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好日録  作者: たま
3/4

思いは目には見えぬもの

長いです




週に二度、アルバイトをしている。山原さん家の家庭教師と、我孫子さん家の家庭教師だ。

毎週水曜は、我孫子さんの家へ行く日だ。俺が教えているのは、三男の葉月くんの数学である。俺は文系だから理数系はまったく苦手の範囲だが、まだ中学生であれば話は別だ。幸い葉月くんも向学心があり、徐々にではあるが成績を伸ばしていってくれている。

今回も、定期考査で、前回より順位が上がったのだそうだ。



「そうかぁ、よかったね」

「うん、先生のおかげかもしんないから、ありがとうね!」



葉月くんは中学生らしくちょっと生意気で、そこが可愛らしいと思う。

さて、成績が上がると、俺にも褒美がある。夕食に連れていってもらえるのだ。まあファミレスではあるが、食わせてもらえるだけありがたい。家庭教師の時間を終えた後で、初老に差し掛かる奥さんと、葉月くんと、次男の睦月くんとともに、近くのファミレスまで歩いていくことになった。

先に支度を終えた俺が玄関先に出ていると、庭で、何かの影が動くのを見た。暗くてよく見えないが、その目だけは光を反射して黄色く光っている。大きさは一抱えほど。犬だろうか。ここの家に来るようになって一年だが、ペットがいることはついぞ知らなかった。

動物は好きである。寄って来るかと思い、しゃがんで声をかけてみる。が、じっとこちらの様子をうかがっているように動かない。



「何してんですか」



そこへ、睦月くんが出て来た。葉月くんをそのまま縦に引き伸ばしたように似ている睦月くんは、今年高校に入ってからというもの、俺に敬語を使うようになった。そして、俺に対してぶっきらぼうになったように感じる。奥さんによると、彼は部活が忙しく、いつも帰宅は8時過ぎになってしまうのだそうだ。だから今日会うのは、ずいぶん久しぶりのことだった。



「やあ、睦月くんも今日は一緒なんだってね。部活は今日は無いの?」

「…具合悪いんで、帰ってきました」

「え、」

「いまは平気です」



すると睦月くんは、スマホを取り出し、何かいじり始めてしまった。どうやら会話を拒まれたようだ。俺も所在なくあたりを見回しながら、残りの家族を待つことにした。


食事を終え、今後もこの習慣が続くようにと懇切丁寧に礼を述べ、帰宅した。久方ぶりに美味い食事で腹が満たされ、幸せな気分である。

布団に入って瞼を下ろしたあと、俺はふと、庭にいた犬らしきもののことを思い出した。

あの犬は、いつもあのように庭にいたのだろうか。そうだとして、なぜ俺はこれまで気づかなかったのだろう。それとも、この間の家庭教師の日から今日までの間に、新たに我孫子家の一員に迎えられたのだろうか。

次に我孫子さんの家に行ったときに聞いてみよう、と俺は思った。







翌週の家庭教師の日は、雨が降っていた。一足ごとに爪先からじわじわと雨水が滲んでくるのを耐え忍びながら、我孫子さんのお宅に向かう。

呼び鈴を押して待つ間、そういえばと件のペットのことを思い出した。今時分ならまだ明るいので、姿形が見えるはずである。

庭の方に首を伸ばすと、そこには奥さんが手塩にかけて育てた植物がこじんまりと並び、雨粒を受けて雫を撥ね散らしているところであった。しかし、それだけである。犬はおろか、犬小屋も見えない。もっとよく見ようとしたところで、葉月くんが玄関を開けにきてくれたため、それ以上は見られなかった。


家庭教師の時間は2時間と決まっていて、場合に応じて休憩を入れる。その休憩のときに、いっそ葉月くんに聞いてしまうことにした。煎餅をばりばり食いながら今日学校で友達とあった面白い話をする葉月くんを一寸遮り、聞いてみる。



