第二十九話② 思いを馳せる(後編)
柵から背中を離し、秀人は、一歩だけ咲花に近付いた。
咲花の殺意は薄れていない。警戒心もだ。緊張感が伝わってくる。流石だ。そんな彼女だからこそ、仲間にしたい。
「咲花は、この国をどう思ってる? 凶悪犯を世に放して、過去の事件のことなんて風化させて、傷も痛みも負うことのないこの国を」
「……」
また、咲花は沈黙してしまった。
構わずに、秀人は続けた。
「凶悪犯を生み出しながら、そんな状況を改善しようともしない。かといって、凶悪犯をこの世から消し去ろうともしない。一般人は、犯罪者を批難する。でも、正義感からそうしてるんじゃない。ただ、叩いても許されると思ってるから、叩いているだけ。被害者に寄り添う気持ちも、被害者遺族に手を差し伸べる優しさもない」
数年前に、母子が殺された事件があった。世間は、当然のように犯人を批難した。
残された夫は、何年も苦しんだ。苦しんでいる彼を、支えてくれた女性がいた。事件から数年経ち、犯人に死刑判決が出た後、夫は、支えてくれた女性と再婚した。
すると、それまで加害者を叩いていた者達は、批難の矛先を変えた。
再婚した夫を叩く者が現れた。
『妻子は殺されたのに、残された夫は別の女と結婚するのか』
『殺された妻子を裏切るのか』
被害者遺族に対し、生涯悲しむことを強要する偽善者達。その意思に反したら、被害者遺族すら叩く。そんな、蚊帳の外にいる、心ない怪物達。
「結局、ね。どいつもこいつも、ただ人を叩きたいだけなんだよ。自分達の倫理を押し付けて、他人を批難したいだけ。誰かを否定して、誰かを批難して、自分の正しさを主張したいだけなんだ」
咲花は、秀人の言葉を否定しなかった。
咲花の姉の事件は、今でも、様々なところで話題になっている。ネット上で、動画としてアップロードされることもある。
咲花の姉の事件を、様々なコンテンツで取り上げる者達。彼等の中で、被害者の冥福を祈っている人間は、一体どれだけいるだろう。被害者の境遇に涙を流す人間は、一体どれだけいるだろう。遺族の幸せを祈る人間は、一体どれだけいるだろう。
ほとんど皆無に等しい。秀人はそう思っている。
加害者を叩く者達は、ただ、「悪」と呼べる人間を叩きたいだけ。自分の正しさを語りたいだけ。「悪」を批難することで、手軽なカタルシスを得たいだけ。
この国に生きるほとんどの人は、犯罪とは無縁の者達だ。被害者遺族という立場になることなど、ない人達。そんな者達は、加害者を叩くことはあっても、遺族に手を差し伸べることはない。他人の幸せを祈ることはない。
咲花がどんなに殺しても、どんなに遺族に寄り添っても、どれだけ被害者に手を差し伸べても、何も変わらない。世間は、加害者だけに目を向けているから。でも司法は、加害者に温情を与えるから。
「ねえ、咲花」
「……何?」
「お前の姉を殺した犯人は、一人を残してもうシャバに出てる。主犯も、模範囚であれば、そろそろ仮釈放されるかも知れない」
「そうだね」
咲花は表情を変えなかった。変えないようにしているのが、明らかだった。本当は、悔しくて、悲しくて、たまらないのだろう。自分の家族を殺した人間が、普通に生活できる。普通に社会に溶け込んでゆく。社会復帰するために、様々な手助けを得られる。
遺族には、何の手助けもないのに。寄り添ってくれる人なんて、誰もいないのに。
「奴等は、これから何の罪も犯さなければ、普通に生きていくだろうね。自分の過去を隠して、結婚するかも知れない。咲花の姉を犯して、妊娠させて、嬲り尽くして殺した奴が、妻と子を成すかも知れない」
咲花の拳が握られていた。かすかに震えている。
「誰も、お前の姉には目を向けない。目を向けたとしても、それは、お前の姉を思いやる気持ちからじゃない。お前の姉がどんなふうにオモチャにされて、どんなふうに犯されて、どんなふうに痛めつけられたかだけを見てる。お前の姉を理由にして、犯人を叩くためだけに」
秀人と咲花の距離は、約十四メートルほど。手が届く距離ではない。それでも秀人は、咲花に対して手を差し出した。握手を求めるように。
「でも俺なら、咲花の気持ちを理解できる。殺されたお前の姉に、寄り添うことができる」
咲花は、秀人の手をじっと見つめていた。
「だから、俺と一緒に来ないか? 俺は、咲花の味方だから」
「……でも、秀人さんは、多くの人を殺してるよね? たくさん被害者を生み出してるよね?」
秀人を批難するような、咲花の言葉。しかし、その声に棘はなかった。殺意も感じなかった。
「言っただろ。この国の人間は、自分が正しくありたいだけ。そのために、加害者を叩いてるだけ。被害者に寄り添う気持ちなんてない。そんな奴等、どうでもよくないか?」
