猫のいる喫茶店
古川のアパートからさほど遠くないところに、小さな喫茶店がある。大通りから二本ほど外れ、民家の中に埋もれるようにして佇むそこは、道に迷ったときに偶然みつけた場所である。目立たぬを通り越して自ら隠れているような風情すらあるその喫茶店では、俺好みの美味しいコーヒーを出してくれるため、俺はしばしば足を運ぶようになった。ケーキなどもショーケースに出てはいたが、金の無い俺では一度も買えたことはない。
店で他の客に会ったことはほとんどない。狭い店内にはいつも俺と、店主と思しき背の低いおじいさんがいるばかりだ。ごく小さな音量で何やら穏やかな洋楽ーー俺は洋楽に詳しくないーーが流れる店内は、いつもほぼ俺の貸し切りだった。
今日も、コーヒーを一杯頼んで、席に着く。持って来た課題が済むまで、半日ほどはここにいるつもりである。
すると、黒猫が一匹、足下に寄って来た。店に入るといつも、ここの飼い猫らしきこの黒猫が、音もなく寄ってくる。動物は嫌いではない。無垢なところが可愛らしい。しかし、他所の猫を勝手に触ってよいものかわからず、かといってコーヒー一杯で相当な時間粘っている後ろめたさからあまり店主と交流を持ちたくもない俺は、いつもそいつを目で追うにとどめていた。今日もなだらかな背中のうねるのをただ見つめてやった。
そうしてしばらくして、ねえ、と声を掛けられ、俺は慌てて顔を上げた。店主が、カウンターの内側から、俺に声をかけてきていたのだった。こんなことはこれまでなかった。吃りながら返事をする。
「少し出て来るから、店にいてくれないかな。すぐ戻るから」
そして呑気な笑顔で、なんとも不用心なことを言う。俺がケーキに手を付けたり、コーヒーを勝手におかわりしたりする、ということを考えないのだろうか。
しかし、たまに来て長居をしていただけなのになかなかに信頼を得ていたらしいことに気を良くした俺は、素直にそれを引き受けた。どうせ誰もいない店である。猫と二人、店番をしても何の心配もない。
ややして、外出から戻って来た店主は、お礼にと言ってショーケースの中のケーキを一切れ食わせてくれた。普段となんら変わったことはしていないというのに、と罪悪感を覚えつつも、なんともありがたくいただいた。
その夜、夢に古川が出た。
古川は足下の草をぶちぶちとむしりながら、俺のことをじと目に睨んでいる。その動作を見て、俺は奴と自分が草原に並んで座り込んでいると知った。
「久しぶりだな。なんで睨むんだ」
「おまえが人たらしだからだ。いや、猫たらしか」
久方ぶりに会う古川は、夢の中でさえやはり不思議なことを言う男であった。首をひねると、昼間のことだ、と言う。俺はそれで、昼間の猫のことを思い出した。
「撫でてやったろう。あいつはおまえが気に入ったそうだ。どうするんだ、アレは化けるぞ」
実は、店主がいない隙に、少し猫を撫でた。毛並みはつやつやしていて、暖かくて気持ちよかった。猫も嫌がらず撫でさせてくれた。
しかしなぜ俺が撫でてやったことをこいつが知っているのだろうと思ったが、夢見のあの独特な感覚で、俺はそれについてそれ以上考えなかった。化けるぞ、ということについても、そうか狸や狐だけでなく猫も化けるんだな、としか思わなかった。
「いいじゃないか、化けたら面白いし」
「滅多なことを言うな。手を出されても知らないぞ」
「猫が手を出しても、肉球がぷにぷにするだけだろうが」
「だから、化けるんだと言ってるだろう。いいから、あまりあの猫をたらしこむなよ」
古川は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、ブチブチとたくさんの草を引き抜いた。俺は夢の中でもそう思ったが、覚めてからもやはり、あいつはわけのわからないことを言う奴だな、と思った。
数日後、俺はまた喫茶店を訪ねた。当然、またケーキを食わせてくれないかと期待して来たのである。
しかし店主は特に、やあこないだの、とか言って親しげにするわけでもなく、以前の通り美味いコーヒーを淹れてくれただけだった。やや拍子抜けである。今日は特にレポートもないし、飲んだらもう帰ろう、と俺は思う。かえってコーヒー代を無駄にしてしまったようで悔しい。
コーヒーを半分ほど飲んだとき、いつもならやって来る猫が今日はやって来ていないことに気付いた。目線を床に走らせるが、どこにもあの黒い毛並みは見当たらない。はてなと思うが、本来猫は自由気ままにうろつく生き物だ。いままではたまたま店内にいたのであって、普段俺の訪ねないときは今日のように外に出ていたのかもしれない、と俺は結論づけた。
すっかりカップを空にしたあと、さっさと帰るのもよくないかと思い、鞄に入っていた文庫を撫でるように少しだけ読むことにする。
20ページほど読み進めて、さて帰るか、と顔を上げたとき、隣の席に人がいることに気づいた。しかもこちらを見ていたようだ。いつからいたのだろうか、俺は内心相当驚いたものの、表には出さずに無言で頭を下げた。すると相手も会釈を返してくる。その様子は少しうれしそうに見えた。
それは若い男で、驚くほど真っ黒な髪の色をしていた。黒い長袖シャツに黒いチノパンを履いているから、服装も真っ黒だ。まるで頭から墨でもかぶったようだなと思っていると、その男が口を開いた。
「今日はもう帰るのか」
ゆったりした話し方で、まるで老爺のようである。やけに親しげに話しかけて来られ、俺はこの人と知り合いだったろうかと訝しみながら、はい、と頷いた。
「そうか。次はいつ来る?」
「決めていません。ここへは、気が向いたときに来ているので」
「気が向いたらか。では、気はどうすれば向くのだろう。俺にできることはあるか?」
何かおかしな人だとさすがに気付いた。話すのはよした方が懸命かもしれない。しかし急に逃げ出すのもおかしかろうと思われた。たとえおかしな人でも、急に話を断ち切って走り去られては気分を害するかもしれない。
助けを求められるかと店主を見ると、ちょうどかくりと船を漕いだところだった。
「気が向く理由は様々ですから、一言では言えません。しかし、近いうちにまた来ますよ」
「近いうちか。待ち遠しいな」
「はは、そうですか」
言葉の通り遠くを見るようにして微笑む男は、悪い人間には見えなかった。
少しだけ素性が気になったが、俺は危ない橋は渡らぬ人間である。古川にも旅行に誘われたことがないではなかったが、いつ墜落するやも知れぬ飛行機に乗り文化の全く違う国に洋行するなど到底俺の心臓が保つわけがなかったため、一度も同行したことは無い。
カバンの中でケータイが鳴った。店に入るときはいつもマナーに切り替えるのだが、忘れていたようだ。慌てて手を突っ込んで探っているうち、
「また来い」
そこにいた筈の男は、次に顔を上げたときにはもう、いなくなっていた。
店内にもいない。現れ方もそうだが、消え方も不思議な男であった。
店を後にするとき、ふといつもの猫について訪ねてみた。今日は散歩ですか、と聞くと、いつも散歩だよ、と帰ってきた。あれはこの店の飼い猫ではないのだそうだ。どこの猫か、あるいは野良か。たまにふらりとやって来て、店の床でじっと音楽を楽しんで帰っていくものなのだそうだ。では、撫でていいかと確認をとる必要は無かったのだなと俺は思う。
「俺は思うけどね、あれは化け猫の類だと思うよ。だってあの猫、尻尾が二本生えてるじゃない」
それ見ろ、と古川の声が聞こえた気がした。




