第三十三話 全てはこのときのために
屋上の扉がある塔屋。コンクリートで出来ていて、かなり頑丈そうだ。
塔屋を背にして、咲花は、亜紀斗と秀人の戦いを見ていた。
戦いの展開は、概ね、咲花の想像通りだった。
秀人は内部型クロマチンしか使用していない。にも関わらず、亜紀斗を圧倒している。足だけで亜紀斗の攻撃を捌き、時に仕掛け、亜紀斗を追い詰めてゆく。
しかも秀人は、咲花への警戒も緩めていなかった。
もし咲花が仕掛けたら、両手で対応する。そのために秀人は、亜紀斗を相手に、足しか使っていない。
最初の攻防で、亜紀斗は、秀人との力の差を感じたのだろう。戦法を変えた。エネルギーの大量消費を覚悟し、全力で全身を強化した。使用するエネルギー量を多くすることで、秀人との力の差を埋めようというのだ。
エネルギーの大量消費を覚悟した亜紀斗は、確かに、常軌を逸した動きを見せた。速く、鋭く、強い。もし並のクロマチン能力者が相手なら、すぐに打ち倒したはずだ。
しかし秀人は、並のクロマチン能力者ではない。内部型と外部型の双方の資質があり、かつ、双方ともに磨き上げられている。
天才。文字にするとたった二文字の、超人を表す言葉。秀人以上にこの言葉が似合う者を、咲花は知らない。
クロマチン能力者の基本的な戦い方――消費エネルギーを抑えた戦い方で、秀人は、亜紀斗を圧倒していた。的確に彼の攻撃を防ぎ、要所要所で蹴りを当てていた。
単純なスピードやパワーなら、今の亜紀斗の方が上だ。消費するエネルギー量を度外視して戦っているのだから、当然と言える。
スピードやパワーで劣るのに、秀人は亜紀斗を圧倒している。それはつまり、秀人の戦闘技術の高さを物語っていた。対応力、判断力、駆け引き、相手の動きを先読みする力――どれをとっても、亜紀斗は秀人に遠く及ばない。
亜紀斗が全力で動き始めてから、一分ほど経っただろうか。
唐突に、亜紀斗の動きが変わった。強引に、秀人の体勢を変えようとした。
咲花はすぐに、亜紀斗の意図に気付いた。
咲花に背を向けるように、秀人を動かそうとしている。
――馬鹿なの!?
胸中で毒突く。咲花は、秀人を背後から攻撃しようなどとは思っていない。何より、彼がそんな隙を見せるはずがない。
強引に秀人を動かそうとした亜紀斗は、案の定、返り討ちに合った。足を引っ掛けられ、転倒させられた。
秀人が足を振り上げた。亜紀斗に踵を振り下ろそうとしている。
咲花はすぐに弾丸を放った。
秀人は振り上げた足を戻し、掌に防御膜を張って咲花の弾丸を防いだ。
「佐川! すぐに立て! 動け!」
咲花の怒鳴り声に反応し、亜紀斗はすぐに立ち上がった。また、動き回りながら戦い始めた。
秀人の様子を伺いながら、咲花は、自分の疲労具合を確かめた。
亜紀斗が屋上に来る前。咲花は、秀人と戦った。今の亜紀斗と同様に、手も足も出なかった。かなりのエネルギーを消費した。
十メートルほど離れた場所で戦う二人。彼等から目を離さずに、咲花は両手を強く握り、また開いた。
人間が体を動かすには、当然ながらエネルギーが必要だ。クロマチン能力に限ったことではなく、簡単な歩行から全力疾走まで、どんな動作でもエネルギーを使う。その量に大小の差はあっても。
両手を握ったときの感触。体の疲労感。体内を流れるエネルギーの動き。それらから、咲花は、自分に残された余力を冷静に分析した。
――全力で撃てるのは、あと二発か……せいぜい三発。
本当はあと一発多かったのだが、亜紀斗のフォローで使ってしまった。
しかし、勝つ算段はある。想定通りにできるなら、あと二発でいい。それで秀人に勝てる。
もっともそれは、亜紀斗が、咲花の狙い通りに戦ってくれればだが。
亜紀斗が咲花の狙い通りに戦い、かつ、秀人が、咲花の想定通りに動けば。
亜紀斗が全力でエネルギーを使い始めてから、約七十秒が経過した。
亜紀斗の顔が、若干、青白くなってきた。酸欠症状が始まっている。あまりに激しい動きに、体内の酸素供給が間に合っていないのだ。それでも彼は、全力で動き続けている。