咲花は、何も返答してこない。差し出している秀人の手を、見続けている。
「咲花の姉に寄り添う奴なんて、誰もいない。遺族に――咲花に寄り添う奴も、誰もいない」
もう一歩、秀人は咲花に近付いた。
「でも、俺は寄り添うし、寄り添いたいし、寄り添って欲しい」
これは本心だ。秀人は、咲花の気持ちに共感できる。おそらく彼女も、秀人の全てを話せば、共感してくれるだろう。
「俺は、咲花に味方になってほしいんだ。だからこの事件を起こした。こうして、咲花と二人きりで話したくて」
「……それだけのために?」
「ああ。そうだ。今、苦しいだろ? 辛いだろ? でも咲花は、自分が幸せになってはいけない、なんて思ってるんじゃないか? だから、辛い道を自ら選んで、被害者遺族に寄り添おうとしてるんじゃないか?」
咲花の表情が変わった。堪えていた感情が、溢れ出したかのように。
「誰も寄り添ってくれないから、そんな気持ちになるんだ。孤独だから、自分を傷付けるんだ。でも、もう、そんな生き方はしなくていい。感情のままに動けばいい。憎いものは憎い。悲しいものは悲しい。自分の気持ちに正直になりなよ」
咲花の行動と今の表情を見れば、簡単に分かる。彼女が今、どれだけ辛いか。辛さを隠して、幸せに背を向けて、自分の気持ちを押し殺している。
「お姉さんの仇も、好きなように討てばいい。出所した年月と収容されてた場所くらいは知ってるんだろ? その情報があれば、俺がすぐに居場所を調べるから」
咲花は首を横に振った。
「知らない」
「どうして? 出所情報通知制度の申請はしてないの?」
出所情報通知制度は、被害者など一定の範囲の者が、確定判決後に、犯人の情報を通知してもらう制度だ。通知される情報には、収容される刑務所や釈放される予定の年月も含まれている。
「申請してない」
「……どうして?」
犯人の動向は、被害者遺族にとって、もっとも気になる情報のはずだ。犯人を憎んでいれば憎んでいるほど。仇を討ちたい気持ちを、理性で閉じ込めていても。
秀人は、咲花の気持ちが読めなくなった。
また、咲花の表情が変わった。少しだけ笑っている。自嘲気味に。どこか悲しそうに。
「秀人さんの言うこと、半分は当たってる」
「……半分?」
「私は、幸せになりたいとは思えない。お姉ちゃんがあんな殺され方をしたのに、何も知らずに幸せになろうとしてた。知ってるかもしれないけど――婚約もしてた。結婚して、子供を産む未来まで想像してた。そんな自分が、許せないから。お姉ちゃんは、あんな状況で、望まない妊娠をしてたのに」
「罪悪感があるんだろ?」
「そうだね。秀人さんの言った、被害者遺族が抱え続ける罪悪感なんだろうね」
その罪悪感は、秀人にもある。自分だけ生き残った。大好きな家族を犠牲にして。だから、自分の幸せよりも、仇を討つことに人生を捧げている。
「罪悪感があるから。だから、私みたいな人間を少しでも減らせるように――事件に縛られる人を少しでも減らせるように、こんなことをしてる」
咲花は、姉の事件の真相を知った日から、事件に縛られているのだろう。姉を殺した奴等が当たり前のように生きているから、自分の中で事件を終わらせることもできない。
「でもね。こんな私でも、守りたいものくらいはあるから。だから、秀人さんの味方にはならない」
「守りたいもの? 何を守りたいの?」
咲花の顔から、笑みが消えた。目付きが鋭くなった。彼女の手の周辺で、景色が歪んで見えた。外部型クロマチンの発動。
咲花が構えた。発動から弾丸の発射動作まで、全ての動きが速い。
秀人もすぐに対応した。外部型クロマチンの発動。小型の防御膜を張る。
咲花の手から、弾丸が発射された。六発。同時に彼女は、小声で呟いていた。秀人の質問への回答。
「お姉ちゃん」
咲花の姉は、すでに故人だ。守ることなどできない。
それでも秀人は、分かる気がした。咲花が何を守りたいのか。
同時に、気付いた。
――咲花を味方にするのは、難しいかもね。
彼女が放った弾丸を防ぐ。
守るために、秀人に仕掛けてきた咲花。
滅ぼそうとする秀人。
決して相容れないように見える、自分達。
それでもやはり、どうにかして、咲花を味方に引き込みたかった。
※次回更新は9/29を予定しています
六年振りに対面した秀人と咲花。
ともに残酷な手口で大切な家族を失った者同士。
しかし、まったく違う方向性で活動する二人。
現時点で、亜紀斗が彼等のもとに向っている。
まったく方向性が異なる、しかし、同様に、失った大切な人を想う三人。
同じものを見て、別方向に動く三人が揃ったとき、事件はどのような結末となるのか。




