第十七話 滑稽な、偽りだらけの恋
八月上旬。
日中の日差しを、アスファルトが照り返している。空と地面の両方から、熱が突き刺さる。
気温は三十六度。北海道でも、夏は十分過ぎるほど暑い。
秀人は、先月から、ネット上で誹謗中傷を繰り返す男と接触していた。親の経済力に頼って家に引き籠もり、他人を貶めることで自分を肯定している男。
声色を変え、美女の振りをして、ネット通版の配達員を装って接触した。
長年女性と接触のなかったその男は、秀人の美貌に夢中になった。そのうち、玄関先で話すようになった。秀人が男を持ち上げると、彼は面白いくらいに舞い上がった。自分がどれだけ優秀かを、延々と語っていた。
男のもとを訪ねるとき、秀人は、必ず長袖のトレーナーを着た。長袖の、配達員の制服。ウエストポーチ。
秀人の体は、細くとも鍛え上げられている。体付きの分かる服や鍛え上げられた腕を見られたら、男の興味を失う可能性がある。
気温が高くなっても長袖を着ている秀人を、男は不思議に思ったようだ。
「こんなに暑いのに、どうしてトレーナーなんて着てるんだ?」
素朴な、男の疑問。この疑問を彼から引き出すまで、三週間以上も要した。彼の家を訪ねた回数は、十四回にもなっていた。
質問された秀人は、悔しさと悲しさが混じった表情を作った。涙まで流して見せた。
男は慌てて手を振った。
「いや! 何か事情があるなら、話さなくていいから! ごめん! 変なこと聞いて!」
夢中になっている女性を、泣かせてしまった。もしかしたら、嫌われてしまうかも知れない。そんな不安が、男の顔に書いてあった。
秀人は首を横に振り、涙を拭った。
「ううん。大丈夫です。あなたになら、話してもいいかも知れないですし」
涙を拭き、潤んだ目で男を見つめる。
「でも……私のことを知っても、嫌いにならないでくれますか? 私の過去を知っても、軽蔑しないでくれますか? 私がやろうとしてることを知っても、幻滅したり、反対したりしないでくれますか?」
「嫌いになんてならない! 当たり前だろ!」
秀人が思った通りの宣言を、男は力強く発した。
ただの配達員と客の関係。知り合って、たった三週間。玄関先で、十四回しか顔を合せていない間柄。それなのに男は、秀人の言葉に何の疑問も抱いていない。怪しさも不信感も持っていない。
十年も他人と関わっていない男は、他人との絆の深め方を忘れている。だから、簡単に絆を深められるように錯覚している。さらに、他人を誹謗中傷することで無駄な自己肯定感を得ているから、女性に好かれるという自信まである。
顔で泣き、心で嘲笑しながら、秀人は語り聞かせた。自分がどうして、暑い季節になっても長袖を着ているのか。
昔、複数人の男に襲われた。何度も何度も犯された。襲ってきた男達は性欲を発散し切ると、今度は、暴行を加え始めた。体に無数の傷を作られた。
秀人は自分の体を抱き、震える姿を見せつけた。
「私の体、今も傷だらけなんです。整形手術をしないと傷が消えなくて。だから、仕事を掛け持ちしてるんです。体を綺麗にするお金が欲しくて……」
男は驚いた顔を見せていた。夢中になっている美女の悲しい過去に、戸惑っているようだ。
やがて、思いついたように口を開いた。
「いや、でも。加害者から損害賠償とか慰謝料とか取れなかったのか? 加害者本人じゃなくても、その家族とか」
秀人は首を横に振った。
「そんなの、払ってくれてないんです。いくら裁判で決まっても、逃げるばかりなんです。犯人自身も、犯人の家族も」
「嘘だろ……」
漏れ出た男の声。彼は、損害賠償や慰謝料は必ず支払われるものだと認識しているようだ。
犯罪や不法行為による損害賠償や慰謝料は、当然のごとく、加害者側に支払い義務がある。とはいえ、支払わずに逃げおおせる者が多いのも事実だ。
女性の声色で語った嘘。嘘に合わせた芝居。嘘の中に、事実も混ぜた。この男を、上手く利用するために。
もしかして自分は、演技も上手いのかも知れない。そんなことを思いつつ、秀人は続けた。
「支払いを要求したら、加害者やその家族に罵られました。金の亡者とか、夜に一人で歩いてる方も悪いとか」
再び、涙を流して見せた。ただし、今度の涙は悲しみの涙ではない。怒りの涙だ。そういった表情をつくった。
