表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
罪と罰の天秤  作者: 一布
第二章 金井秀人と四谷華
92/176

第十八話 この喜びは偽りか本音か


 八月中旬。


 午後三時過ぎ。


 自宅のソファーに座りながら、秀人は電話を待っていた。隣りには、暗い顔の華が座っている。


 十三日前に、秀人は、華にHIVのことを詳しく説明した。どのようなウイルスなのか。どのような原因で感染するのか。エイズが発症すると、どうなるのか。彼女にも理解できるように、細かく丁寧に。


 感染者と避妊具なしでセックスすると、感染(うつ)る可能性がある。そう聞いたときの華は、震えていた。テンマが勧めてきた避妊具なしのセックスで、感染したかも知れないのだ。彼女の顔には、多くの感情が浮き出ていた。驚き、恐怖、絶望、悲しみ。


 秀人は華を慰めながら、保健所に連れて行った。HIV感染の検査。結果は十日後に通知すると説明された。通知方法は、再診断に来るか電話のどちらか。電話での通知を希望し、保健所を後にした。それが十日前。


 HIVのことを話してから、華はずっと元気がない。元気はないが、周囲への気配りは忘れなかった。秀人や猫達のことを心配していた。


「華のせいで、秀人やこのコ達に感染(うつ)ったりしないよね?」


 避妊具なしのセックスが要因と教えても、華は、そんなことを心配していた。


「大丈夫だよ。一緒に暮らしただけじゃ感染らないし、一緒に風呂に入っても感染らない。HIV自体は感染力の弱いウィルスだからね。だから華は、自分のことだけ気遣ってて」


 そんな会話を、検査の日からずっと繰り返していた。


 リビングのテレビでは、ニュースが放送されている。市内の一軒家で、一家全員が銃殺されたというニュース。家の中には、カラースプレーで「天誅」と書き残されていたらしい。


 秀人が操っている、元引きこもりの犯行。ネットで、他者に対する誹謗中傷を繰り返していた男。


 あの男には、檜山組が用意した郊外のプレハブ小屋で銃の練習をさせた。指導したのは秀人ではない。男にとって秀人は、守るべきか弱い存在だ。そんな秀人が、銃の使い方を教えるわけにはいかない。


 数人の構成員が、交代で、男に銃の使い方を教えた。指導する中で、構成員達に、このように伝えろと指示していた。


『お前がやり遂げたら、あの女の手術費用は俺達が出してやる』

『俺達はこんな仕事をしてるが、人情だってあるんだ』


 男は、暴力団に対して、任侠映画のような印象を抱いた。命賭けの抗争をすることもあるが、義理人情に厚く、弱き者に優しい人達。


 檜山組の構成員は、男に対し、さらにこんなことも吹き込んだ。もちろん秀人の指示で。


『俺達はこんな商売をしてるから、嫌な事件のことも耳に入ってくる。女に暴行する奴なんてのは、人間のクズだ』

『人間のクズを育てた奴等もクズだ。クズは、家族共々地獄に行くべきだと思うんだけどな』

()()だって、きっと、そう思ってるはずだ。だから、俺達みたいな人間に、復讐の手助けを頼んできたんだしな』

『俺達は、できれば、あんたにクズを始末してほしい。彼女が惚れ込んだ男なら、それくらいの気概を見せて欲しいんだ』


 男はすっかりその気になった。銃の訓練に対して、並々ならぬ意欲を見せるようになった。


 引きこもりだった男の身体能力は、一般の男性に比べて低かった。それでも、半月ほどで、下手くそなりに撃てるようになった。


 秀人に命令されて、構成員達は、男に()()を教えた。秀人が引きこもりの男に語った、架空の女の過去――架空の過去が生んだ、架空の加害者一家を。


 男は行動を起こし、最初の犠牲者が出た。今、ニュースで放送されている事件。アナウンサーが、犯人は不明であることと、現在捜査中であることを話している。天誅と書き残されていることから、怨恨だろうとコメントしていた。


 実際は、怨恨なんて一切ない。適当に選ばれた標的。適当に選ばれて発生した、住宅街での事件。


 さて――と秀人は、胸中で呟いた。今までは、店舗や施設、学校で事件を起こした。多くの事件で、経済状況や治安に影響が出ている。では、一般の住宅街で事件が起った場合、社会にどんな影響が出るか。予想されるところでは、周囲の家から住人が退去する。家が持ち家ならば、売りに出されるかもしれない。


