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好日録  作者: たま
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春のあゆみ




寒いのが嫌いである。

凩が吹く頃になると、俺は不要不急の外出を一切控えるようになる。秋の終わり頃、同じ学科の友人から飲み会に誘われて寒いから行かないと断ったとき、「ああ、もうお前が飲み会に来なくなるような季節なんだな」と、冬の風物詩のような扱いをされた。

暑いのは我慢が効くが、寒いのはどうしても駄目だ。だから俺は冬が来るとひたすらに炬燵の中へ立て篭り、春の訪れを待つことにしている。


そうして首を長くしていたある日、携帯電話が鳴った。



「おい、今度ゼミのみんなで花見をやるんだが、おまえも来るだろ?」



電話は、学科の飲み会やらなんやらをよく企画させられている友人からだった。しっかり者で、頼られると断れないのだという。いい奴なのである。

俺は炬燵の中に鼻まで埋まりながら、つい独り、歓声を上げた。



「ということは、桜が咲いたんだな?やっと春が来たのか。待ちくたびれた」

「お前は本当に冬になると出不精だな。春なら暦の上ではずいぶん前に来ただろうに」

「暦の上では、では意味がない。実際にはその頃からが一番寒さ厳しくなるんだぞ。恐ろしい名前詐欺だ。しかしそんなことはいい、春が来たんだからな」



俺の身体が「春」と認識する気温はどうやら桜のそれと同じであるらしく、毎年そろそろ外に出てもいいかな、と俺が判断できる時期は、桜の開花と重なる。俺にとって春とはイコール桜の開花なのである。

浮かれる俺に、相手は、そう言えばおまえはあまりテレビを見ないんだったな、と言う。



「水を差すようで悪いが、桜はまだ咲いていないぞ」

「なんだと、どういうことだ」

「予定ではもう咲いているはずだったんだが、桜前線がまだ南の方で停滞しているそうだ。俺は気象には詳しくないから理由はよくはわからん。だが今を逃すとゼミのみんなが忙しくなって見られないと言うから、こっちから桜の咲いているところに行くことにしたんだ」



というわけでここに行くぞと、ここから高速を使って車で3時間ほど南に行ったところにある街の名を告げられる。俺はげんなりする。馬鹿げた話である。こいつは一体何年俺の友人をしているんだ。たとえ車での移動であろうと、寒い限り、不要不急の外出はもってのほかである。

丁重に不参加の意を伝え、渋る人の好い友人にも構わず、俺は電話を切ってやった。春はまだあと少し、遠くにあるらしい。俺は深く炬燵に潜った。







それから数日後の夕方、夕飯を作っていると、呼び鈴が鳴った。

ちなみに今夜は鍋である。葱に斜めに包丁を入れていた手を止め、インターホンのモニタを確認するが、そこには誰もいない玄関前が映し出されているだけであった。いたずらかと首を傾げつつ、再びまな板に向かうと、また鳴る。しかし、やはり誰の姿も映っていない。薄気味悪い。

手近にあった消臭スプレーを片手に――なおこの消臭スプレーは、お化け退治に効果があるらしいと以前友人に聞いたことがあるので持っていくのだが、真偽は定かではない。気休めのお守りである――チェーンをかけ、そっと玄関を開ける。そこにはやはり誰もいない、ように見えたのだが、よく見たらいた。俺の腿ほどしかない小さな背丈の幼児が、そこに立っていた。

ぽかんと口を開けている俺を、幼児は丸い目でじっと見上げている。幼いながら利発そうな顔立ちだ。こんなに暗い時間に、たった一人で見知らぬ他人の家の前に立っているというのに、物怖じする気配すら見せない凛とした佇まいをしている。その様は、まるでここにいることが自然なことであるかのように感じさせた。



