第十八話 この喜びは偽りか本音か
八月中旬。
午後三時過ぎ。
自宅のソファーに座りながら、秀人は電話を待っていた。隣りには、暗い顔の華が座っている。
十三日前に、秀人は、華にHIVのことを詳しく説明した。どのようなウイルスなのか。どのような原因で感染するのか。エイズが発症すると、どうなるのか。彼女にも理解できるように、細かく丁寧に。
感染者と避妊具なしでセックスすると、感染る可能性がある。そう聞いたときの華は、震えていた。テンマが勧めてきた避妊具なしのセックスで、感染したかも知れないのだ。彼女の顔には、多くの感情が浮き出ていた。驚き、恐怖、絶望、悲しみ。
秀人は華を慰めながら、保健所に連れて行った。HIV感染の検査。結果は十日後に通知すると説明された。通知方法は、再診断に来るか電話のどちらか。電話での通知を希望し、保健所を後にした。それが十日前。
HIVのことを話してから、華はずっと元気がない。元気はないが、周囲への気配りは忘れなかった。秀人や猫達のことを心配していた。
「華のせいで、秀人やこのコ達に感染ったりしないよね?」
避妊具なしのセックスが要因と教えても、華は、そんなことを心配していた。
「大丈夫だよ。一緒に暮らしただけじゃ感染らないし、一緒に風呂に入っても感染らない。HIV自体は感染力の弱いウィルスだからね。だから華は、自分のことだけ気遣ってて」
そんな会話を、検査の日からずっと繰り返していた。
リビングのテレビでは、ニュースが放送されている。市内の一軒家で、一家全員が銃殺されたというニュース。家の中には、カラースプレーで「天誅」と書き残されていたらしい。
秀人が操っている、元引きこもりの犯行。ネットで、他者に対する誹謗中傷を繰り返していた男。
あの男には、檜山組が用意した郊外のプレハブ小屋で銃の練習をさせた。指導したのは秀人ではない。男にとって秀人は、守るべきか弱い存在だ。そんな秀人が、銃の使い方を教えるわけにはいかない。
数人の構成員が、交代で、男に銃の使い方を教えた。指導する中で、構成員達に、このように伝えろと指示していた。
『お前がやり遂げたら、あの女の手術費用は俺達が出してやる』
『俺達はこんな仕事をしてるが、人情だってあるんだ』
男は、暴力団に対して、任侠映画のような印象を抱いた。命賭けの抗争をすることもあるが、義理人情に厚く、弱き者に優しい人達。
檜山組の構成員は、男に対し、さらにこんなことも吹き込んだ。もちろん秀人の指示で。
『俺達はこんな商売をしてるから、嫌な事件のことも耳に入ってくる。女に暴行する奴なんてのは、人間のクズだ』
『人間のクズを育てた奴等もクズだ。クズは、家族共々地獄に行くべきだと思うんだけどな』
『彼女だって、きっと、そう思ってるはずだ。だから、俺達みたいな人間に、復讐の手助けを頼んできたんだしな』
『俺達は、できれば、あんたにクズを始末してほしい。彼女が惚れ込んだ男なら、それくらいの気概を見せて欲しいんだ』
男はすっかりその気になった。銃の訓練に対して、並々ならぬ意欲を見せるようになった。
引きこもりだった男の身体能力は、一般の男性に比べて低かった。それでも、半月ほどで、下手くそなりに撃てるようになった。
秀人に命令されて、構成員達は、男に標的を教えた。秀人が引きこもりの男に語った、架空の女の過去――架空の過去が生んだ、架空の加害者一家を。
男は行動を起こし、最初の犠牲者が出た。今、ニュースで放送されている事件。アナウンサーが、犯人は不明であることと、現在捜査中であることを話している。天誅と書き残されていることから、怨恨だろうとコメントしていた。
実際は、怨恨なんて一切ない。適当に選ばれた標的。適当に選ばれて発生した、住宅街での事件。
さて――と秀人は、胸中で呟いた。今までは、店舗や施設、学校で事件を起こした。多くの事件で、経済状況や治安に影響が出ている。では、一般の住宅街で事件が起った場合、社会にどんな影響が出るか。予想されるところでは、周囲の家から住人が退去する。家が持ち家ならば、売りに出されるかもしれない。
売りに出された家に、高値はつかないだろう。新築ではなくなった時点で、家の価格は大きく下がる。近隣で凶悪事件が発生したとなれば、なおさらだろう。
事件が起った場所は、いわゆる高級住宅街だ。そうすると、地価自体が大きく下がるかも知れない。
あの男は、捕まるまでにあと何件事件を起こせるだろうか。
銃での事件だから、捜査にはSCPT隊員もヘルプで参加することになるだろう。
もし、犯人が咲花と接触したとして。
咲花は今回も、犯人を殺さないのだろうか。
なぜ咲花は、犯人を殺さなくなったのだろうか。