 売りに出された家に、高値はつかないだろう。新築ではなくなった時点で、家の価格は大きく下がる。近隣で凶悪事件が発生したとなれば、なおさらだろう。


 事件が起った場所は、いわゆる高級住宅街だ。そうすると、地価自体が大きく下がるかも知れない。


 あの男は、捕まるまでにあと何件事件を起こせるだろうか。


 銃での事件だから、捜査にはSCPT隊員もヘルプで参加することになるだろう。


 もし、犯人が咲花と接触したとして。

 咲花は今回も、犯人を殺さないのだろうか。

 なぜ咲花は、犯人を殺さなくなったのだろうか。


 秀人が考えていると、スマートフォンのコールが鳴った。電話の着信音。


 秀人はスマートフォンを手にし、画面上の『応答』の文字をタップした。通話が開始される。


『お忙しいところ恐れ入ります。寶田秀人様の携帯電話でお間違いございませんでしょうか?』


 寶田秀人――秀人が名乗った偽名。


「はい。そうです」


 対応すると、相手は、保健所の職員だと名乗った。


『恐れ入りますが、ただ今お時間はよろしいでしょうか』

「はい」

『先日検査いたしました、四谷華様の結果の件でございますが、ご本人様はお手空きでしょうか?』

「少々お待ちください」


 隣りに座っている華に、秀人はスマートフォンを差し出した。


「華、保健所の人だよ。HIVの検査をしたところの人」


 華は目を見開き、秀人に顔を向けた。ゆっくりと、視線をスマートフォンに移す。ほんの少しの間をおいて、恐る恐るといった動きで、スマートフォンに手を伸ばした。


 スマートフォンを受け取ると、華は耳に当てた。呼吸が浅く速くなっている。緊張と恐怖が、彼女の手を震わせていた。


「はい、華です」


 彼女は最近、敬語を覚えた。


 通話の音量は、決して大きくない。通常であれば、華と保健所職員の会話は、聞き取ることができない。


 だが、秀人の耳には、彼女達の会話がしっかりと聞こえていた。


 華は最初、保健所職員の言葉に「はい」と応えていた。しかし、会話が進むごとに「うん」になっていった。敬語を覚えてから間もないので、感情が高ぶっているときには使えない。


 話しながら、華の目から涙が流れてきた。声にも涙が混じり、「うん」の音が濁ってきている。


 職員との話が終わり、華は電話を切った。耳からスマートフォンを離し、泣き顔を秀人に向けた。


「華、どうだった?」


 会話の内容は聞こえていた。それでも秀人は、あえて聞いた。華自身の口から、結果を言わせたかった。


 ヒックヒックとしゃくり上げながら、華は、涙で枯れた声で、秀人に結果を伝えてきた。


「HIVに、罹って……ながっだぁ」


 検査結果は陰性。他の性感染症も完治している。これで華は、本当の意味で完治したと言える。


 華は感情が高ぶっていて、今にも大泣きしそうだ。


 その前に秀人は、華を抱き締めた。いつもは華が「ギューッってして」と言うのに、今日は秀人から抱き締めた。


「秀人、どうしたの?」


 突然抱き締められて、華は驚いたようだ。声に混じる嗚咽が小さくなっている。


「よかった……」


 華の耳元で、秀人は呟いた。涙声を出して。


「華が感染してなくて、本当によかった……」


 秀人の腕の中で、華は小さく首を傾げた。


「秀人、泣いてるの?」

「少し」

「どうして?」

「嬉しいのと、安心したので」

「嬉しい?」

「華が感染してなくて、よかった」


 意図的に声帯を震わせて、より明確に涙声を出す。


「華が無事で、本当によかった」


 秀人に言われて、華の体が震え始めた。


 きっと――間違いなく、華は、今まで出会ったことがないはずだ。自分のために泣いてくれる人に。自分が無事だと聞いて、涙を流して喜んでくれる人に。


 ヒック、ヒックと、華がしゃくり上げ始めた。声に合わせて、体がピクンピクンッと振動している。間もなく、彼女は大泣きした。大泣きしながら、自分の気持ちを口にしていた。


「秀人ぉ、ありがどぉ」「よがっだぁ」「恐がっだぁ」「死んじゃうがと思っだぁ」


 同じ言葉を何度も繰り返しながら、華は秀人を強く抱き締めた。大声で泣き続けた。


 これまでの華の言動と、今の彼女の様子から、秀人は悟った。


 華の心を、完全に掴んだ。今の華なら、間違いなく、テンマよりも秀人を選ぶ。テンマの言うことよりも秀人の言うことを信じる。


 あとは、華に銃やナイフの使い方を徹底的に教え込んで。合間に、テンマが本当はどんな人間なのかを教えてやれば。


 華に、テンマを殺させることができる。テンマ殺しを最初の殺人にして、大勢を殺させることができる。


 今の華なら、秀人の言うことを何でも聞き入れるだろうから。


 思い通りの展開に、秀人はほくそ笑んだ。華の視界の外で、冷たく笑った。


 冷たく笑った、つもりだった。


 ――だが。


 秀人自身は気付かない。今の自分の表情が、優しいことに。目に宿る光が、温かいことに。


 その顔は、秀人が大好きだった姉にそっくりだった。


※次回更新は1/26を予定しています。


他の手駒よりも重宝している華を、他の手駒と同じように掌握したと確信する秀人。

しかし、他の手駒とは違う感情も、華に対して生まれ始めている。


けれど、秀人の恨みも憎しみも消えない。決して枯れない。

この先、秀人は華をどのように扱い、彼女とどのように過ごしてゆくのか――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