亜紀斗が全力でエネルギーを使い始めてから、約八十秒が経過した。
亜紀斗の速度は落ちていない。しかし、ワンパターンな動きになってきている。疲労のせいで、多彩な動きができなくなっているのだろう。
亜紀斗が全力でエネルギーを使い始めてから、約九十秒が経過した。
秀人は、ワンパターンな亜紀斗の動きを、完全に読み切っていた。的確に蹴りを当てている。全力で全身を強化している亜紀斗に、致命傷は与えられない。しかし、当然ながらダメージがないわけでもない。
亜紀斗が全力でエネルギーを使い始めてから、約一〇〇秒が経過した。
亜紀斗の唇が紫色になっている。完全な酸欠状態だ。それでも彼は、動き続ける。
亜紀斗の精神的な強さを、咲花は知っている。どんなに苦しくても、どんなに傷付いても、決して心が折れない。目的のために、命すら懸けられる男。
亜紀斗が全力でエネルギーを使い始めてから、約一一〇秒が経過した。
亜紀斗の動きは落ちていない。だが、彼の顔色や目付きから、意識が朦朧としているのが分かる。精神力と本能だけで戦っているのだ。
そんな亜紀斗に対して、秀人には余裕があった。余裕どころか、油断さえあった。
亜紀斗が全力でエネルギーを使い始めてから、約一二〇秒が経過した。
ガクンッと、亜紀斗の膝が崩れた。酸欠が限界に達したのだ。どれほどのエネルギーを全身に送っても、人間は、酸素が不足すると動きが止る。亜紀斗ほど精神力が強い人間でも。肉体の限界は、精神力をも無効化する。
秀人が、ほんの少しだけ体を沈めた。強力な蹴りを打つ、溜めの動作。限界に達した亜紀斗に、止めを刺す気だ。
秀人は今、咲花に、体の左側面を向けている。
――ここだ!
たった一度の、二度と訪れないであろうチャンス。咲花と亜紀斗が秀人に勝てる、唯一の、同時に決定的なチャンス。
咲花が全力で撃てる弾丸は、せいぜい残り二発。多く見積もっても三発。
十分だ。二発撃てればいい。
あとはタイミングだ。全ての動作を、ベストのタイミングで行う必要がある。コンマ一秒でもタイミングがズレれば、その時点で失敗する。
秀人を仕留めるための戦略。そのヒントになったのは、亜紀斗と初めて行った実戦訓練だった。
あのとき咲花は、亜紀斗の接近を止めるため、彼の足元に弾丸を放った。破裂型の弾丸。他の内部型の隊員を相手にしたときは、足元に弾丸を当てただけで転倒させることができた。しかし亜紀斗は、咲花の弾丸を食らっても転倒しなかった。バランスを保つ身体強化が上手いのだろう。
転倒しなかった亜紀斗は、咲花の弾丸の爆風により、宙に浮かび上がった。
当時は、エネルギーを無駄使いしないため、弾丸の威力は抑えていた。威力を抑えた弾丸でさえ、亜紀斗を宙に浮かせることができた。
それくらい、破裂型の弾丸が生み出す爆風は、風力が強い。
では、全力で撃った弾丸の爆風を受けたら、どうなるか。どれくらいの風力になるか。
どれくらいの推進力になるか。
残り少ない弾丸の一発を、咲花は、塔屋に向けて放った。全力の、破裂型の弾丸。人間に命中したら、当たった箇所を原型も残さないくらいに四散させる威力。
咲花の放った弾丸は塔屋の壁を壊し、破裂し、爆風を生み出した。
爆風が起こった瞬間、咲花は、全身に薄い防御膜を張った。同時に、背中に爆風を受けながら駆け出した。秀人に向って。
背中が、強力な力で押された。吹き飛ばされずに済んでいるのは、薄く張った防御膜が、爆風の威力を吸収しているからだ。吸収し、吹き飛ばす力を推進力に変えている。
咲花の一〇〇メートル走のタイムは、十二・八秒。単純計算であれば、一〇メートル離れた秀人に、一・二八秒で接近できる計算になる。
しかし、人の動きはそれほど単純ではない。最高速に達するまで、一定の走行距離が必要だ。
塔屋に放った、咲花の弾丸。破裂型の弾丸。生み出された爆風。
咲花の背中を押す爆風は、一瞬で、咲花を最高速へ導いた。それどころか、人の力だけでは不可能な速度を生み出した。
この速度で一〇〇メートル走のタイムを計れば、おそらく、七秒台という記録が出る。
単純計算では、秀人に接近するまで約〇・七秒。