「…どうしたんだ。こんなところで」



なんとかそう言葉を絞り出すと、幼児は瞬きすらせず、「伝言を頼みに来たのだ」とやけに落ち着いた話し方で答えた。



「伝言?誰に」

「ぬしの友人に、古川というのがいるだろう」



俺は驚く。まさかこんな幼児の口から古川の名が出るとは思わなかった。

幼児は実に落ち着いた様子で、淡々と次のようなことを言った。



「それに頼まれて、しばし歩みを休めておったのだ。しかし、もはや限界。私は行かねばならぬ。頼みを果たせたのかはわからんが、もう行くぞ、と伝えて欲しい」



なにやら古川が迷惑をかけたらしい。話は掴めないが、なんだか申し訳ない。

しかしここしばらくのところ古川には会っていないし、夢の中でたまに会うあれも、俺から望んで会っているわけではないから、望めば会えるのかどうか確証が持てない。わかったと安請け合いすることもできず、しかし申し訳なさからもごもごと言い淀んでいると、幼児がふいに目を動かした。黒々とした瞳が、俺の背後、部屋の中を窺う。

それで俺は思い出した。そういえば、鍋を作っていたのである。



「よければ、鍋を食べていかないか。古川が迷惑をかけた礼に、あまり良いものでもないが、ご馳走しよう」

「……いいのか」



もちろんだと頷けば、ではありがたくいただこう、と幼児は頭を下げた。実に躾の行き届いた幼児である。

幼児と二人、炬燵に入って鍋を食った。スーパーで物珍しさから買ったトマト鍋というものである。幼児はほとんど表情も変えずに黙々と食い、その小さな体のどこに入ったのかと思うほどの量を腹におさめると、また礼を言って去っていった。


鍋の後始末をしているとき、幼児が腰を下ろした座布団に花弁が二枚ほど落ちているのを見つけた。その小さな、主張の弱いうす桃色は、日本人ならば見間違えようがない。

そういえば、この間電話したあの友人は言っていた。桜前線の北上する速度は、幼児の歩くそれに等しいのだ、と。







幼児と鍋を食った翌日、あの人の好い友人からまた電話が来た。



「花見は行かない」

「おまえは本当につれない奴だな。安心しろ、前誘った花見なら一昨日みんなで行ってきたところだ。今日は誘いではなくて朗報だ。喜べ。おまえの言うところの春が来たぞ」



そういうわけで俺は、古川のアパートから少し歩いたところにある公園で花見をしている。

そこは、住宅地を切り取っていって余った土地を無理に公園にしたような狭いところで、遊具も錆びかけたすべり台がひとつ寂しげにあるだけだが、一本だけ桜が植わっているのだ。去年の春、この時期に散歩をしていて偶然見つけたのである。幹も太く、枝ぶりもなかなかで、この公園が出来る前からここに立っていたのではないだろうか、と俺は思っている。

たくさんの腕を思い切り空に伸ばした桜が、ささやかな桃色を、青空いっぱいに咲かせている。俺の他には誰もいない。俺はベンチに座ってただそれを見上げ、穏やかに時を過ごしている。



「いい天気だな」



ふと話しかけられて、見れば、傍らに黒猫が丸まっていた。いつからいたのか、全く気がつかなかった。辺りを見回すが誰もいないので、空耳でなければ、この猫であろう。

撫でてやると、大人しくそれを受け入れているのが愛らしい。



「おまえの友人は、狭量でいけないな」



また声がした。先ほどと同じ、老爺のような口調だ。俺は、そうですね、と答えた。

あの幼児は、指の短い小さな手にお椀を持ち、器用に箸を使って鍋を食べつつ、言っていた。なぜ古川が、あの幼児の歩みを引き止めたのか。「ぬしが他の友人と花見に興ずるのを阻みたいとか申しておった」と。それを阻んでどうしたいのか俺にはさっぱりわからないが、そもそも古川の考えていることなど昔からほとんどわからなかったし、まあ、結局花見はできたからいいだろう。



「よしとしますよ。おかげでなにやら、珍しい方と鍋を突つけたらしいのです」



そうか、と心持ち嬉しそうな声が返事をくれた。手のひらに感じる毛並みは艶やかで暖かい。

日差しも暖かく、空には桜。俺は幼児が運んできてくれた春を、心ゆくまで堪能するのであった。



おわり

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