秀人が考えていると、スマートフォンのコールが鳴った。電話の着信音。
秀人はスマートフォンを手にし、画面上の『応答』の文字をタップした。通話が開始される。
『お忙しいところ恐れ入ります。寶田秀人様の携帯電話でお間違いございませんでしょうか?』
寶田秀人――秀人が名乗った偽名。
「はい。そうです」
対応すると、相手は、保健所の職員だと名乗った。
『恐れ入りますが、ただ今お時間はよろしいでしょうか』
「はい」
『先日検査いたしました、四谷華様の結果の件でございますが、ご本人様はお手空きでしょうか?』
「少々お待ちください」
隣りに座っている華に、秀人はスマートフォンを差し出した。
「華、保健所の人だよ。HIVの検査をしたところの人」
華は目を見開き、秀人に顔を向けた。ゆっくりと、視線をスマートフォンに移す。ほんの少しの間をおいて、恐る恐るといった動きで、スマートフォンに手を伸ばした。
スマートフォンを受け取ると、華は耳に当てた。呼吸が浅く速くなっている。緊張と恐怖が、彼女の手を震わせていた。
「はい、華です」
彼女は最近、敬語を覚えた。
通話の音量は、決して大きくない。通常であれば、華と保健所職員の会話は、聞き取ることができない。
だが、秀人の耳には、彼女達の会話がしっかりと聞こえていた。
華は最初、保健所職員の言葉に「はい」と応えていた。しかし、会話が進むごとに「うん」になっていった。敬語を覚えてから間もないので、感情が高ぶっているときには使えない。
話しながら、華の目から涙が流れてきた。声にも涙が混じり、「うん」の音が濁ってきている。
職員との話が終わり、華は電話を切った。耳からスマートフォンを離し、泣き顔を秀人に向けた。
「華、どうだった?」
会話の内容は聞こえていた。それでも秀人は、あえて聞いた。華自身の口から、結果を言わせたかった。
ヒックヒックとしゃくり上げながら、華は、涙で枯れた声で、秀人に結果を伝えてきた。
「HIVに、罹って……ながっだぁ」
検査結果は陰性。他の性感染症も完治している。これで華は、本当の意味で完治したと言える。
華は感情が高ぶっていて、今にも大泣きしそうだ。
その前に秀人は、華を抱き締めた。いつもは華が「ギューッってして」と言うのに、今日は秀人から抱き締めた。
「秀人、どうしたの?」
突然抱き締められて、華は驚いたようだ。声に混じる嗚咽が小さくなっている。
「よかった……」
華の耳元で、秀人は呟いた。涙声を出して。
「華が感染してなくて、本当によかった……」
秀人の腕の中で、華は小さく首を傾げた。
「秀人、泣いてるの?」
「少し」
「どうして?」
「嬉しいのと、安心したので」
「嬉しい?」
「華が感染してなくて、よかった」
意図的に声帯を震わせて、より明確に涙声を出す。
「華が無事で、本当によかった」
秀人に言われて、華の体が震え始めた。
きっと――間違いなく、華は、今まで出会ったことがないはずだ。自分のために泣いてくれる人に。自分が無事だと聞いて、涙を流して喜んでくれる人に。
ヒック、ヒックと、華がしゃくり上げ始めた。声に合わせて、体がピクンピクンッと振動している。間もなく、彼女は大泣きした。大泣きしながら、自分の気持ちを口にしていた。
「秀人ぉ、ありがどぉ」「よがっだぁ」「恐がっだぁ」「死んじゃうがと思っだぁ」
同じ言葉を何度も繰り返しながら、華は秀人を強く抱き締めた。大声で泣き続けた。
これまでの華の言動と、今の彼女の様子から、秀人は悟った。
華の心を、完全に掴んだ。今の華なら、間違いなく、テンマよりも秀人を選ぶ。テンマの言うことよりも秀人の言うことを信じる。
あとは、華に銃やナイフの使い方を徹底的に教え込んで。合間に、テンマが本当はどんな人間なのかを教えてやれば。
華に、テンマを殺させることができる。テンマ殺しを最初の殺人にして、大勢を殺させることができる。
今の華なら、秀人の言うことを何でも聞き入れるだろうから。
思い通りの展開に、秀人はほくそ笑んだ。華の視界の外で、冷たく笑った。
冷たく笑った、つもりだった。
――だが。
秀人自身は気付かない。今の自分の表情が、優しいことに。目に宿る光が、温かいことに。
その顔は、秀人が大好きだった姉にそっくりだった。
※次回更新は1/26を予定しています。
他の手駒よりも重宝している華を、他の手駒と同じように掌握したと確信する秀人。
しかし、他の手駒とは違う感情も、華に対して生まれ始めている。
けれど、秀人の恨みも憎しみも消えない。決して枯れない。
この先、秀人は華をどのように扱い、彼女とどのように過ごしてゆくのか――