咲花が走り出してから約〇・一秒後。秀人が、咲花の動きに反応した。亜紀斗に叩き付けようとした足を、地面に戻した。
咲花が走り出してから約〇・三秒後。秀人が、咲花に向って指を突き出した。外部型クロマチンの弾丸を撃ち出そうとしている。
秀人が失踪する前。咲花は、彼を目標にしていた。実戦訓練での彼の動きを、いつも参考にしていた。接近しようとする相手の足元を狙い、転倒させる。その戦法は、彼の戦いから学んだものだ。
咲花が走り出してから約〇・四秒後。秀人が、咲花に向って弾丸を撃ち出した。狙いは、咲花の足元。
秀人が足元を狙ってくることは、分かっていた。彼を目標にしていた咲花だからこそ、予測できた。
咲花は、低空で跳び上がった。秀人の弾丸を避けるために。エネルギーの消費を最小限に抑えるため、体に張る防御膜は、最低限の強さにしている。
秀人の弾丸の速度は、咲花の想定以上だった。咲花の記憶よりも速くなっていた。
宙に飛んだ咲花の左足に、秀人の弾丸が当たった。最低限の防御膜しか張っていない、咲花の左足。ブーツが紙切れのように破れ、吹っ飛んだ。裾がボロボロに千切れ、皮膚が剥がれた。衝撃の強さから考えて、間違いなく骨折もした。
だが、右足は無事だ。
右足が無事なら、最後の攻撃はできる。
跳び上がった咲花は、爆風に押され、一気に秀人に接近できた。それどころか、彼の近くを通り過ぎそうになった。
咲花は右足を地面に叩き付け、自分自身にブレーキを掛けた。薄く張った右足の防御膜が、着地の衝撃を抑えた。防御膜の柔軟性が、咲花のバランスを保たせた。
咲花が駆け出してから、わずか〇・六秒後。
咲花は、秀人から見て約三十センチの距離に接近した。
咲花は外部型クロマチンの能力者だ。内部型とは違い、自身の身体能力を強化することはできない。つまり、秀人ですら予測できない速度で、彼に接近できた。
秀人は少しだけ驚いた顔をしていた。驚いているが、余裕もあるようだ。
彼は天才だ。天才であり、努力家だ。外部型と内部型のクロマチンを磨き上げ、知り尽くしている。
知り尽くした天才だからこそ、接近した咲花に対して、こう判断したのだろう。
『この距離では、咲花に攻撃手段はない』
天才だからこそ可能な、瞬きするよりも短い時間での、正確かつ的確な判断。
秀人が天才だからこそ、チャンスがあった。
咲花の体を支えているのは、無傷の右足だけ。このまま何もしなければ、バランスを崩して転倒するだけだ。
もちろん、秀人に接近して転倒するためだけに、こんなことをしたのではない。
秀人に向って飛んでいる最中に、咲花は、すでに準備していた。秀人を攻撃する準備。
左手に作っていた弾丸。
秀人は知らないはずだ。
咲花に、奥の手があることを。
接近しても外部型の弾丸を有効にする、常識外の方法を。
咲花の体はバランスを崩し、ゆっくりと傾いている。
でも、倒れる前に、この一撃を叩き付ける。
左手に作った弾丸を、高速で回転させた。
自分の体の外に出したエネルギー。外部型の弾丸。それを高速で回転させられるようになるまで、かなりの訓練が必要だった。一年以上の時間を費やした。あまりの難しさに、途中で諦めかけた。
『こんな技術を身に付けなくても、もう十分強くなったじゃないか』
自分を甘やかす声が、何度頭に響いたか。挫けそうになった回数など、もう覚えていない。それくらい、難しかった。
――全ては、この時のためだったんだ。
血の滲むような訓練で身に付けた、近距離砲。
咲花は全力で、秀人の脇腹に叩き付けた。
※次回更新は10/20を予定しています。
能力の性質から、戦う距離が明確に分別されている外部型と内部型。
秀人は、双方の能力を使えるからこそ、戦う距離に応じて明確に使い分けをしている。
そんな彼に対して、咲花は、常識外の距離から攻撃を仕掛けた。
では秀人は、咲花の攻撃に対応できないのか。
咲花の判断通り、知り尽くした天才だからこそ対応できないのか。
それとも、天才だからこそ、知り尽くした以外のことも予測するのか。




