると、今話題の若手女優が舞台の袖から自らのスタイルを見せつけるかのような超ミニスカート姿で現れた。

 その瞬間、フラッシュの嵐が彼女を襲い、一気に華やかなムードになった。女優はそれを楽しむかのように笑顔を振りまいた。


 女優からトロフィーを手渡されると、社長の鼻の下が数ミリ伸びたように見えた。

 握手をすると、目尻が下がった。

 女優がお祝いのスピーチを始めると、満面に笑みが浮かんだ。

 視線は女優の顔と足を行ったり来たりしているように見えた。


 女優のスピーチが終わると、司会者が社長を促し、横に立たせた。

 するとそれが合図でもあるかのように、またフラッシュの嵐が襲った。

 大きな拍手が続く中、社長と女優が舞台から消えた。


        *


 懇親会が始まると、主催者の挨拶が終わるや否や、出席者が一斉に料理ブースに殺到した。


 1番人気は寿司だった。

 2番人気はローストビーフで、

 3番人気は伊勢海老の鉄板焼きだった。


 どれも男の好きなものだったが、長い列に並んでまで食べたいとは思わなかった。

 比較的人の少ないコーナーへ行って、『鴨とフォアグラのテリーヌ』を手に取った。

 悪くなかった。一流ホテルだけあって、味は中々のものだった。


 食べ終わって皿をテーブルに置いていると、体の線を強調した紺色のチャイナドレスを着たホステスが飲み物を運んできた。

 左手に白ワイン、右手に赤ワインを持っていた。

 セクシーな胸元が気になったが、そんな素振りを見せないようにさり気なく赤ワインを取り、口に運んだ。

 ……渋かった。

 まだ若い安物のワインだった。


 ケチるなよ!


 心の中で毒づいた。

 それでも気が済まなかったので、テーブルにグラスを置いてもう一度毒づいたあと、知っている人を探すように辺りを見回した。

 しかし、ごった返した会場の中で見つけ出すのは容易ではなかった。

 というより、自分が知っている人も、自分を知っている人も、この会場にはほとんどいないのだ。

 業界の隅の隅でうろついている男が誰かに注目されることはあり得ないことだった。

 無駄な努力を止めて、宴会場の出口へと向かった。

 それでも、ひょっとしてと思って扉の手前で振り向いたが、誰の視線も感じることはなかった。


        *


 宴会場を出ると、白いクロスがかけられた長テーブルの上に小さな紙袋が多数置かれていた。

 退場する人に渡すお土産だ。

 にこやかに笑みを浮かべるホステスが紙袋を差し出したので、軽く頷いて受け取り、下りのエスカレーターに乗った。


 紙袋の中を覗くと、去年と同じくらいの大きさの土産品が目に入った。

 シュークリーナーセットに違いないと思うと、またムカついてきた。


 同じものを2年続けるなよ! 


 心の中で再度毒づいた。


 家に同じものが2つあっても仕方ないだろう! 

 もっと気を利かせろ! 