「私、悔しくて! 悲しくて! 整形費用を貯めるために仕事を掛け持ちしてたけど、整形よりも、あいつ等を許せない気持ちの方が強くなって! だから……」
秀人は、ウエストポーチのファスナーを開けた。中に入れた物を取り出した。
オートマチックの拳銃。
「……どうにかして復讐したくて、仕事を掛け持ちしたお金で、こんな物を買っちゃったんです。弾もたくさん……」
男は一歩、後退った。玄関の段差にぶつかって、少し体をよろめかせた。すぐに体勢を立て直す。
「本物なのか?」
「本物です。実際に、撃つ練習もしました。私の腕力じゃ、あまり上手に当てられなかったですけど……」
涙を流し、ズズッと鼻をすすって、秀人は銃をしまった。涙を拭いて、悲しそうな笑顔を男に向けた。
「ごめんなさい。突然、こんな話をして。反応に困りますよね?」
「あ……いや……」
少しだけ怯えた様子で、男は首を横に振った。
「でも、そんなもの、どこで手に入れたんだ?」
「配達先に、暴力団の人がいて。その人から買ったんです」
「そうなのか……」
夢中になっている女が、痛々しい過去を背負い、復讐に走ろうとしている。これが物語の話であれば、男がする選択は二通りだ。代わりに復讐を果たすか、復讐を止めるか。
ネットの中では強気な男も、今は弱気になっていた。夢中になっている女のためでも、犯罪に手を染めたくはない。かといって、復讐を止めて嫌われたくもない。
男の気持ちを完全に射貫くため、秀人は、止めの言葉を口にした。
「私、あたなのことが好きになってたんです。初めて会ったときから、ずっと。だから、あなたに嫌われたくなかった。でも、嘘もつきたくなかった」
悲しそうな笑顔のまま、再び涙を拭った。男の心に突き刺さるように。
「あいつ等や、あいつ等の家族が生きてる限り……私の体に傷がある限り、安息なんてないんです。どこかに正義の味方がいて、私の代わりに、あいつ等に天罰を与えてくれる――そんな夢物語なんて、現実にはないから……」
声を詰まらせて、秀人は顔を伏せた。
「天罰を与えてくれた主人公と、傷付いた女の子が結ばれる、みたいな。そんな物語みたいなこと、絶対に起らないから……」
直後、男が、秀人の両手を握ってきた。力強く、しっかりと。
「そんなことない!」
男の顔付きは、先程までとは違っていた。怯えが消え去り、目には力があった。彼の頭の中でどんな物語が描かれているのか、秀人は容易に悟った。
「俺が、君を救い出す主人公になってやる! こんなに手が固くなるまで働いて、それでも過去の傷を消せない君を、守れる人間になる!」
秀人の手は、顔に似合わずゴツゴツとしている。特別課で訓練を積み、失踪した後も鍛え続けた。その手を、男は上手い具合に勘違いしたようだ。これもまた、秀人の思惑通りだった。
「俺が、君の代わりに復讐してやる! 君を傷付ける奴等を、全て消してやる!」
驚いた表情を作り、秀人は男を見つめた。視線が絡んだあと、遠慮がちに首を横に振った。
「駄目ですよ……好きな人に、そんなことさせられない……」
「好きだからこそ、一緒に背負わせろよ!」
男の語気が強くなった。
「悲しいことも、辛いことも、苦しいことも、俺が一緒に背負ってやる! 死ぬまで背負い続けてやる!」
秀人は唇を震わせた。涙腺をコントロールして、大量の涙を流した。
「いいんですか?」
「ああ。法律や世間が許さなくても、俺が、君の代わりに復讐する! 復讐を望む君を、俺だけは許す!」
秀人は、男の胸に顔を付けた。胸中で舌を出しながら、彼の情欲をも刺激した。
「それじゃあ……全部終わったら、私の全てを見てくれますか? 私の体、見てくれますか? 見て、抱いてくれますか?」
男は秀人を抱き締めた。
「もちろんだ」
その日、男は、約十年ぶりに、自分の意思で家から出た。
秀人が彼を連れて行ったのは、檜山組の事務所だった。銃の訓練をさせるために。
※次回更新は1/19を予定しています。
人心をコントロールし、利用し、思惑通りに事を進める秀人。凶悪な犯罪を起こしながら、華をコントロールしてさらに大きな事件を起こさせようとしている。
事件が多発し、模倣犯が生まれ、治安が悪化してゆく国内。
治安の悪化が、国家の安定を揺るがしてゆく。
その未来にあるものは――