「我孫子さんちはさ、ペット飼ってるの?」

「ペット?んー…あ、飼ってるよ!」

「そうだったんだ。俺、こないだまで知らなかったんだよね。こないだ初めて見て、びっくりしたよ」

「うんとね、アーサーって言うの」

「アーサーか。強そう」

「うん、すごく長生きしてるもん」

「今日はいなかったよね?どこにいるの?」

「いなかった?ううん、いるよー!帰りまた見てみて!」



先ほどもいたらしい。そうなのか、と俺は頷き、帰りにまた見てみることにした。

帰りしな、ちょうど帰宅した睦月くんと出くわした。こんばんは、と挨拶され、こんばんは、と答える。その後睦月くんは何か言いそうな風に口を動かしかけたが、結局何も言わず、居間の方へ歩いて行った。

外に出て、庭を見る。雨はまだ降り続いていて視界は悪かったが、今度は、庭の端にあの黄色い目をみつけることができた。やはり、こちらを見ているようだ。ちっちっと舌を鳴らして呼んでみるが、こちらへ来ることはなかった。






その夜、夢を見た。いつぞやの黒猫の件以来の、古川の夢だった。

古川はひどく不満げな顔をしていた。夢に出る古川はいつも俺に文句のありげな顔をしているなと俺は思う。そして、どうやらここはまた芝生の上のようだ。というのは、やはり古川が芝をむしっているからわかったのだが。



「なんだその顔は」

「お前は、人をたらしこまないと生きていけないのか。なんだあのガキは」

「ガキ…」

「お前のバイト先の高校生だ」

「ああ、睦月くんか。たらしこんでなんかないぞ、むしろ最近冷たくされているんだ。あまり口を聞いてくれないんだ」



ちっと舌打ちされた。

俺の覚えている限り古川は、いつも飄々としていて、なぜかたまに俺に物をくれる男だった。文房具、菓子、旅行先の土産、最近では葉書か。高校の頃からそうだった。こんなに苛立っているところは、夢の中でしか見たことがない。俺は、もしやこいつは古川ではないのかもしれないぞ、と思う。

と考えたところで、そういえばこいつは今、行方をくらませているのだったなと思い出した。



「好意の表し方は人に寄るだろうが。むしろあれくらいのガキなら、真っ直ぐに好意を表せる奴の方が少ないだろう」

「なあ古川、おまえはいまどこにいるんだ」

「…俺の話を聞いているのかおまえは」

「いや、その、悪い」



古川は、はあとため息をついた。その仕草で、俺は、こいつは古川だと確信した。高校生の時分から、俺が変なタイミングで話したり間の抜けたことを言ったりすると、よくこんな風にため息をつかれたものだ。



「いずれ戻るさ、おまえの元へな」

「そうか。ならいいんだ」

「ああそうだ、それからおまえ。あのガキの想いが見えているようだが、話しかけるのはやめておけ。どうなるかわからんから」

「想い?」

「源氏物語でもあったろう。人の想いというものは、募ると実体化することがあるのだ。しかしそれは本人の胸中を離れた以上、もはや元の想いとは異なるもの。触れずにおくのが得策だろうな」



生返事を返しながら、俺はやはり、こいつは何を言っているんだろうと思った。







翌週はまたしても雨であった。また雨道を歩まねばならぬのかと朝から憂鬱であったが、昼頃に奥さんから、今日は来なくて結構だと電話が入った。おかげで、午後は気楽に過ごすことができた。急に空いた時間を使い、図書館にこもって明日片付ける筈だった課題のレポートを済ませることもできた。好い日である。


外に出ると雨は上がっていた。水溜りを避けながら家路に就く。

ふと30メートルほど先の角に、何か動物のいるのに気付いた。どうやらこちらを見ているようである。大きさからして、猫か狸か。闇にきらめく黄色い目には、どこかで見たような覚えがあった。

あと少しでその正体が掴めるか、というときに、それは曲がり角の向こうに引っ込んでしまった。そして、その代わりにとでもいうように、向こうから人影が現れる。それが見知った人間であったので、俺は声を掛けた。