 4度目に毒づいた時、1階に着いた。


        *


 ホテルの出口に向かって歩いていると、何処からか大好きなメロディが耳に飛び込んできた。

『YOUR SONG』

 エルトン・ジョンの名曲。

 足を止めると、ピアノを弾く女性の後姿が見えた。

 白地に青い花柄が散りばめられたワンピースが何故か哀しげで、青い花が萎れているように見えた。


 少しして、演奏が終わった。

 しかし、拍手は返ってこなかった。

 ラウンジには何人か座っていたが、誰も聴いていないようだった。


 とても素敵なラヴソングなのに、

 そして、とっても素敵な演奏だったのに……、


 男は信じられない思いでラウンジを見つめた。


 すると、次の曲が始まった。

『GEORGIA ON MY MIND』

 レイ・チャールズが歌って大ヒットした曲だ。

 甘く切ないピアノの音が郷愁を呼び起こさせる。

 東京生まれの男に故郷と呼べるものはなかったが、目を瞑ると、景色の代わりにあの人の笑顔が浮かび上がってきた。もう何年も会っていないあの人の笑顔が。


 思い出が消えるように演奏が終わった。

 しかし、また反応はなかった。

 誰も拍手をしなかった。


 こんなに素敵な演奏なのに……、


 でも、いや、だからこそ青い花が萎れているように見えたのだろうと男は思った。

 聴いている人が誰もいないラウンジでただピアノを弾くだけの仕事に拍手という名の水が撒かれることはなかったのだ。


 そうだったんだ……、


 男はピアニストの後姿に向かって心の中で拍手をしながら、そのホテルをあとにした。


        *


 1年後、男は昨年と同じホテルで行われたテレビ局主催の広告賞授賞式に参加していた。

 まったく同じ日だった。

 そして、大賞は予想通り大手電機メーカーだった。

 社長のスピーチは去年とほとんど同じだった。

 出来レース。

 広告の内容ではなく、出稿量で大賞が決まっているのは明らかだった。

 少なくとも男にはそう思えた。


 懇親会が始まった。

 乾杯の挨拶が始まると、すぐに料理ブースに並んだ。

 今日は寿司とローストビーフと伊勢海老を食べなければやっていられない。

 出来レースに1時間も付き合ったのだから、そのくらいは当然だ。

 でも、赤ワインは取らなかった。

 スーパーで500円くらいで売っているようなものを有難くいただくわけにはいかない。

 ウイスキーの水割りで喉を潤して、料理をがっついた。


 食べ終わったらもう用はないので、さっさと懇親会場を抜け出した。

 すると、昨年と同様にチャイナドレスのホステスが紙袋を渡してきた。

 受け取って中を覗くと、昨年より小さな包みだった。

 でも、それでほっとした。

 3年連続シュークリーナーセットではたまらない。


 1階でエスカレーターを降りて、急ぎ足で出口へ向かうと、大好きなメロディが聞こえてきた。

『YOUR SONG』

 ハッとして立ち止まると、カフェラウンジが、そして、ピアニストの後姿が見えた。

 その瞬間、1年前のシーンが蘇った。

 あの時のピアニストに違いないと思った。

 同じような花柄のワンピースで、同じように花が萎れていた。


 次の曲が始まった。

『GEORGIA ON MY MIND』

 1年前とまったく同じように甘く切ないピアノの音が胸に迫ってきた。

 でも、演奏が終わっても客席からはなんの反応もなかった。

 男はその状況を受け入れることができなかった。彼女の後姿に向かって大きな音を立てて拍手を送った。

 すると驚いたように長い髪が揺れ、ぎこちない動きで振り向いた彼女の目は大きく見開いていた。

 男が親指を立てて笑みを贈ると、はにかむような笑みが返ってきた。

 そして声を出さずに「ありがとうございます」と口を動かして、ピアノに向き直り、すぐに次の曲を弾き始めた。

 ビージーズの『愛はきらめきの中に』だった。

 哀しそうな後姿は消え、軽快なリズムに乗ってメロディが踊った。

 ピアニストの後姿は喜びに変わっていた。


 良かった……、


 男は安堵して、静かにその場を離れた。

 そして、ホテルの出口を抜けて、早足に駅へと向かった。


        *


 5分後に駅前の交差点に辿り着いた。

 信号が変わろうとしていたので急いで渡ろうとしたが、何故か足が止まった。

「しかし」という声が体の内から聞こえたからだ。

 するとピアニストの後姿が浮かんできたが、その姿は哀しいものに変わっていた。

 曲を弾き終わって後ろを振り返っても拍手する人がいないからだろう。

 彼女は溜息をついているに違いない。

 そう思うと、切なくなった。

 目の前の信号が緑に変わっても、足は動かなかった。

 大勢の人が渡る姿をただボーっと見つめていた。

 すると、どこからかメロディが流れてきたような気がした。

 物哀しい曲だった。

『HOW CAN YOU MEND A BROKEN HEART』

『傷心の日々』という邦題を思い出すと、更に切なくなった。


        *


 最寄り駅で降りて10分ほど歩くと、マンションが見えてきた。

 でも、目指す部屋に明かりはついていなかった。

 当然だ。

 独り身の男を待っている人はいない。

 そして、殺風景な部屋に温かさは微塵もなかった。


 2LDKの部屋にあるのは、台所用品や水回り関連製品を除くと、セミダブルベッドとソファとローテーブルと本棚、そして、テレビとステレオと一体型CDコンポとノート型パソコンだけだった。


 リビングの明かりを点けて、エアコンの暖房をONにして、テーブルの上に紙袋を置いた。

 広告賞授賞式の手土産が入っている紙袋だ。

 中から小さな包みを取り出して包装紙を剥がすと、ソムリエナイフ型のワインオープナーがお出ましになった。

 柄の部分が木製になっているちょっと高級そうなものだった。

 但し、テレビ局のネームが印刷されていた。


 センスないなあ、


 男が毒づくと、ソムリエナイフは無言で顔をしかめた。

 自分のせいじゃないというように。


 小腹が空いたので冷蔵庫の扉を開けたが、目ぼしいものは何もなかった。


 途中で何か買ってこいよ! 


 今度は自分に毒づいた。

 すると突然思い出した。昨日の残りがあることを。コンロの上に置きっぱなしの鍋にビーフシチューが残っていたはずだ。

 蓋を開けると、牛肉の塊と崩れかけたジャガイモがそれぞれ3個、そして、ニンジンが2個残っていた。


 焦がさないように弱火で温めて、スープ皿に(よそ)い、缶ビールを取るために冷蔵庫を開けた。

 その時、野菜室に赤ワインを冷やしていたことを思い出した。

 ビーフシチューの皿の右横に缶ビールを、左横にワインボトルを置いて、どっちにするか悩んでいると、リビングから声が聞こえたような気がした。


 ビーフシチューには赤ワインでしょ! 


