第十四話② 嬉しいことと甘い生活(後編)
靴を放るように脱ぎ捨てて、亜紀斗は家に上がった。すぐに、麻衣を抱き締めた。
「ああ。俺の彼女が今日も可愛い」
「ありがと。でもね、亜紀斗君」
「何?」
「仕事が終わったときに、連絡欲しかったな。だいたいの目安でご飯作り始めたけど、いつ帰って来るか分からないと、用意するタイミングが難しいんだから」
「うん。ごめん」
「反省してる?」
「してる」
「そう。で、亜紀斗君」
「何?」
「なんでそんなにご機嫌なの? 事件があったんでしょ?」
「そう! それ!」
麻衣から離れて、亜紀斗は、つい大きな声を出してしまった。
「麻衣ちゃん、聞いてくれよ!」
話し始めようとした亜紀斗の口に、麻衣は手を当ててきた。
「まず、ご飯食べよう? もうできてるし。食べながら聞かせて」
「わかった」
「じゃあ、手を洗ってきて」
「おっけー」
自覚できるほど甘ったれた声で応えて、亜紀斗は洗面所に向った。手を洗い、うがいをし、リビングに戻った。
座卓テーブルの上には、すでに夕食が並んでいた。
麻衣と一緒に食卓について、夕食を食べる。
亜紀斗はすぐに、今回の事件のことを話した。死人が出なかったこと。咲花が、犯人を殺さなかったこと。
かつて咲花は、凶悪事件の現場に駆けつけるたびに犯人を殺していた。明かに、意図的に殺していた。
亜紀斗は、咲花の事情を知っている。彼女の姉が、凶悪な事件の被害者であること。被害者遺族である咲花が、遺族の心情に寄り添うために犯人を殺していたこと。
もちろん、咲花の詳しい事情は、麻衣には話していない。いくら大好きな恋人でも、他人のプライバシーを詳しく話していいわけがない。
咲花が犯人を大勢殺していることは、それなりに知られている。警察行政職員である麻衣も、そのことは知っているだろう。彼女の仕事の一つに、犯罪統計資料の作成がある。事件の内容を認識できる立場にいる。
咲花の犯人殺しは、表向きは不可抗力とされている。犯人が激しく抵抗したため、やむなく殺害した。数多くの弾丸を一度に発射したため、手元が狂った。もっともらしい理由が並べられ、彼女には何のペナルティもなかった。
だが、表向きの情報を鵜呑みにしている人間は、それほど多くないはずだ。
麻衣も、間違いなく、表向きの理由を信じていない。咲花の事情を知らないにしても。
「笹島はさ、俺のことが嫌いなんだ。でも、先生のやってきたことに、少しは納得してくれたかも知れないんだ」
亜紀斗が尊敬し、目標にしている先生。
そんな先生に、咲花が、少しは賛同してくれたのかも知れない。咲花のような凄い人が。亜紀斗を嫌っている咲花が。
夕食を食べ終えた。食卓についたまま、麻衣は、嬉しそうに話す亜紀斗をじっと見つめていた。
「亜紀斗君、凄く嬉しそう」
「ああ。すげー嬉しい」
「そうだよね。笹島さんと亜紀斗君の仲の悪さは有名だけど、なんか、こう……好敵手? みたいな感じだもんね」
「そうなの?」
「うん。そんな感じ」
頷くと、麻衣は水を一口飲んだ。
「でも、ね。亜紀斗君」
「何だ?」
「ちょっと、面白くないかなぁ」
「えっと……え?」
わけが分からないと、亜紀斗は首を傾げた。
「だってね、自分の好きな人が、ずっと他の女性の話をしてるんだよ? 凄く嬉しそうに、ずーっと」
麻衣は、ことさら「ずっと」を強調した。
「恋愛感情なんてないのは分かるよ。だって、亜紀斗君と笹島さん、仲悪いし。でも、自分の彼氏が、ずーっと他の女性の話をしてて、しかも、その女性が、すっごい美人ってなったら、ね」
ようやく理解して、亜紀斗は「あ」と声を漏らした。
「もしかして麻衣ちゃん、ヤキモチ」
「うん。ヤキモチ」
麻衣の返答を聞いて、亜紀斗の心がじんわりと温かくなった。でも、少し冷たくもなった。くすぐったいような、照れ臭いような、それでいて申し訳ないような。麻衣に好かれているという、嬉しい温かさ。同時に、好きな人を怒らせたかも知れないという、焦りの冷たさ。
亜紀斗は、麻衣の隣りに移動した。すぐに彼女を抱き締めた。
「麻衣ちゃん、ごめん」
本心からの謝罪。
「反省した?」
「うん。ごめん」
「じゃあ、いいよ。まあ、私も、亜紀斗君が私以外を見てるなんて、思ってないしね」
少しだけ悪戯っぽい、麻衣の声。
「でも、分かってても、少し嫉妬したのは本当」
亜紀斗の心から、冷たさが消えた。温かさだけが残った。
「麻衣ちゃんって、すげー可愛いよな」
亜紀斗の耳元で、麻衣の、クスリという笑い声が聞こえた。
「もしかして、ご機嫌取ってますかー?」
「ご機嫌取りじゃなく、本当に可愛い。もう、可愛過ぎてどうしよう」
「可愛いだけ?」
亜紀斗は鈍い。自覚もしている。けれど、この展開で、麻衣が求めている言葉に気付かないほど馬鹿ではない。
「可愛いだけじゃなく、すげー好き」
「本当に?」
「本当。それに、本当は、付き合い始める前から麻衣ちゃんのこと好きだったし」
「うん」
麻衣も、亜紀斗の背中に腕を回してきた。互いに抱き合う。
夕食直後。一日の終わりで、今日は金曜日。麻衣は明日休み。亜紀斗は、明日は非番。今は夜で、時間はたっぷりある。
抱き合っていると、麻衣が「ん?」と声を漏らした。
「亜紀斗君。好きなのは、下心からじゃないよね?」
からかうような、麻衣の言葉。
「なんか、亜紀斗君の下心に突かれてるんだけど」
亜紀斗ももちろん、それを自覚していた。
「下心だけじゃないけど、下心もあるっていうか。上の心も下の心も、麻衣ちゃんが好きというか」
「ムラムラしてるっていうか?」
「もう、滅茶苦茶ムラムラしてるというか」
また、麻衣がクスリと笑った。チュッと音を立てて、亜紀斗の頬にキスをしてきた。
我慢できず、亜紀斗は麻衣を抱き上げた。そのまま、彼女を寝室に連れ込んだ。シャワーなんて浴びていられない。
ベッドに、二人して倒れ込む。
手を絡めて、キスをした。深い、深いキス。
亜紀斗は、元婚約者のことを忘れたわけではない。守れなかった、大好きな女性。自分のせいで死なせてしまった、大好きだった女性。
罪悪感は、今もある。苦しさも悲しさも、消えることはない。薄れることはあっても。
でも、そんな気持ちと付き合い続けながら、麻衣を大切にしたかった。
自分のせいで、婚約者を死なせてしまったなら。婚約者を守れなかったことを、後悔するくらいなら。
悲しみや苦しみから救い出してくれた麻衣を、どんなことがあっても守り抜きたい。どんなことがあっても、彼女と幸せになりたい。
幸せにする、なんて傲慢なことは言えない。幸せは本人が感じることで、自分以外の心をコントロールなんてできない。
だから。
せめて。
麻衣と幸せになれるように、精一杯生きていたい。
以前のように、人との繋がりを避けたりしないで。
※次回更新は明日(1/4)を予定しています。