「睦月くん、こんばんは」



そう声を掛けると睦月くんは、暗い中でもよくわかるほどひどく驚いた様子でこちらに振り向いた。無理もない。俺も、今日ここで会うとは思ってもみなかった。

一寸間を置いて、こんばんは、と返ってきた。



「偶然だね。このあたりは、俺の大学の近くなんだよ」

「…知ってます。兄ちゃんも、同じですから」



睦月くんの兄、皐月さんは、俺と同じ学科の先輩である。俺がいま我孫子さんの家でアルバイトをしているのも、皐月さんから紹介してもらったからだ。うちの大学は我孫子さんの家からもそう遠くないし、睦月くんが場所を正確に把握しているのも道理であった。

と考えたところで、そうかと思い出す。先ほどの動物の黄色い目は、あれは我孫子さん家の庭で見たのと同じなのであった。たしか葉月くんによれば、アーサーとかいう。

睦月くんは特に急いでいる風でもなく、俺と立ち話を続けている。俺は彼にもあのペットについて聞いてみようと思い立ったが、そのとき睦月くんが、思い切ったように、あの、と言ったので俺は口を噤んだ。



「俺も、やっていいですか。…家庭教師」

「うん?高校生は、時間的にまだ難しいんじゃないかな」

「や、教えるほうじゃなくて、あの、俺も先生に、教わりたいってこと…です」



我孫子さん家のご家族は、皆俺のことを先生と呼ぶ。初めこそ恥ずかしかったが、今では慣れた。

しかし、意外な申し出である。俺は瞠目してしまった。



「睦月くん、勉強不安なの?」

「いや、…はい」

「そうなんだ。えっと、教科にもよるけど、俺は構わないよ」

「あ、はい、そう、ですか」



俺はすっかり気分をよくした。最近あまり口を聞いてくれなくなっていた睦月くんが、そんなことを考えていようとは思わなかったからだ。俺には年下の兄弟がいないから、睦月くんも葉月くんも弟のように可愛く思っている。実は、彼の態度には結構こたえていたのである。

親の承諾を得るようにといった話をして、俺たちは別れた。ペットの話をし忘れたな、と思ったのは家に着いた頃であった。




その夜の夢には、また古川が出たように思う。しかし、その内容は、朝起きたらすっかりと俺の頭から消え去ってしまっていた。







ある日、大学の構内で、あの黄色い目の獣を見た。講義を終えて出てきて、入り口近くにある自転車置き場の横を通りがかったとき、その隅にいるのを見つけたのである。我孫子さんのところにいるのとこないだ街中で見たのと、大きさもまるで同じで、やはりうずくまってこちらを見ていた。まさかと思い近づこうとすると、す、と逃げて行ってしまった。

それ以来やたらにそれと遭遇するようになった。スーパーからの帰り道、散歩して通りかかった公園、そこらの木陰など、一日に一度は見る。なんとも絶妙な距離感で、決して風体をはっきりと掴むことはできない。俺は、あれはなんなのだろう、と思うようになった。よく考えると、こんなにも正体がつかめないというのも不可思議である。何かの獣が異常繁殖しているのだろうかとも思ったが、ニュースにも出ないし、大学の友人たちもそんな話はしていない。とすると、何か一匹の獣が、俺につきまとっているということになるが、そんなことがあり得るだろうか。



そのような中、俺は我孫子さんのお宅に向かった。いつも行っている曜日ではない。新しく面倒を見ることになった、睦月くんの家庭教師をしに行ったのである。睦月くんは、今後この曜日は部活を休むことにしたのだそうで、なんだか恐縮してしまった。

一言で言えば、睦月くんは利発であった。中学までの基礎事項は身に付いているようだし、一度教えればすぐに理解する。どうにも家庭教師が必要な様子には思われない。ともすると、わざわざ誤って無理に教えを請おうとしているような節すら見受けられ、俺は大いに困惑した。なんだか最近、よくわからないことばかりである。


帰り際、睦月くんは俺を玄関まで送ってくれた。葉月くんには無い習慣であり、また戸惑う。

先生、ありがとうございましたと言われ、じゃあまた来週ね、と返すと、なぜだか手を差し出されたので、握手をした。睦月くんは俺の顔を頑ななまでに見ようとしないが、握った手を真剣に見つめている様子であった。手は温かった。