 声の主はソムリエナイフに違いなかった。


 わかったよ。


 男は缶ビールを冷蔵庫に戻してから、赤ワインと皿を持ってリビングのテーブルに運んだ。

 そして、食器棚からスプーンとワイングラスを取り出し、両方を皿の左側に置いた。

 そう、男は左利きなのだ。

 鉛筆と箸は小学校に上がる時に無理矢理右手に変えられたが、それ以外は変えられることに抵抗して、すべて左で押し通している。


 ソムリエナイフのナイフ部分でボトルの口を覆っているキャップシールに切れ目を入れて1回転くるりと回し、キャップシールを切り取った。

 そして、コルクに対してスクリュー部分を垂直に差し込み、コルクの底を突き破らないように直前で止めて、テコの力を応用してゆっくりと引き上げた。


 きれいに抜けた。

 その瞬間、拍手が聞こえたような気がした。

 見事! という声も聞こえたような気がした。

 ソムリエナイフが親指を立てているように見えた。


 コルクからソムリエナイフを抜き、丁寧に折り畳んだ。

 そして、ありがとうと告げて、そっとテーブルに置き、ボトルの口の部分をティッシュで軽く拭き取って、香りを鼻に通した。

 すると、熟成香が嗅覚にお辞儀をし、嗅覚はボウ・アンド・スクレイプ(貴族風のお辞儀)で応えた。


 暫し余韻を楽しんでから、グラスの縁に沿ってゆっくりと静かに注ぎ込み、下から三分の一を満たしたところで注ぐのを止め、ワインボトルに酸化防止栓を付けたあと、ワイングラスに左手を添えた。

 適度なスピードでグラスを回すと、何年もボトルに閉じ込められていたワインが空気と触れ合っていく。

 すると、蕾が開くように香りが立ち、固く閉じていた味がこなれていく。

 スワリングを終えてグラスをそっと鼻に近づけると、チョコレートのような、黒コショウのような香りが鼻を抜けていった。

 男の大好きなシラー独特の香りだ。

 ひと口含むと、濃厚な味わいが口の中に広がった。

 流石にローヌ地方のシラーは違う。

 それでも、冷蔵庫から出したばかりなので、まだ十分に花開いていない。

 少し時間をおいて温度を上げた方が良さそうだ。


 グラスをテーブルに置き、スプーンを左手に持った。

 ビーフシチューをすくって口に運ぶと、思わず声が出た。


 うまい! 


 1日置いたせいで、味が濃厚かつ(・・)まろやかになり、旨味が増している。

 それに、牛肉の塊がホロッと解けて、噛まなくても溶けていく。

 すると、ワイングラスにせっつかれた。


 今だ、早く合わせろ! 


 一刻の猶予もないといったせっつき方だった。


 わかった、わかった。


 ワイングラスをなだめながらスプーンを置いて、左手を伸ばし、さっとスワリングをして、ひと口含んだ。


 ん~、合う! 

 最高のマリアージュ! 

 口福、至福、

 も~たまらん。


 思わず目を瞑って、暫し余韻に浸った。


 それからまたビーフシチューに戻り、平らげてしまうと、赤ワインはボトル半分になっていた。


 どうする? 


 ボトルに問いかけた。

 ボトルは何も言わなかったが、ワイングラスに(そそのか)された。


 飲んじゃえよ。


 そうだな、そうしよう。

 でも、ツマミがないな……、


 冷蔵庫にはチーズも何もなかった。

 どうしようかと思い悩んでいると、本棚から声が聞こえてきたような気がした。


 音楽を肴にして飲んだらいいんだよ。


 CDが唆しているようだった。


 なるほど、それもいいな。


 本棚のガラス扉を開けて、どのCDにするか物色した。

 すると、勢いよく手を上げるCDがいた。私を選びなさいというように。

 それはビリー・ジョエルの2枚組ベストアルバムだった。

 手に取って裏面を見た途端、最初の曲に目が止まった。

『Piano Man』

 彼のデビュー曲だった。


 CDをセットして再生ボタンを押した。

 ピアノのイントロに導かれてハーモニカの演奏が始まると、彼のハスキーヴォイスが静かに、そして、次第に力強く迫ってきた。

 男はリズムに乗って体を揺らした。

 歌声に酔いしれた。

 でも、それがいつまでも続くことはなかった。

 エンディングが訪れ、ピアノの音が静かに消えていった。

 それでも心は満ち足りていた。


 Piano Manに乾杯! 


 グラスを掲げると、シラーが舌を、喉を、心を満たしていった。


 初期のヒット曲が続いたあと、6曲目が始まった。

 男の大好きな曲、『The Stranger』だった。

 クリスタルのようなピアノのイントロに導かれて寂しげな口笛がメロディを奏でると、ふっとピアニストの姿が浮かんできた。哀しそうにピアノを弾いていた後姿が。



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