外に出て、庭を見やると、やはりあの黄色い目があり、やはりこちらを見ている。近づけば離れていくのは知っている。俺は奴としばらく睨み合いをしたあと、なあ、と声を掛けた。



「おまえは、なんなんだ」



むろん、返事は無いのだった。







夜半、なぜだか目が覚めた。俺は豆球も点けずに真暗にして寝る質だから、目を開ければそこには暗い天井が待っているはずだった。だが、その予想は裏切られた。そこにあったのは、一対の黄色い目だったのである。

はじめ俺は寝ぼけているのかと思った。しかしそのわりには、胸全体が心臓になったかのような激しい動悸の感じがやにリアルである。何度瞬きしても、そこには目があり続けた。そのうえ目には身体もあった。目があるからには胴体手足があるのが道理であるが、それはあの獣ではなかった。人である。人が、俺の上に覆いかぶさっているのだった。俺は、この事態に相当に肝を潰していたが、何よりこの暗闇の中目だけが光っているのをとにかく恐ろしく思った。

わけもわからぬまま呼気を震わせしばらくじっとしているうち、俺はなんとなく雰囲気で感じ取った。これはどうやら人ではない。そしてどうやら悪意あるものでもない、と。



「先生」



俺の恐怖心が少し和らいだのを見てとったからとでも言うように、そのとき、その人のようなものが口を開いた。男の声であった。先生。それは俺のことだろうか。だが俺は学生であり、己を先生だとは思わないので、返事はできない。

焦れたようにもう一度、先生、と言われた。仕方なく、何だと答えてやる。するとそれは声の調子を明らかに嬉しそうなものに変えて、さらに何度か、先生、先生、と繰り返した。その度に返事をしてやった。



「先生、すき」

「何が」

「先生」

「何だ」

「すき」



埒が明かない。そいつは、それしか言葉を知らないかのように、先生、と、すき、しか言わなかった。そんな問答をしばらくしていたら、あるとき急激に眠くなった。このような怪奇現象に見舞われながらにしてまったく不可解なことではあるが、俺はそのまま、また眠りに就てしまった。




そして、もはや慣れ親しんだ類の奇怪な夢を見た。



「だから話しかけるのはやめろと言っただろうが。人の話もまともに聞けんのか」



そこは草原で、足首まで程の高さの草が、四方八方見える範囲一円に広がっていた。俺はそこに座り込んでいる。

側に古川が立っているのだが、その古川がどういうわけか睦月くんの首を小脇に抱えるようにして、その身体を取り押さえていた。睦月くんは拘束から逃れようとしているのか、バタバタともがいているようだ。俺にはそれがいかにも哀れに見え、助けてやりたくなった。



「古川、その子は俺の教え子なんだ。何やら悪さをしたのなら代わって俺が謝ろう。離してやってくれないか」

「おまえは……いいか、これはあのガキではない。前にも言ったろう、これはあのガキの想いが見えるものとなって現れたものだ。強すぎる想いは時に形を持つ。これはただの想いの塊だ。おまえが話しかけたから好い気になってこんなにでかくなったのだ。四六時中尾けまわされた挙句に家にまで入り込まれて、あと少しでどうなっていたものやらわからんぞ」



四六時中尾けまわされて、と言われて俺の思い浮かべたものはあの不可思議な生き物である。あの黄色い目の。とすると、あれが、想いの形になったものということか。そしてそれが、いまこのように睦月くんそっくりの形をとっているというのか。そのようなことがあり得るだろうか。



「信じていないようだな。ほら見てみろ、これの目を」



空いた手で古川がそれの顔を上向けると、そこには睦月くんの顔に、黄色い目がはまっていた。うわあ、と俺は声を上げてしまった。

それは睦月くんと同じ顔をしながら、中身はまるで睦月くんでないということを一目見て解るような、へんな表情をしていた。そして、先生、と、好き、を相変わらず交互に繰り返し呟いているのだった。



「こんな、よくわからぬものに手を出されそうになったのだぞ。俺が助けに入ったから何ともなかったが、これに懲りたらもう少し俺の話をまともに聞け」

「ああ、すまなかった。ありがとう」

「ふん」



それの黄色い目が爛々と光る様は実に恐ろしく、俺は古川の空いている方の腕につかまり、情けなくガタガタ震えていた。その恐怖心から実は古川の言はあまり聞こえてはいなかったのだが、おざなりにした返事に古川はだいぶ気を良くしたらしかった。







不思議な夢を見たその日以来、あの黄色い目をした何かは見ていない。夢の中で古川がどうにかしてくれたのかもしれないし、本当は何か精神的に疲れていた俺が幻覚を見ていただけだったのかもしれない。まあいなくなればそれで良い。

それよりも俺はこの件で、もしや古川は意思だけの存在となって俺の夢に住みついているのかもしれない、と思い始めた。そうとでも考えねば、俺の夢にこうも頻繁に奴が登場してくる説明がつかないからだ。夢とは一日の出来事を脳が整理整頓しているのだとか、深層心理が現れるのだとかいうが、俺は日頃古川のことなど一つも考えていない。

しかし、不思議なやつだとは思っていたが、人の夢の中にまで入り込めるとは、もはや妖怪の類である。



我孫子さんのお宅へ伺うと、睦月くんが出迎えてくれた。今日は睦月くんの家庭教師の日だ。何やら用事があるらしく少し玄関で待つように言われ、他人の家で一人にされた落ち着かなさから視線を彷徨わせつつ待つうち、俺は初めて気付いたことがあった。靴箱の上に、金魚鉢があるのである。丸いガラスの器のなかを、小さな金魚が二匹、水面に一滴絵の具を垂らしたような薄いヒレをひらめかせて浮いている。

そこを葉月くんが通りがかった。先生こんにちは、と言われたので返事を返す。

そうして俺は思い出した。以前葉月くんは、ペットを飼っていると言っていた。俺はその証言があったからこそ、あれを幻覚だったとはなかなか思えないでいたのだが、ペットとはこの金魚のことだったのだ。やはり、あの動物は我孫子さん家のペットではなく、俺の妄想の産物に過ぎなかったのだ。

なんだかすっきりとした気持ちになり、俺は葉月くんに話しかけた。



「葉月くん、いつだったか言っていたアーサーっていうのは、この金魚のことだね」

「え?ううん、違うよ。金魚のことペットって言わなくない?それは、金太郎と、魚太郎。金太郎がオスで、魚太郎がメスのほう」



メスに太郎とは、思い切った名付けをする。誰か名付けたのだろうと考えかけて、それが本題ではないと思い直す。



「じゃあ、ほかにもいるの?」

「うーん、いたけど、最近いなくなっちゃったんだ。先生見なかったの?庭にたまにいたんだよ。だから俺が名前つけたの」



そこへ、睦月くんの声がかすかに聞こえてきた。奥さんと何か話しているらしく、玄関に続くドアのすぐ向こうに、だんだんと近付いてきているようである。

葉月くんは声を潜めた。



「イチズでオクテだから、気持ちを溜め込んじゃって、どんどん大きくなっちゃうんだよね。まー俺はおもしろいけど。先生、よかったら考えてあげたら?」



ふふっと葉月くんが笑う。その顔は、いつも見ている中学生らしいあどけない表情ではなく、手練手管を身に付けた娼婦というもののあらばかくのごとしといったもの。

葉月くんがくるりと身を翻して二階への階段を駆け上がって行く。その背が見えなくなったとき、睦月くんがドアを開けて現れた。



「お待たせしました、先生。…先生?どうしたんですか、そんなにぽかんとした顔して」





その夜見た夢は、街を歩くたくさんの人々の腹が、それぞれの抱える様々な思いでパンパンに膨れている夢だった。

しかもにこにこしている人の腹の中に、怒りや蔑みの感情が入ってることもあり、俺は目に見えない「感情」というものを、そのとき初めて恐ろしく思ったのだった。



おわり

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